47.来店 二月に入り、アルバイトでは何度か失敗しながらも基本的な仕事は大体覚えた。 といっても、それも接客と掃除と洗い物までで、カウンターにはまだ洗い物以外では入らせてもらっていない。 僕が慣れるまでという条件で混んでいる時間帯は加納君が出てくれているので、その間はめまぐるしく働きながらも僕は加納君の手際を勉強させてもらっている。 昨年末にお客として見学させてもらっていたので、忙しさは知っていたつもりだったのだけど、実際やってみると江角さんや加納君がどれだけてきぱきと仕事をしていたのかが実感できる。 加納君は「俺が出るのは二月いっぱいかな」と言っていたけれど・・・今月中に混んでいる時間を一人でこなせるようになるかいまいち自信がもてない。 そんなわけで、毎日早く慣れるべく焦りを覚えつつ、一心不乱に仕事をこなしている、という状態。 毎回、あっという間に勤務時間が終わる。 カラン 混み始める少し前の時間帯にお客さんが帰った後の机を拭いている時だった。 来店を告げるドアベルが軽やかな音を立てて、僕は「いらっしゃいませ」と声をかけながら反射的に顔を上げ、そこで固まった。 ・・・先生!? コートを身につけ、マフラーに手をかけながら来店したのは、紛うことなく滝沢先生だった。 「そういえば、あの喫茶店って滝沢がよく行くとこだよ。」 バイトに誘われた日の、孝博の言葉を思い出す。 どうして今まで忘れてたのだろう。 おかげで全く心の準備ができていない。 先生は聞き慣れない声が不思議だったのか、マフラーを畳みながら振り向き、僕を見て目を見開いた。 「館斐?」 今すぐ逃げ出したい気分だ。 僕は何とかお辞儀した。 「先生、こんにちは」 先生は不思議そうにしながらこちらにやってくる。 「ここでバイト?」 「あ、はい・・・先月から・・・です。」 「へえ・・・最近あまり来ていなかったから会わなかったのか。」 「はぁ・・・」 学校以外の場に先生がいることがひどく落ち着かない気分にさせる。 僕は顔が上げられず、先生の胸のあたりに視線を固定したまま固まっていた。 「受験も近いんだからあまり無理するなよ。」 先生はそういいながらさっとあたりを見回すとカウンターの方に歩き出した。 すれ違いざま、ぽんと頭の上に手が乗る。 「がんばれよ。」 温もりがふわりと横を通り過ぎ、心拍数が跳ね上がる。 先生はカウンターに座りマスターと親しげに話し始めた。 カウンター席はマスターの担当なので、僕は何もしなくていい。 僕は安堵しながらも、締め付けられるような胸の痛みに息を殺した。 気合いを入れ直すために握った手は、やはりかすかに震えていた。 その後、だんだんとお客さんが増え始め、加納君が来る前に慌ただしくなった店内で、僕はできるだけ先生のことを考えないようにして仕事をした。 まるで磁石のように先生のいるところを意識してしまうのは止められなかったけれど、それでもできるだけカウンターの方を見ないようにして接客に集中した。 やがて加納君がやってきて裏で準備をしている頃になって、先生は席を立った。 僕は奇妙な焦燥にかられながらも平静を装ってレジに立つ。 「お会計860円になります。」 先生は背広の胸ポケットから札入れを取り出し、千円札を一枚、トレーの上に置いた。 「1000円お預かりします。・・・140円のお返しになります。」 自分がうまくしゃべれているかどうかもわからないまま、とにかく仕事をこなすためにいつもの手順を辿る。 小銭を先生が差し出した手のひらにのせる。 「・・・・・・っ」 指先が先生の手のひらに触れた瞬間、思わずびくりと反応してしまった。 ――だめだ、動揺しちゃだめだ! 「――ありがとうございました。」 何事もなかったように振る舞うつもりで頭を下げる。 先生は特に何も言わなかった。 ――変に、思われたのかな。 不安になって顔を上げる。 僕の不安に関係なく先生はちょうど会計のために足下に置いた鞄をとるために屈んだところだった。 すぐに身を起こした先生と、思わぬ至近距離で目が合う。 ふ、と眼鏡の向こうの先生の目が細められる。 「ごちそうさま」 低く囁くように言葉を残して、先生は店を出て行った。 先生の背中を見送りながら、僕は震えの止まらない手を握りしめていた。 先生が帰った後も、重い気分は続いた。 それどころか時間が経つ毎にどんどん重くなっていくようで・・・まるで胸の中を真っ黒に塗りつぶされていくような。 僕は何も考えないように仕事をここなし、そのことに落ち込余裕もないまま店長に挨拶をして店を出た。 店がある通りかを曲がった途端、ずんと体が重くなる。 気が抜けたためだろうか。 まるで徹夜した後の眠りに引きずり込まれる瞬間のような、地面に押しつけられるような重さ。 けれどこんなところで地面に転がるわけにはいかない。 「・・・・・・っ」 なんなんだろう。 一体、なんなんだ。 いつもの何倍もの時間をかけて大通りを抜け、自宅近くの川沿いの小道に入る。 この近辺は住宅街だけれど、大きい通りがないため街灯が少なく暗い。 垣根を避ける気力もなく、時々肩を葉にこすられながら進む。 仕事の間は不調ではあったけれど問題なく動けていたのに、我ながら不思議だ。 体はどんどん重くなり、俯いて足下を見ながら進む。 「――――!」 気がつくと、僕は闇に踏み込んでいた。 孝博、ごめん 『それ』に飲み込まれる瞬間浮かんだ言葉は、意味を捉える前に壊れて消えた。 <> [戻る] |