44.旋律の中
その日、木下君の様子がいつもと少し違うようだった。
木下君は水曜日にはほぼ毎週ピアノを弾きにきているみたいだけれど、休み明けの水曜日、僕は学校に残る気分ではなくてそのまま帰ったため、音楽室には来ていなかった。
だから、およそ三週間ぶりの音楽準備室なのだけど。
木下君もそうなのだろうか?
いつものように同じ曲順で弾いているのに、いつもより生き生きしているように見える。
・・・楽しいことでもあったのかな。
夕焼け色に染まる部屋でぼんやりとそう考えながら、僕は部屋の隅の床に腰を下ろして彼を見ていた。
最初は椅子に座っていたけれど、慣れないアルバイトの疲れが出ていて座り続けるのが辛かったためだ。
七曲目が終わり、木下君は一度手を膝の上に置く。
一呼吸し、再び鍵盤に戻す。
次の瞬間、一音一音を強く、険しい曲が始まる。
――どこかで聞いたことがあるな・・・
どこでだったか。
考えているうちに、『桜』の店内が浮かぶ。
――あそこで聞いたんだっけ?
マスターの元で働いて二週間。
まだ慣れないことだらけで気疲れすることも多い。
そんな中、開店時間にずっと流れている有線のジャズ。
ようやく耳に馴染んできたそれとは趣を異にする曲調だけど。
――・・・店といえば、この間孝博が来たっけ。
様子見、とか言っていたけれど、面白がっているに違いない。
僕の仕事着姿をからかった後はカウンターでマスターと話していた。
・・・どうも孝博は僕の保護者を自任しているているところがあって、それを目の当たりにする度になんともしょっぱい気分になる。
中学の頃の話だ。
当時サッカー部だった孝博は練習試合に何度か僕を応援に引っ張り出していた。
最近はかわし方を心得ているためあまり見られないが、当時の孝博はあれでサッカー部のエースとして女の子にかなり人気があった。
そのため、休憩の度にタオルや飲料を差し出してくる女の子たちに辟易した孝博は試合の間中僕にタオルとスポーツドリンクを持たせて待機させる手を思いついたらしい。
決まった相手がいれば女の子も敵愾心を燃やして不必要に騒ぎ立てることもなくなると踏んでのことだったんだけれど、そのせいで僕はクラスメート女の子から嫌われる羽目になった。
クラスの中心的存在だった女の子が特に孝博を好きだったため、男子も巻き込まれる形でなんとなく僕を遠巻きにしだしたりして、肩身の狭い思いをしたものだ。
そんな状況が変わったのは突然で、その原因とも言える子がわざわざ僕に謝罪しにきたことであっさりと解決した。
思い当たることといったら孝博しかいない。
問い詰めても結局とぼけられて終わったけれど。
つまり、そういう人間なのだ、孝博は。
何にもないような顔をして外堀を埋めてくる。
それは昔から変わらず、初めは無条件に守られているようで反発したけれど、今は半分諦めている。
ああいうやり方しかできないのだと気付いたから。
大抵のことは器用にこなす世渡り上手の癖に、ある意味不器用というか。
僕にできることといったら気付くことだけだ。
といっても、年々巧妙になっていく手口を思えば僕が気づかないままのことも大分ありそうなのだけど。
最後に気付いたのは、あの日のことだ。
あの日の・・・
肩に触れられて、一瞬で意識が覚醒した。
驚いて勢いよく顔を上げると、薄闇に覆われた部屋と、僕に覆いかぶさる影。
それを認識した瞬間、僕は伸ばされた手を勢いよく叩いた。
喉が収縮してヒュッと音を立てる。
僕を見下ろす人影から目をそらすこともできないまま、呼吸が止まる。
「おい・・・」
異常に気付いたのか、影は僕から離れていく。
少ししてぱちりと灯りが点いた。
そこかしこに物が置かれた室内。
防音仕様の壁。
そして片隅にありながら存在感を保っているピアノ。
音楽準備室だ。
廊下に面したドアとは別の扉の方から木下君が戻ってくる。
いつもの無表情で僕を見ている。
初めて話をした日から何度も彼のピアノを聞きに来たけれど、目を合わせるのは今が二度目だ。
彼は部屋の中ほどで立ち止まった。
「・・・大丈夫ですか?」
明るい部屋の中でそうやって立っている木下君は無表情ながらどこか途方に暮れているように見えた。
じっと彼を見つめているうちにどこかずれていた感覚が正常に戻っていく。
強張っていた身体が弛緩していく。
ゆっくりと深呼吸をして、壁にすがるようにして立ち上がった。
今更ながら室内が手がかじかむほど寒いことに気づく。
コートを着ているからいくらかはましだけれど、長時間じっとしていたため身体の芯から冷えきっていた。
見ればピアノの蓋が閉められている。
もう帰るところなのだろう。
僕はいつも彼がまだ弾いている内に帰るので、今日は随分と長居をしてしまったらしい。
眠っている僕を置いていくこともできず起こしてくれたのだろう。
迷惑をかけてしまった。
「・・・ごめんね。」
「すいませんが」
謝罪の言葉が重なった。
「・・・・・・何?」
「名前。なんでしたっけ」
唐突な質問に驚く。
「・・・館斐だよ。館斐紀。」
「・・・そうですか。」
木下君はあごに手を当てて何か考えるようにしながら僕から目をそらした。
ピアノの横に置いてあった鞄を取り、背負う。
「鍵、閉めなくちゃならないんで。」
ポケットから取り出した鍵を振ってみせる木下君に、僕は慌てて自分の持った。
「先に出てください。」
「うん、ごめんね」
廊下側のドアから僕が出るのを待って、彼は反対のドアの近くにあるスイッチで電気を消し、廊下に出てきた。
ぼんやりと鍵を締めるのを見ていると、木下君は面倒くさそうにぼくを振り向く。
「帰らないんですか?」
「あ、うん、帰る。――その、今日はごめんね。」
「・・・別に。」
心底どうでもよさそうに言って、木下君は僕に背を向けた。
「あの――」
「来るも来ないもご自由にどうぞ。俺鍵返しに行かなきゃならないんでこれで。」
こちらを向きもせず行って去っていく。
本当に僕に関心がなさそうだ。
「あ・・・またね」
僕はそう言うのが精一杯だった。
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