ある二人
サンタクロースは遠い北の雪国に住んでいる。
クリスマスの朝、彼はパジャマ姿のまま暖炉に火をつけてアームチェアで一服しながら、今日プレゼントを配る子供たちのことを考える。
どの子に何をあげようか?
夜になると赤い服に身を包み、トナカイをそりに繋いで、プレゼントがぎっしり詰まった大きな袋を載せる
。
そして白い息を吐きながら、トナカイの背中をぽんぽん、と叩いて言うのだ。
「さあトナカイ、今日は大忙しだ。子供たちが待っている。」
――そんなファンタジーが実際にあると、信じていたわけではない。
でも、そんな世界があればいいと、クリスマスツリーを眺めながら考えていた頃はあった。
ちょっとは楽しそうにしなさいよ。
やたらとすっぱく感じる赤ワインと共に、茉莉花は言葉を呑みこんだ。
クリスマスイブ。年末の繁忙期にやっとのことで調整した定時上がり。
なんの捻りもないことは承知で予約したホテルのレストラン。
何も言わなければ今日がクリスマスであることさえ知らないままの朴念仁を目の前の席に座らせて、万を軽く超えるコース料理を砂を噛むような心持で咀嚼する。
こんな面白くもないイベントに必死になっている自分がいい加減ばかばかしくてならないのだが。
――何もクリスマスをどうしてもこの男と過ごしたい、というわけではないのだ。
ただ、最近はイベントというきっかけでもなければこうして一緒に過す事も少ないから。それだけのこと。
しかし、完璧に失敗した。
恋人というカテゴリーにお互いが納まってからもう何年か経っているにも関わらず、友人の延長線の付き合いが続いていたため考えたこともなかった。
この男との恋人同士のイベントほどつまらないものはない。
ただ黙々と何を考えているのかわからない顔でひたすら料理を食している男と、何を楽しめと言うのだ。
そうは思っても、イベント事を楽しむタイプではないと知りながらべたなデートに誘った自分が愚かだったと思えば文句も言えず、それもまた面白くない。
学生時代は仲間内でパーティーをしたこともあったが、社会に出てからはクリスマスを特に意識してこなかった。
仕事が忙しかったし、茉莉花自身イベントだの何だのをさして重要に思わなかったから。
ただ、今年初めて新人教育を任されたのだが、その新人がやたらと嬉しそうに恋人とのクリスマスの約束を話すものだから・・・恋人と過すクリスマスはそんなに楽しいものだろうか、と。
今となってはかわいい後輩の顔すら苛立ちの対象だ。
・・・対象にされた側としたらとんだとばっちりだが。
腹立ち紛れにグラスを空にして、新たにボトルを頼む。
「あまり、飲みすぎるなよ」
席についてからというものだんまりを決め込んでいた男が漸く口を開いた。
かと思えばそんな言葉。
再度口から飛び出しそうになった文句を、拳を口元に当てて抑えた咳に変えた。
「・・・へまはしないわ。」
こちらの突き放した言い方も特に気にした様子はなく、男は再び料理を口に入れる。
「・・・で?」
徐に問われて、ワイングラスから視線を上げる。
正面から目が合った。
「――何?」
その時になって、やっと男の顔に表情が浮かんだ。
「何か話があったんじゃないのか?」
「・・・・・・」
未だに今夜がクリスマスイブだということがこの男の意識の外だからといって、それを嘆くのも今更だ。
「いいえ。特に何も。」
「何も?」
茉莉花は返事をしなかった。
また一杯、ワイングラスを空にする。
すぐにウェイターが歩み寄りグラスを満たす。
男はちらりとボトルの残量に目をやったが、何も言わなかった。
ウェイターが去って、食事を再開する。
「評判のレストランを聞いたから、来てみたかったのよ。」
サラダをつつく段になってから漸く口を開いた。
「この時期に?」
聞き返すのも尤もだ。
二人で食事をするのは特別珍しいことではないが、茉莉花の会社は年末が繁忙期なのでここ何年も12月中に会うことはなかったからだ。
まるで教師に問い詰められている気分で、皿から目を上げられないままアボガドを口に運ぶ。
「・・・今日、クリスマスでしょ。」
ちらっと目を上げると、男は怪訝な顔をしている。
