36. 顕現 「ありがとう」 父さんはすまなそうに眉尻を下げて書類を受け取った。 僕が予定より遅くなってしまったのもあって、あまり時間はなさそうだった。 「何かあったのか? 迷ったとか。」 何か感じるところでもあったのか、少し心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。 僕は首を振りながら笑って見せた。 「家を出るのに手間取っただけ。遅くなってごめん。時間ないんでしょ? 早く行かないと」 そう言いながら手を振ると、心配そうな顔はそのままで「ああ、悪いな。」と言って父さんは足早に去って行った。 父さんの姿が見えなくなるのを見送って、僕は柱に寄りかかる。 ひたすら、疲れていた。 ・ ・ ・ 夜。 開けた空。 夜空。 東京では見られない数の星。 波の音。 真っ黒な水面。 水面に映る月の光。 砂を踏む音。 砂浜を、海に向かって進む音。 波打ち際まできても、ゆっくりとした足取りは変わらない。 足が水に触れる。 ぴちゃ ぴちゃ 徐々に水は深まり、腰まで水に浸かる。 波に押されて体がゆらゆらと前後に揺れる。 それでも足は止まらない。 腹 胸 肩 顎 爪先立ちになる足。 それでも足で地を蹴る。 大き目の波が体を水中に引きずり込む。 足が、地面を見失った。 唐突に目が覚めた。 というか、目を開けてから自分が眠っていたことに気付いた。 明け方らしく、カーテンを閉めていない窓からの光で、室内は暗い紺色に染まっていた。 「・・・・・・・・・」 久しぶりに、夢の内容を覚えている。 体が堅く強張っているのはいつものこと。 体のは恐怖に塗りつぶされているかのようだ。 怖い 怖い 怖い その感情で全身が重い。 今日の僕はそれが何故か、理解している。 海。 星。 夜空。 そして、砂浜。 その、考えるまでもない符牒。 偶然か? 否。 いや、偶然かもしれない。 そんな筈はない。 大したことない筈じゃなかったのか。 もう済んでしまったことの筈だ。 「犬にでも噛まれたと思って」いた筈。 その筈なのに。 「・・・いや」 ただ、自分の中で処理できなかったから、そのコトに蓋をして、なかったことにしたかっただけだ。 「大したことない事」というラベルを貼って、仕舞い込んでいただけ。 心に封をしていても、体は忘れていない。 分かっていたこと。 本当は、分かっていたことだ。 アノ日―― 僕の世界は変わってしまったのだ。 <> [戻る] |