16.珈琲と煙草
「・・・・・・失礼します。」
「ああ。来たな。」
扉を開けた先に、以前に一度だけ入ったことのある部屋が待っていた。
床やら机やらに積み上げられた本や資料。コーヒーの残り香や、先生のコロンの匂い。
それらを押しのけるように、前回は入った時にはなかった煙草の臭いが強く、する。
窓が本棚で殆ど隠れてしまっているのにデスクライトしかついていないため、室内は薄暗い。
その部屋の真ん中に、先生が立っている。
資料を探していたらしく何かの本を手に持ったまま、僕の方を向く。
「まあ、入れよ。」
招き入れられて、鼓動を早くする心臓を意識しないようにしながら室内に入り、扉を閉めた。
指し示されたパイプ椅子に腰掛ける。
「ちょっと待ってろ。」
先生は持っていた本を棚に戻し、部屋の隅の方に移動した。
コポコポ・・・と、控え目な音がして、ふわりと香ばしい香りがここまで届いた。
両手にカップを持った先生がこちらに戻ってくる。
緊張してそのカップばかりを見詰めてしまう。
先生は僕の前に来ると少し屈みこんで目の前にカップを差し出した。
取っ手をこちらに向けていて、先生はカップ自体をそのまま掴んでいる。
カップの中からは芳醇な香りの湯気がゆるゆると立ち上っていく。
僕の目はそれを無意識に目で追う。
湯気越しに先生と目が合った。
は、と気づく。
熱くないのだろうか。
「あ、ありがとうございますっ・・・」
慌ててカップを受け取る。
勢いあまって零しそうになってしまった。
に、と笑って身を起こす先生が特に熱そうな様子がないのには安心したものの、なんだか居た堪れない気分でカップの中を覗き込めば案の定、黒い液体。
「コーヒー。」
顔を上げると先生がそう言って少し目を細めた。
「何か入れるか?」
「・・・いえ、」
カップに目を落とす。
先生がいれてくれたコーヒー。
黒い液体にデスクライトの無機質な光が映り、鈍くゆらりと揺れた。
一口飲んでみる。
インスタントのきつい酸味はなかった。コーヒーメーカー、だろうか?
「・・・美味しいです。」
「そうか。」
自分のカップに口をつけながら、先生はノートパソコンと、その周りにたくさんの本やファイルが積み上げられている机の前に立った。
一冊の本を取り上げる。
「これは結構面白かった。」
そう言いながら手渡されたその本に視線を落とす。
そんなに古いわけでもないのに端のほうが擦り切れている。
「ちょっとぼろいけど、勘弁な。」
声に顔を上げると、僕を覗き込むようにして先生が目を細めている。
―――笑ってる?
心臓が大きく鼓動を打つ。
「・・・ありがとうございます。」
僕は何も考えないようにしながらコーヒーを飲んだ。
半分ほどを一気に流し込み、その苦さに顔をしかめる。
少し気が紛れたのはありがたかった。
平常心、平常心・・・
「館斐、」
先生の声にコーヒーがカップの中で波打つのを眺めていた目を上げた。
机の前に据えられた椅子に腰掛けた先生がノートパソコンの画面を見ながら煙草を取り出すところだった。
ここからだと机に向かっている先生の横顔が見える。
「はい・・・?」
「楽しいこと、あるか?」
突然の質問。
何を聞かれているのか把握しかねた。
先生は何が聞きたいんだろう?
言葉が見つからずに戸惑って先生を見るが、咥えた煙草に火をつけず、先生はパソコンを見続けている。何かを答えなければならない状況のようだ。
でも、楽しいこと?
「・・・・・・ありますよ。たくさん。」
「そうか」
取り敢えずの答えを返したら、どうやらそれで納得したらしい。
先生はパソコンを見詰めていた目を閉じた。
先生は、
先生は何を聞きたかったんだろう?
誰に?
僕に、それとも『生徒』に?
わからない
先生はすぐに目を開けて煙草に火をつけた。
紫煙がふわりと部屋に漂う。
先生の目はそれを追って天井に向けられ・・・慌てたように僕に向いた。
不意打ちの上真正面で目が合う。
心臓が跳ね上がったかと思った。
「悪い。煙草、平気か?」
「え!? あ、はい。大丈夫です。」
さっと目を逸らした。危ない危ない・・・
いくら自分から近づこうと決心してきたからといって初端からこんなに接近するとは思っていなかったから心の準備が追いつかない。
このままでは誤魔化し切れないくらいの墓穴を掘ってしまいそうだ。
そう思って、僕はコーヒーの残りを流し込んで不自然に見えないよう祈りながら腰を上げた。
「それでは、この辺で失礼します。」
先生は一瞬「え?」という顔をしてから、
「ああ・・・」
と席を立った。
やっぱり、不自然だったか・・・。
どこが不自然だったのか自分ではわからないが、多分他人から見たら唐突な行動だったんだろうと思って、自分の不器用さに少し落ち込んだ。
先生の前だと普段は自然にしている筈のことが妙に気になってしまうみたいだ。
内心でため息を吐きながら差し出された先生の手にカップを渡す。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです。」
「そうか?」
先生は口元をゆがませて笑いながら流しに二人分のカップを運ぶ。
僕は借りた本を手にとって扉に向かった。
「本、ありがとうございます。」
「ああ。」
「失礼します。」
扉を開けて廊下に出る。
「また、来るといい。」
部屋の中の先生が、言った。
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