三國5 G 凌統は、歯を食いしばりながら思い出していた。 建業の練兵所で、自分の兵卒たちと顔を合わせた時のこと。 兵達は皆、いつもと同じ顔だった。真面目な表情で真っすぐ前を見つめ、唇を真一文字に結んでいる。 何と声を掛けようか。 無意識に喉を上下させて戸惑う己に、横からそっと副将が、号令をと声をかけてきた。 久しぶりに大きく息を吸って、それじゃあやるかいと言った途端に、凌統を覗くその場にいた全員が声を挙げて応えた時のこと。 そして、合肥に着陣した日のこと。 久しぶりの戦だ。自分の体を少しでも早く元に戻さなくてはいけないし、孫権に貰った三節棍も身体に馴染ませなければいけない。凌統は荷駄を確認してすぐに、兵卒相手に鍛錬をして汗を流した。 その夜、兵卒の一人が凌統の幕舎を訪ねて来た。 何事かと通したらそのまま押し倒された。兵は何かに怯えて震えながらも、凌統の両腕を地に縫い止めて離さない。 あの狂った夜が忘れられない兵だった。 そういう者もいるだろう。怯えているのは上官への行為に対してか。 これは自分の撒いた種だ、仕方がない。凌統は少しも抵抗せず、じっと兵卒の目を見据え、口を開いた。 (手を出したいなら出せばいいよ。でも俺は全力で抵抗する。そんな俺に、あんたは太刀打ちできるかい?) 兵卒の力が緩んだ。しかし凌統は動かない。 (力じゃあ、あんたは俺に叶わない。分かってるよな?だからあんたはあんたの仕事をしなよ。そうやって立派に働いてくれたら、そうだね・・・酒でも酌み交わそうぜ。) (・・・最初から、そうすりゃよかったのにな。) 凌統は目の前に迫る敵の大軍を見、不敵に笑った。 合肥の戦は、孫呉の優勢に始まったが魏にしてやられた。 張遼の奇襲にまんまと嵌ってしまったのだ。 味方は潰走し、太史慈が死んだ。 撤退する孫権を皆で守り、凌統はその退路となる橋を死守せんと、魏軍を迎え撃つため立ちはだかる。 殿はどこまで逃げただろうか。 無事だろうか。 殿を守るためには、一人でも多く倒さなければ。 生きて帰れるかな。 いや、殿を守ればいいんだ、そのためなら死んだっていい。 ・・・そうだ、死んだっていい。 来た。 魏の騎兵と槍兵が、黒い濁流のように押し寄せてきた。 怖い。足が震えそうだ。逃げ出したくなる。でも。 「退いてらんないんだよ・・・みんな、死ぬ気で守ろうか!」 無意識に張り上げた声は己を鼓舞するためでもあった。 返ってきた応えは力強く胸に響いて、この戦が終わったら皆で酒宴を開こうと心に決めて、凌統は走り出した。 戟に比べれば殺傷能力は低いものの、三節棍は全く使い勝手のいい得物でよく身体に馴染んだ。 敵に軌道が読まれにくく、大きく振り回せば馬の足も絡め取ることができ、騎乗の敵も狙える。 凌統は誰よりも最前に躍り出て、武を奮った。 暫く練兵をしていなかったとはいえ、感覚は戦いながら戻ってきた。しかしそれでも、敵兵たちは凌統の横をすり抜けて、後ろで戦う兵卒に迫る。 断末魔。 胸の奥が詰まる。 しかし、動かなければ自分が殺られる、凌統は前だけを見て叫んだ。 「橋を落とせ!敵さんに橋を渡らせるなよ!」 それは即ち、自軍が背水となるということ。 だがそんな事を考えている余裕などない。 敵の騎兵が塊となって突撃をしてきては、隊列が揉まれ散り散りになる。何とか弓兵でそれを止めようとするが、横から槍と戟が飛んでくる。数が圧倒的に違う。 「くそっ、次から次へと・・・!」 再び、騎兵の塊が方向を変えて迫ってきた。 凌統は舌打ちをして、大きく飛んだ。空中で棍を大きく振りかぶり、回転しながら落下して強く地面に叩きつける。 衝撃とともに多数の馬や敵兵が吹っ飛んだが、凌統自身も空中で腕に矢を受けてしまった。 「将軍!」 「俺は大丈夫だって!死にたくなかったら戦いな!」 後ろから泣き叫ぶような声に、凌統は矢を引き抜いて応えた。 みるみる傷から血が溢れ、流れ落ちるが、それでも腕は動く。足も動く。こんなもの傷のうちには入らない。 例え腕が一本になろうとも、死にたくなかったら戦うだけだ。でも、死にたくないと思っても死ぬ時は死ぬ。今がまさにそれかもしれない。 ならば、ここが死に場所だと思って・・・ (死に場所は自分で探せ。) 頭の中に、鈴の音と共に忌々しい声が響いた。 「・・・ちっ、嫌な野郎を思い出しちまった。」 凌統は、傷の痛みを思い描いた仇のせいにして、大地を蹴り走り出した。 矢を身体に受ければ、すぐに身体から引き抜いて、棍を奮った。 迫る刃は何とか身体を捻って急所をずらして受け止め、仕返しに頭をかち割った。 時々意識が白むのを無理矢理吹き飛ばし、何とか立っていると分かれば再び身体を動かした。 ふいに、敵の攻撃が止み、周りの音が聞こえなくなった。 いつだったか、邸に閉じこもっている時も、何も音が聞こえない時があったがそれに似ている。 あの時は周りが全て黒く見えたが、今は全てが赤い。 自分の手足も、得物も、空も、大地も。 ただ、血のにおいのする風が吹きすさぶだけ。 (撤退・・・しなくちゃ・・・。) 凌統は何か声を上げた。 それは嗚咽だったかもしれないし、鼓舞だったかもしれないし、悲鳴だったかもしれない。 みんな、後ろからついて来ているだろうか。 後ろは振り返れなかった。かといって前を見る気力もなく、ただ、首を項垂れながら、孫権が撤退していったほうへと足を前に進める事しかできなかった。 「・・・橋・・・」 撤退のための橋は、なかった。 大蛇のようにゆったりと流れる江が、橋の残骸を飲みこみ、何も語らずに居た。 凌統は一度空を仰ぎ、そして赤い大地を蠢く己の黒い影に視線を落とした。 あの忌々しい夜に立ち切った髪は、いつの間にか結いあげられるくらいには伸びていた。 時は確実に流れている証拠。 ここにいても、仕方がないのに。 進まなければいけないのに、道がない。 何故か涙が流れた。 溢れて溢れて止まらない。 「ああ・・・。」 流れる江の音は何かを思い出す。 それは、父が死んだ夏口の雨。 雨の音はいつの間にか鈴の音に変わり、誘いこまれるように凌統は岸辺から江に身を投げた。 Hへつづく [*前へ][次へ#] |