だから何だと言わんばかりの表情。
「だからよ。」
開き直って言う。
それに対して、男は何も言わず、まじまじと茉莉花を見た。
「なによ。」
さすがに不愉快になって、じろりと男を睨んだ。
男は相変わらずマイペースで、茉莉花に応じずにサラダの最後の一口をゆっくりと口に運び咀嚼し始めた。
何事かを考えているのか、目は軽く伏せられている。
なんのよ。
気恥ずかしさも手伝って、大人げなくも拗ねた気分になる。
そこで、やっと気付いた。
今日の自分は妙に浮ついた気分でいるようだ。
横を向いて、夜景を透かす窓を見る。
うっすらと写っている自分の顔は、ここ何年も付き纏い、まるで自分の一部のようになっていた焦燥の陰が、薄らいでいるように見えた。
男が口を開く。
「・・・そろそろ、大丈夫みたいだな。」
「え?」
窓から視線を戻すと、男はテーブルに肘をついて、組んだ手に顎を乗せた。
「あいつが帰ってくる。」
「・・・あいつ?」
「高階だ。暫くは日本に留まるらしい。」
「・・・・・・」
男の真剣な瞳が正面から茉莉花を見つめていた。
茉莉花は男の真意が知りたくてその瞳を見返す。
じっと見るが、男の瞳は逸らされなかった。
その瞳の中にあるのは安堵だろうか。
それとも疎ましさか、苛立ちか、怒りか。
「・・・そろそろ許してやっていいんじゃないか。」
「――許す?」
男の瞳からは何の感情も読み取れなかった。
ただ、真剣にこちらを見つめているだけ。
「あいつはまだお前を」
「やめて」
反射的に答えていた。
高階芳巳。
彼の名前をこの男の口から聞くのは“恋人”になってから、初めてのことだった。
何故――今更。
男のことがわからなくて混乱する茉莉花が見つめる先で、当の本人は、体勢を崩して椅子の背もたれに凭れながら言う。
「『幸せにしてやれ。』と言われたぞ。」
「『その気がないなら俺がする』ともな。」
何の話か、わからぬほど鈍くはない。
高階が――そう、言ったというのか。
まだこの男と付き合う前、茉莉花はこの男と高階芳巳の三人でよく過した。
茉莉花は、高階に少なからぬ好意を寄せていた。
けれど結局、この男と付き合うことになり、高階とは距離を置いた。
卒業してからは年に一度程度食事をするくらいの付き合いだった。
その時はお互いに良き友人として接していた筈だ。
――もう、あの時の感情はなくなっているものと・・・そういう前提での。
デザートが喉を通らない。
ワインの杯を重ねても、気を紛らわすこともできない。
適当なところで男がウェイターに合図して、殆ど手を付けられなかった皿が片付けられていく。
「・・・質の悪い冗談ね」
やっと出た言葉も空虚なもので、茉莉花は不意にそんな自分が可笑しくなった。
少し、酔ったのかもしれない。
二本目のワインはもう三分の一ほどしか残っていない。
「冗談で殴られてたまるか。」
「・・・殴られた?」
驚いて問うのに、珍しくも男がおかしそうにくつくつと笑う。
「だからいい加減、俺もお役ごめんの時期じゃないかと、ね。」
「・・・・・・」
「出よう」
いつの間にかチェックが終わっていたのか、男が席を立つ。
それに従って、茉莉花もハンドバッグを手に立ち上がった。
自宅前。
男の車から降りたところで振り返る。
「お前の好きなようにしろよ。・・・慰めが必要なら来てやる。」
この男は優しい。
何故、こんなにも優しいのだろう。
長いこと、この優しさに甘えてきてしまった。
今がこの優しさを手放す時だというのだろうか。
「但し、お前が幸せになるまでだ。」
完全に体を車に向ける前に、男が少し笑って言う。
「そんなにすぐにどうにかなれるとは俺も思わないが・・・ま、頑張れ」
ドアが閉まる。
男が運転席で軽く手を上げて、車は発進した。
頑張れ。
今まで、男が言わなかった言葉。
頑張れと背中を押されても歩き出せなかった長い間、ずっと支えてきてくれたのだ。
その、無責任にも温かい言葉。
「まさと」
呟いた声は・・・夜闇に一瞬白く浮かび、消えた。
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