9.夏休み-2-
いつの間にか石の上に寝ていたらしい。
パーカーを着ているもののさすがに肌寒さを感じて目が覚めた。
景色は一面紺色で、海は眠りに就こうとしている。
時間を確認すれば7時。相当呆けていたらしい。
孝博はと浜辺を見回すが姿が見えない。
飲み物でも買いに行っているのだろうか。
孝博の他にも、浜辺は無人になっていて、僕はそれに気づかなかった自分に苦笑する。
浜辺からは見えにくい岩の上なんかに伸びていたから、孝博は僕が彼をおいて帰ってしまったと思ってきっとペンションに戻ったのだろう。
早く帰らないと心配しているかもしれない。
そう思って立ち上がる。
全身日焼けしているらしく動くたびにそこかしこの皮膚がぴりぴりと痛む。
「シャワー浴びたらすごく痛そう・・・」
かといって浴びないわけにもいかないか。
一度浜辺に下りて車道に上がるための階段を登る。
電灯もなく真っ暗な道。
後ろを振り返れば空との境界もわからない暗い海が、まるで誘うように広がっている。
少し怖くなって上を見上げれば満天の星空。
―――まさに夏、という感じだなぁ。
どうやら少し寝ぼけているらしい。
車道に突っ立ったまま空を見上げて、しばらくぼうっとしてしまっていたらしかった。
「そんなところで何してる?」
突然話しかけられて驚いた。
慌てて視線を地上に戻せば、5メートルくらい離れたところに人影が見える。
月の光でかろうじてシルエットだけは見えるけど、それ以外はなにもわからない。
声の感じからして若い男の人みたいだけど。
僕が警戒して黙っていると、男に人はゆっくりとこちらに歩いてきた。
逃げたほうが良いかな。
周囲には誰もいない。
ここら辺は100メートルくらい間を空けてぽつぽつと店が立っているだけなので、この時間は本当に人がいないのだ。
ざり、ざり、
男の人の足音の他は静かな波の音しか聞こえない。
逡巡しているうちに男の人は僕の目の前に来てしまった。
孝博と同じくらいの背だろうか。
男の人はその長身を屈めて僕の顔を覗きこんだ。
「・・・・・・・・・・」
僕は顔を上向けているわけで、僕からはその人の顔は見えないけれど、僕の顔は見えているのだろうか。
「迷子か?」
先生みたいに掠れていない、聞いていて落ち着くような静かな声。
笑いを含んだその声音は存外優しいものだったけど。
「・・・違います。」
僕はむっとして答えた。
「じゃあ、何してたんだ?」
別にしていたわけでもないから答えようがない。
そもそもそんなことをこのどこの誰かもわからない人間に言えと言うのだろうか。
自分がどうするべきかとっさに判断がつかずに黙っている僕をどう解釈したのか、男の人は「ふむ、」と身を起こした。
それから徐に階段を半ばまで下りて、そこに腰を下ろした。
「来いよ。」
相変わらずその人は正体不明だ。
でも
僕はなんとなくさっき登った階段を再び下りた。
「ま、座れ。」
ぽんぽんと自分の横の石を叩く。
僕はその人から身体一つ分くらい離して座った。
「ふーん」
「?」
男の人は僕の空けた彼との距離を眺めて頷いている。
「いや、なんでもない。・・・お前、夜の海は好きか?」
「・・・・・・嫌いではないです。少し怖いけど。」
この人は僕に興味があるというわけではないようだ。
自分のことも話さないかわりに僕のことも聞いてこない。
名前とか、そうゆう個人情報。
僕を『館斐紀』としているものを。
だからかな。
隣には確かに背の高い男の人が座っていて、僕に話しかけているのに、なんだか僕は一人で階段の真ん中に座って海を眺めているみたい。
潮風に乗せて問いかけてくるのは、まるで目の前に広がる海そのもののような気がして。
「あなたは、昼と夜どちらが好きですか」
「―――・・・昼、かな。」
てっきり夜と答えると思った。
声の静けさが昼のあのパワフルな明るさと正反対だったから。
「何故です?」
僕の問いかけに、その人が少し笑ったような気がした。
「昼が好き、というよりもね・・・今は・・・夜が嫌いだから・・・かな。」
「・・・・・・・」
「夜は、あいつの匂いがする・・・」
「・・・だれか、嫌いな人ですか?」
それとも、好きな人?
