キミのためにできること ▼記憶 足元から崩れ落ちていくとは、こういう事なのだろうか。 「記憶喪失?!」 「えぇ、一時的な物であるとは思うのですが」 何も聞きたくない。 近藤さんと担当医の話し声が、遠退いていく。 「トシ、」 「近藤さん・・・萌は、クソっ!」 怒りなのか、悲しみなのか、得体の知れない感情が腹の奥から湧き上がる。 「トシっ、止めろ!」 壁に打ち突ける拳を抑えられた。 俺の拳は、血が滲んでいた。 痛いはずの拳は、ちっとも痛くない。 心が痛かった。 「話してみろ、トシ」 俺は、今日の事を話した。 それから、萌との事。 「俺は、萌を愛してただけだ」 「トシ・・・」 近藤さんが、俺の肩をがっしりと抱いた。 「大丈夫だ、トシ」 「近藤さん・・・」 俺は、泣いていた。 悲しくて、情けなくて。 萌の目が、悲しくて。 何も出来ない自分が、情けなくて。 「愛があれば、どうにかなる。俺も力になるから」 愛が、あれば。 萌は、また俺に笑いかけてくれるだろうか。 愛が、あれば。 萌は、俺の名を呼んでくれるだろうか。 愛が、あれば。 もう一度、俺を愛してくれるだろうか。 愛が、あれば。 ▽ 空の紺色が薄くなった。 薄くなった白い部分は、その範囲を広げて夜明けを告げる。 朝の冷たい空気を思い切り吸う。 体の中に、ひんやりとした空気が流れていく。 長い一日だった。 「トシ・・・」 俺は、煙草に火を点けた。 「先生の話では、まだ先は分からないそうだ」 まだ、先は分からない。 それは、記憶が明日には戻るかもしれない。 だが一生、戻らないかもしれないということ。 「俺は、一体どうすればいいんだ」 「トシ・・・」 何も、考えたくない。 「俺たちも、少し休もう。それから今後を考えよう」 「今後だと?」 この先に、何があるって言うんだ? 何が、待ってるんだ? 希望もクソもない。 「ほんの少しでも可能性があるなら、俺は信じるぞ」 近藤さんは、朝陽を浴びて白い歯を更に光らせて笑って言った。 「近藤さん、」 未来に。 萌の見る未来に、俺も一緒に居させて欲しい。 俺の隣で、笑っていて欲しい。 そう願いながら、俺は意識を手放した。 [*前へ] [戻る] |