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32.音楽準備室


僕は耳を押さえながら、ドアノブを開けた体勢のまま動きを止めた男子生徒に目を向けた。

最初に目に入った襟元の学年章からすると、一年生だ。

細身で背が高く、とても年下とは思えない大人びた顔立ちをしている。

彼は僕と目が合うと、表情を変えないまま「すみません」と謝った。

慌てたのは僕の方だ。

「いや、こちらこそ、こんなところに立ってたか
ら・・・」

と、言ってから気付く。

通りすがりを装えば良かったんじゃないか、この場合。

相手の目が不審そうに細められた気がして、目が泳ぐ。

「・・・この部屋に何か?」

「いや・・・」

別に、という言葉を呑み込む。

あのピアノの音色と不審者という汚名(事実)が頭の中で天秤の両皿に乗った。

・・・・・・

「・・・ごめんなさい。」

頭を下げる。

顔を上げた瞬間にまるで未知の生物を見るような目と出会って、床に沈み込みたくなったのは秘密だ。



未知の生物の出現に混乱した末か、それとも単純に寒かったのか。

とにもかくにも彼は僕を室内に招き入れてくれた。

「冷やしますか」と聞かれたのに首を振ると、それ以上何も言わずピアノの椅子に腰掛けた彼。

何も言われないことに戸惑いながらも恐る恐る部屋の隅に放置されていた椅子に座る僕。

僕の位置からは彼の横顔が見える。

「館斐紀っていいます。」

「・・・木下明です。」

「木下、君。」

「はい」

首肯。

沈黙。

無口なタイプ、なのか。

それとも僕を警戒しているのか。

気まずい・・・

「・・・あの、聞いても良いかな」

「はい」

「さっきピアノを弾いていたのって、木下君?」

「そうですが。」

短いけれど返答を返してくれることに安心する。

歓迎されているようには思えないけれど、状況を考えればそれも当然のこと。

逆に、返答してくれる分、いい人みたいだ。

「そうなんだ・・・」

綺麗な音だね。
すごいね。
この部屋は練習室とは違うの?
いつもここで弾いているの?
・・・・・・

言いたい言葉は沢山あるんだけれど、どれも不躾のような気がして、言葉に迷う。

そわそわし始めた僕に、木下君のあの不審そうな視線が刺さる。

「あなたもピアノを?」

仕方なさそうに会話を切り出されて反射的に背筋が伸びる。

「いや、楽器は全然、」

「? 練習室を使用していたんじゃ?」

怪訝そうに聞かれる。
つまり、練習室に練習しに来たところ、この部屋からピアノの音がしたので聞いていた、という状況を推察したということだろう。

確かに新館校舎の奥なんて練習室に用のある人間くらいしか通らないものかもしれない。

「・・・校舎をぶらぶらしていただけです・・・。」

もろもろのことは省いて最初のきっかけだけ言ってみる。

・・・全部の経緯を話すのもあれだしね。

「暇人ですね」

切って捨てられた・・・。

でも、変人とか覗き魔とかストーカー予備軍とか、そう言われるよりはまし、と思おう。

「・・・よかったら、聴かせてもらってもいい? 邪魔なら帰るけど・・・。」

上級生だからと遠慮するようなタイプじゃないらしいので思い切って言ってみる。

木下君は面倒くさそうに僕を一瞥したけれど、「別に」と口の中で呟いた。

「え?」

「聴くのは構いません。練習しているところでいいのなら勝手に聴いてください。」

「いいの?」

「俺は練習するだけですから。帰りたくなったら声かけなくていいんで。」

つまり、練習の邪魔をしなければいても良いということか。

僕はすっかり嬉しくなって頷いたけれど、その時にはもう木下君の意識は反れ、その視線は再び鍵盤に向けられている。

先ほどのぼんやりとした眼差しとは違う。

ひたりと、一つのものに向けられる目だ。


す、


音にならない小さな呼吸音が、聞こえた気がした。




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あきゅろす。
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