「―――そうだね・・・。嫌いにはなれない。あいつは昔から結構一緒にいることが多くて、沢山の時間を共有してきた。何度も助けられたし、すぐに道を踏み外す弱い俺のけつを蹴飛ばすようなやりかただったけど、何度も正しい道に送り返してくれた。あいつとは対等でいたかったし、実際そうあるように努力してきた。いくら返しても返したりないくらいだけど・・・あいつの弱いところも知ってると思うし、フォローもした。あいつが俺をどう思っているのかはわからないけれど・・・俺はあいつを唯一だと思っている。」
「特別な人?」
「そう・・・特別。」
どんな思いなのだろう。
目の前の、この静かに淡々と話す人の、特別な人。
その人もこの人を特別に思っているのだろうか。
「だから嫌いにはなれない。好きか嫌いかと問われれば好きだと答えるし、あいつとはいつまでもそうゆう関係でありたいと思ってる。」
それはとても大切な思い。
誰かを唯一の存在と断言できる、その人との未来を強く願うことのできる、大切な思い。
その思いを培ったものは何だろうか。
積み重なった経験。
共有した思い。
その人に対する自分への誇りと矜持。
誰かを救うことは容易ではない。
その人を深く深く理解していないと、本当に救うことはできない。
長い間、この人とこの人の特別な人はお互いを支えあってきたのだろうか。
相手がよろめく度にすかさず手を貸して、もろともに自分も転ぶことを考えもしないで、
深い理解と深い思いで。
「でもな、今はあいつが憎い。」
「―――・・・・・・嫌いにはなれないのに?」
「そう。嫌いになれないのに憎い。俺の愛した人があいつを愛しているから。」
「―――――」
「好きで憎くて、あいつに憎しみを抱く俺を、俺はたまらなく嫌で。あの人が愛しくて、あの人が俺を思ってくれないことが死んじまいたいくらい悔しくて。その、俺が欲しくてたまらないものをあいつが持っていることが許せなくて―――もう、自分でもどうしたら良いのかわからない。・・・子供だなーって、思うんだけどな・・・」
それは様々な激情。
感情の奔流。
この人はどうしてそんなにいろいろな思いを、自分を見失うほどの思いを、こんなに静かに語るのだろう。
変わらず暗いこの夜の海のように
こんなにも静かに。
「・・・・・・その、あなたが好きで憎くて許せない人は、何を思っているんですか・・・?」
いつの間にか目が暗闇に慣れてきたらしい。隣を見れば、そこに座っている人の顔がぼんやりと見える。
その人は、ちょっと哀しげに笑った。
「わからない。・・・・・・はっきりしているのは、あいつがあの人を愛していないこと。」
「・・・・・・?」
「愛してないけど、黙って受け入れてる。」
「それって、愛してないのにその人の愛には応えているということですか?」
「そう。あいつは昔からそうゆう奴。抱いてと言われれば抱くし、愛してると言われれば『どうも』と笑う。愛してると言って、といわれれば躊躇いもなく愛を囁く。でも、たぶんあいつは誰も愛していないし、愛してもらいたいとも思ってない。他人にはそれなりに興味を示すけど、自分にまったく興味がないんだろうな。だから誰かに愛とか憎悪とかの強い感情を抱かないんだ。好き嫌いの表現はそれはもう激しいくらいだけどな・・・」
「・・・・・・それなら、」
「ん?」
「あなたのすることは一つじゃないですか。」
「え?」
「何を迷うことがあるんです? 愛してる人を奪えば良いじゃないですか。」
「え・・・・・・―――でも俺は・・・」
「『その人の愛の深さを知っているから』? だから諦めるんですか。」
男の人は驚いたように僕のほうに顔を向けた。
薄ぼんやりとだが見える、月の光を白く反射しているその顔につたう、静かに流された涙の跡。
