三國4 思念草(凌操) 俺はあの日、雨に打たれて死んだ。 前を駆ける者は誰もいない。 戦で先鋒として武勲を積めば、きっと孫策殿に重用される。だから戦では常に先鋒であり続けた。この戦でも志気を高く持ち、疾風の速さで黄祖をこの手で討ち取ればいいだけのこと。 敵の拠点を抜けた時だった。 焼け付くような寒いような何かが体を突きぬけて、体の力が抜けた。 進まなければと足を一歩前で踏み出したが体に力が入らず、どうと地に倒れた。 立ち上がろうとしても、手足が全く言うことを聞かない。 とても寒い。こんなにも寒いのはきっと雨のせいだ。 そうだ、俺はこの雨に打たれたのだ。 だからこんなに濡れているのだ。 後ろから息子が俺を呼ぶ声が聞こえたような。 統、統。 たった一人の俺の愛する息子。いつの間にか俺の背を超えて・・・強くなった。今お前はどんな表情をしている、見えない。 目が見えない。そして、静かだ。毎夜眠りにつく時のように。 あの子はまだ乱世に慣れていない。果たして俺が居なくなっても己を保っていられるだろうか。 誰か、あの子を・・・。 統を助ける奴は誰かいるのか? 居ないかもしれない。 では、あの子はどうしたらこの広い空の下で歩いて行けるんだ・・・! 一瞬ふわりと浮いた体が、まるで大地に引き戻されたように再び肉体に落ち着いた。 途端に見えなくなった瞳が突然見えるようになり、戦場の音も聞こえるようになった。 統が泣きじゃくりながら俺の体を抱いている。俺は大丈夫だから、お前は砦を落として来いと言ったのだが、届かなかった。 伸ばした手は統を掴まず、その体を擦りぬけた。 「父上・・・ッ」 悟った。 俺は・・・まだこの世に居るのか。 その後の統は、見ていられなかった。 人前では普通を装っているが一歩邸に入れば膝をかかえ、俺の衣服を見ては嗚咽を漏らす日々。俺が殺した兵の家族もこんな日々を送っているのだろうかとふと思った。 たった一人の家族だった。 二人きりの親子で、ずっと暮らしてきた。 気が狂うように泣いている息子を、どうして放っておけようか。 例え透けようとも、何度もその体を抱きしめて慰めた。 (統、変な気だけは起こすなよ。俺は、ここにいるからな。) しかし。 ある日、甘寧という男が仕官してきた。 この甘寧という男は元水賊らしく、頭に羽、腰に鈴をつけて、やたらと目つきが鋭く、得物も体躯も身にまとう全てが、常に標的を探しているような男だった。 統の悲しみは奴への憎悪に変わった。 この男が俺を殺したようなのだ。 だが、俺は俺を殺した者の姿を見てはいない。 この男に俺は殺されたのかと思うとそれなりの念は沸いたが、それは生を断ち切られた無念であり、奴に対しての憎悪ではない。甘寧という男もそれを分かっていた。 分かっていないのは・・・。 「父上の無念に比べれば・・・」 統の傍には極力近づかぬようにした。親の仇を取るのが子どもの義務とはいえ、憎悪に駆られた息子の姿など見たくはなかったのだ。 俺は音もなく建業を彷徨う日々を送っていた。 統は俺の墓を作ったらしい。 “らしい”というのは、人の噂で聞いたからである。ここに存在しているのに、自分の墓など見る気も起きるわけがない。 俺と同じような者は時々居た。片腕がなかったり、首がなかったり、人型を成さず半妖となっていたり。色んな者がいたが、話しかけても皆反応はなかった。 どうして俺は天に還らず、地に縫いとめられているのだろう。 何かに未練があるとすれば、統のことだ。 しかし俺はあんな息子が見たいわけではないのだ。このように見ているだけの存在であることは、苦にしかならない。 いっそ、存在全てが消えてしまったのなら、よかったのに。 城の柵にもたれ、生ある官たちの往来をぼんやりと眺めていた。 前から若い将がこちらに向かって歩いてくる。少年と青年の狭間にいるような、とても若い将だ。 このまま歩いてくるとあの将は俺の体を通り抜けてゆくのだが、彼は俺の瞳をじっと見つめている。 そして、俺の目の前で横にずれた。 まるで俺の存在を理解しているかのように、普通の“人”とすれ違うように。 さらに、通りすぎる時ほんの僅かに流した瞳と再び目があった。 直感的に思った。彼は俺が“見えて”いる。 そう思ったら、過ぎ去ってゆく背中に話しかけていた。 (御免、貴公は俺が見えるのか!?) (貴公は俺の言葉が分かるか!?) (失礼、俺は凌操という。孫策殿に仕えているのだが・・・) 聞こえていないかもしれない。もし、聞こえていたとしても、俺のような存在の声に耳を傾けないかもしれない。 それでも、願いは生ある者と一緒なのだ。 届いて欲しいと思う気持ちも、存在しているのだ。 将の歩みが立ち止まった。 ゆっくりとこちらを振り向き、口を真一文字に結んだまま、俺の瞳を表情のない目で見つめる。 