20.放課後
HR後、当番だった更衣室の掃除も終わり、帰ろうと思って廊下を歩いていると先生が廊下の終わりにある情報室から出てきた。
まだあちこちで掃除が行われていてざわついた校舎内。
先生とはだいぶ距離があるけど、すぐにわかった。
今日は世界史の授業のない日だったから、先生を見なかった。
いつもの癖で人の波の中に先生の姿を探していたのに、いざ目にすると心臓が跳ねた。
・・・こんな他愛もないことで動じるんだもんな・・・
自分が情けなくて仕方がない。
先生は途中の角を曲がって行ってしまう。
そのまま職員室に向かうのだろう。
僕には気づかなかった。
まあ、当たり前だけど。
今日は特に予定がない。
家に帰って課題をやるくらいだ。
誰かを誘う気にもならないからとりあえず帰ろうと思っていたんだけど・・・
なんとなく、降りるはずの階段を素通りして情報室の方に足が向いた。
パソコンが設置された情報室は週4回、放課後に開放されている。
が、少ない筈の日に当たってしまったらしい。今日は開放日ではなかった。
扉の前に来てはみたものの灰色の引き戸は閉ざされていて、『閉室』のプレートが下がっている。
曇りガラス越しに部屋に灯りがついているのが見えるので情報担当の教師はいるんだろう。
とはいえ、用もないのに訪ねることもできない。
少しがっかりする。
あー・・・どうしよう。
このまま帰ってもいいのだが、なんとなく帰りにくい。
そういえば、僕はあまりこの学校のことを知らない。
部活もやってないし、先生方に頼まれて準備室なんかには行くけど、自分が受けている授業に使用する場所以外は行くことがなかった。
孝博はよく僕に好奇心が希薄だといってくるけど。
僕は別に希薄すぎるほど希薄ではないつもりでいる。
ただちょっと疎いだけだよ。うん。
孝博の場合は好奇心旺盛すぎるところがあるからね。
なんでそんなこと知ってるのかと思うような情報を沢山持っているから、彼は。
―――『楽しいこと、あるか?』
ふと、先生の言葉が頭に浮かんだ。
楽しいこと、か。
別に楽しいことが転がってるわけないだろうけど、校舎を少し回ってみるのも悪くないかも。
探検気分で。
思い立ったが吉日。
そんなに手間のかかることでもない。
とりあえず気持ち廊下の端によって手に提げていた鞄を肩に掛け、胸ポケットから生徒手帳を取り出した。
メモ帳代わりに使ってるために少しだけよれたそれをぱらぱらとめくり、構内図を開く。
複雑な構造でもないのでざっと頭に入れて、早々にポケットに戻して歩き出す。
上から順に回りながら降りてくればすぐに終わるだろう
と、階段に向かう。
情報室があるここは各クラスの教室や職員室がある本館と直接繋がってはいるけれど、一応新館と呼ばれている。
建てた時期は同じ筈だから、便宜上の名前だろう。
ここには情報室の他に実験室や地学教室、音楽室などの特別教室がある。
化学や地学などの他には芸術選択で使うんだけど、僕は本館にある中教室を使用する書道を選択したので、美術室や音楽室がある三階より上には行ったことがない。
情報室と図書室のある一階、地学教室と化学実験室、視聴覚教室がある二階を素通りして三階に着く。
本館と繋がっている1、2階と異なり、3階からは新館が独立しているため、やけに閑散とした雰囲気だ。
最上階の4階に着き、廊下に出る。
構造は各階同じだけど、四階は普段行くことの多い2階とは違って張り紙や広告などの並んだ机などはなく、代わりにロッカーやイーゼルなどが置いてあり、物置部屋の様相を呈している。
廊下をゆっくり歩きながらプレートを確認すると、美術室、美術準備室と家庭科室が向かいあっている。
道具を廊下に出しっぱなしなんてちょっと無用心だな、と思ってよく見てみると、ロッカーは鍵がついているし、イーゼルは特大のものと壊れているものしか置いていないみたいだ。
なるほど。
今日は美術部の活動はないのか、まだ部員が来ていないのか、美術室には鍵が掛かっていて誰もいないようだった。
裁縫の授業で使う家庭科室も同様、カーテンが閉まっていて中の様子さえ見えない。
そういえば、家庭科の授業は必修だから受けているけれど調理とか裁縫の実技はまだやったことがない。
だからここにも来たことがないんだけど、どの段階でやるんだろう。
これだけの設備があるのに授業で使わないってことはないだろうし・・・。
そんなことを考えながら奥に行くと、少し明るくなった。
家庭科室の隣には家庭科準備室と調理室があるけれど、その反対側の美術室準備室の隣は窓になっているからだ。
窓の向こう側には貯水タンクがポツンとあるだけで、ちょっとした空間ができてる。
立ち入りはできないみたいだけど、タンクの向こうには街が見えるし、美術部の人が写生するのには絶好のポイントなんじゃないかな。
してるかどうかはわからないけど。
廊下の終着点に着く。
廊下の奥に着く。ここにも階段があるけれど、Uターンして今度は調理室を覗きながら廊下を戻ることにした。