「僕は愛している人には幸せになって欲しい。その人を幸せにするのが僕ではなくても、最上の幸せを与えてくれる人の元で最高に幸せになってもらいたいと思います。僕はその人の愛が欲しいけど、たぶん僕ではその人を幸せにはできないと思うから。僕にはその力がないと思うから。」
悔しいけど。
本当に死んでしまいたいくらい、僕が彼を幸せにできないことが悔しくてたまらないけど。
でも、差がありすぎて。
僕はその壁のあまり高さに諦めるしかない。
「でも」
それでも例えば―――
「その人が一緒に幸せになりたいと思う人が、その人を自分が与えられる以上の幸せを与えられないのだとしたら・・・自分のこの思い以上のものをその人に与えないのだとしたら・・・僕は僕のこの思いをその人にぶつけます。その人に最上の幸せを与えたいから。その人にはこれ以上ないというほどの幸せを手に入れて欲しいから。・・・それでもその人が別の人を選んだとしても。せめて伝えたい。あなたの幸せを願うものがいることを。僕の思いを・・・」
少しでも彼の道に入る余地があったとしたら・・・
「君は、すごいね・・・」
「・・・・・・え?」
この人は何を言っているんだろう。
すごくなんかないからこうして先生を諦めなければならないのに。
「いろいろな感情や思いの中から一番大事なものを見つけ出すことができる。・・・君はすごい。」
「・・・・・・」
いろいろな思いが渦巻いた。
愛しさや、憎しみや、悲しみや痛み。
そして渇望。
身体の熱。
泣きたくなるような言葉に出来ない何か。
それらは膨らんだり縮んだりして、入れ替わり立ち代り胸の中に溢れ出て心をかき乱した。
でも、その間中。
時には押しつぶされたり震えたり消えそうになったりしながら、ただ一つ、『先生の幸せ』。
それだけが心のずっと奥のほうにあって動かなかった。
それだけが静かで、それ故に確実に、存在していたのだ。
「あの人の幸せ、か・・・」
男の人は呟いて、ゆっくりと立ち上がった。
僕も倣って立ち上がる。
「・・・訊いてみるよ、あいつに。いろいろと。」
「一発殴ってみたらどうです? お前にあの人はわたさーん! って。」
にやりと笑いながら言った僕に、その人もくすくすと笑った。
「冗談。『ほう・・・』とか言って半殺しにされちゃうよ。」
「・・・どんな人なんですか?」
「説明するのは難しいなあ。すんごく屈折してるから、あいつ。」
僕らは笑いながら階段を登った。
「名前、聞いても良い? 俺は高階芳(よし)己(み)。」
「館斐紀です。」
「タテイカナメくん。よいアドバイスをありがとう。君
は俺の愛の師匠だ。」
あ、あれ? この人、こんなに軽いノリの人だったのか・・・? それにしても、愛の師匠って・・・。
「頑張ってくださいね。」
タカシナさんはひた、と僕の目を見た。
「・・・・・・?」
「君の恋は、頑張れないものなのか?」
「・・・・・・っ、―――僕は・・・」
「紀ッ」
突然、孝博の怒鳴り声がした。
「おっまえ何してんだよ! 探してたんだぞ!」
すごく怒ってる。
怒鳴りながら走ってくる孝博に「ごめん!」と返してから、僕はタカシナさんを見上げた。
「すみません、もう行きます。」
「・・・ああ。」
「ここにはもう来ないんですか?」
「いや、当分この近くの宿に 泊まっているから。」
「よかった。機会があったらまたお話しましょう。」
「ああ・・・」
「かーなーめー! コノヤロォッ!」
「あ、では。岩場で寝ちゃってたんだよ! 孝博が置い
て帰ったんだろ!?」
「あ!? そうなのか? 俺はてっきりお前が俺のモテぐあいに拗ねて帰ったもんだとばかり・・・」
「何だソレ!? ありえないヨッ」
「・・・オイ、なんだ? その否定の仕方。どういう意味だ?」
僕たちが声高に言い合いながら連れ立って去っていくのを、タカシナさんはくすくすと笑いながら見送っていた。
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