調理室には何人か生徒がいて、これから何か作るのか道具の準備をしているようだった。
女の子が多いけれど、一人男子生徒が混じっている。
へえ、と思いながら食物区分表などが貼ってある掲示板を横目に歩いて、先程昇った階段を降りた。
三階は音楽室と音楽準備室、練習室が両側に並んでいる。
これがこの学校の特徴の一つ、らしい。
普通科しかない学校なのに妙に音楽に力を入れていて、専用の練習室を5つ入れちゃったという。
辻井によると予約制で、推薦や部活の人で優先順位があるとか。
そのおかげか、過去に有名音大に合格した人とかが何人かいるとか。
おそらく創設者あたりが音楽好きとか、そんな理由だった気がする。
受験のときのパンフレットにそんなようなことが書いてあったような記憶がある。
自分には関係ないことだったからその程度の認識しかないんだけどね。
そんなわけで、この階は音楽が主役になってるんだけど。
三階に辿りついたとき、ちょうど僕のいるところからは一番近い場所にある音楽室に生徒が入っていくところだった。
廊下に出ると同時にがちゃんと扉が閉まる。
防音設備は優秀なようで、音楽室や各練習室に何人の人がいるのか知らないけど、音は聞こえてこない。
下の階からのざわめきが聞こえるくらい、三階は静まり返っている。
それでも少しでも聞こえてこないかな、と思って耳を澄ましながら廊下をぶらぶらする。
四階とは違って廊下には何も置かれていないけれど、壁の掲示板にはコンサートのお知らせ的なポスターが何枚か貼ってあった。
誰か出場したりするのかな。
音楽室は中が見えないようになっているので、その向かいの練習室を覗きながら歩くことにした。
10センチ幅のガラス張りの隙間しかないのでわかりにくいけれど、個人用の練習室だから隙間からでも人がいるかいないかの見分けはつく。
手前の三つは使われていないようだった。
もしかしたら今日は使用日ではないのかもしれないと思いながら、次の練習室も確認するけれど、やはり誰もいない。
一番奥の練習室も誰もいなかったので、ちょっとがっかりしていると、音楽室側、音楽準備室の隣にもう一つドアがあることに気づく。こちもガラスははめ込まれているものの、中側に布でも掛けられているのか中は見えない。
不思議に思ってプレートを確認してみるが、何も書かれてはいなかった。生徒手帳ではこの辺一帯が『音楽室・音楽準備室』で括られていたので、準備室のドアがもう一つあるように見えなくもないが、それにしてはドアの種類が違うし・・・などと考えながらドアに近づいてみる。
と、布が透けて見えないかとドアまで半歩というところまで寄ったとき、中から微かな音色が聴こえてドキリとする。
中は見ないままだけれど、ピアノの音だった。
曲名はわからないけれど、淀みなく弾いていく室内の人は、かなり上手いんじゃないだろうか。
よく聴くと早くて音がいっぱいある、難しそうな曲だ。
気になって、廊下の左右を見回す。
先程から人の気配はまったくしない。
音楽室に人がいることは確かだけれど、今入って行ったばかりで、たぶんすぐには出てこない。
ちょっとだけ、と自分に言い聞かせながら、ドアのすぐ横の壁に寄りかかってちょっと首を傾けた。
ここまで近づくと、結構しっかりと中の音が聞こえる。
曲はテンポアップして、より複雑な音が絡みあっていた。
すごい・・・
クラシックだろうか? どこかで聴いたことのあるような気もするけれど、そっち方面には全然疎い僕にわかるはずもなく。
でも、曲名がわからなくても弾いている人がすごく上手いんだってことはわかる。
息をするのも忘れるようなテンポで駆け抜けて、曲が終わりを迎えたときは状況も忘れて拍手してしまいそうになった。
いけない、いけない。
胸をなでおろしたところで、今度は何の前触れもなく音楽室の扉が開いた。
ガチャっという音に飛び上がって、急いで奥の階段に向かう。
去り際に振り返ってみたけれど、複数の生徒が楽器を持って出てきたところで、誰もこちらには注意を払っていなかった。
階段を降りながらほっと息をついて、そんな自分に苦笑する。
何もそんなに慌てなくてもいいのに。
まあ、用もない一般生徒が三階の練習室前にいるのは不審だろうし、そんなびびりってほどでもない、よね?
うん。
時計を見るとそんなに時間は経っていなかったけど、部室棟以外の行ったことのないところは見たわけで、何だかちょっと満足できたので今日はこれで帰ることにした。
さっきのピアノ、誰が弾いてたんだろう。
音楽の先生かな?
でも、部の指導をしてるんじゃないのかな?
一階まで降りて本館の玄関口に向かいながら、ほんのりと口元が持ち上がるのがわかる。
『館斐、』
『楽しいこと、あるか?』
あのね、先生。
今日、楽しいことありましたよ。
ちょっとだけど、楽しかったんです。
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