将は、ふうと小さくため息をついて、やや距離を詰めて小声で話しかけてきた。 「ここでお話を伺うと、私は壁と話しているように見られます。私の房へ参りましょう。」 踵を返した彼の後ろを、俺は音もなく付いていった。 城の中の彼の房は、統の房から近い所にあった。 房の扉は常に開放されており、官たちの往来がよく見える。 彼は静かに椅子に腰をおろして机の上にいくつか書簡を並べてから、俺に向かいの椅子に座るようさり気なく手で合図を送った。 促されるまま席について、卓の上の書簡を少しだけ見た。内容は兵法についての書簡が殆どであり、今現在見ている物は孫子に基づいて書かれた、より実戦で使える細かい陣形や策、それから合図の送り方などだ。望み高い将のようだ。 (貴公は、俺以外の奴等も見えるのか。) 「はい。昔から。よく変な子供だと言われていましたよ。でも、こうして話せる方は少ないのですけれど・・・ああ、自己紹介がまだでしたね。私は陸伯言と申します。」 (何と、陸氏だと!?) 「はい。最近孫策殿に仕官しました。貴方のお話は伺っています。」 (おお、俺を知っていたのか。) 「ええ。まさか、このような形でお会いすることになろうとは、思ってもいませんでしたが。」 (では話が早い。「凌統殿のことですか?」 伯言殿は俺の言葉を遮った。柔和な顔に似合わず強い口調だ。 しかし目線は机の上の書簡に落としていて、さも執務をしているように見せかけていた。 さらに筆を持って、器用に話しながら書簡に文字を書き出した。統よりも若く見えるが、実に流麗な文字を書く。中々侮ってはいけないようだ。 「凌統殿はお元気ですよ。ご覧になっていないのですか?」 (ああ・・・。貴公は、統とはどれくらい親しいのだ?) 「最近仕官したばかりですから、挨拶をする程度です。ですが、凌統殿のお人柄は耳に入ってきます。兵達にも気さくに話していますし、お一人で鍛錬されている様子もよく見かけますよ。真面目な方なのですね。」 (そうか。奴の武は申し分ないぞ。俺が鍛えたからな。ただ、統は自分を過小評価する節がある。あれをもうちょっと直すと良くなる。) 「ふふ、そうなんですか?」 (ああ。それから時々皮肉が過ぎる所もあるのだ。根は誠実なんだが・・・。それから気がかりなことが・・・。) 「甘寧殿のことですか?」 (・・・。俺はあの男に真っ向から立ち向かい殺されたわけではない、あの男に殺されたかどうかすら、分からない。) 「・・・。」 (しかし、統は俺が殺される所を見ている。) 「・・・。」 (許せないことは解る。統が“乱世”という言葉で全てを飲み込めぬことも解る。こんなことを伯言殿に言った所で、どうにもならぬことだということも解る。だが・・・) 「・・・。」 (これは親心というのか。統が、あそこまで苦しんでいる所を見たくないのだ。) 伯言殿は筆を置いた。 そして静かに立ち上がり、窓辺に足を運んだ。流れがあるのか解らない程雄大な長江が遠くに見える。その近くの木のあたりを見ながら、伯言殿は口を開いた。 「貴方は全てご存じのようですから・・・はっきり申し上げましょう。私は貴方の存在を凌統殿に伝えることはできません。」 (・・・で、あろうな。) それから、と、密やかに前置きをして、伯言殿の声がやや小さくなった。 「このことは誰にも言ったことがありません。城の内部にも斥候がいますからね。でも、貴方のような存在ならば、言いましょう。私の一族の多くは、孫策殿に破れました。・・・私は己の願いのため、陸氏再興のために仇である孫策殿に仕官しました。孫策殿は討てません。私の願いは、孫呉の隆盛の先にしかない。ですから、凌統殿のお気持ちが少しわかるのです。私はここで功を上げねば、一族の皆に顔向けできません。」 (・・・そうか。) 「このことは、胸に留め置くだけにします。」 (そうしてもらえると有難い。) 伯言殿は振り向き、にこりと微笑んだ。笑うとさらに少年のようで、こちらもつい頬が緩んでしまう。 「甘寧殿には、お会いになったのですか?」 (いや、ちゃんとは、見ていない。) 「そうですか。一度、正面からあの方をご覧になってみたらいかがですか?貴方に言う言葉ではないかもしれませんが・・・凌統殿のお姿が見れないのであれば、甘寧殿を見れば、貴方の存在している意味が分かるかもしれませんよ。」 (そうか・・・ありがとう、伯言殿。本当にこうして言葉を聞いてくれるだけでも有難かった。貴公と出会えてよかった。) 「私も、少し嬉しいのですよ。私は貴方のような存在が見えるのに、こうして気さくに話せる方は初めてでした。なんせ私は今まで・・・私の一族の誰とも出会っていないのですから。」 伯言殿は少し影を落とし、再び何事もなく書簡に目を移した。 そのまま、壁をすり抜けて外へ出た。 木を登り、城の屋根の上に立つとすぐに甘寧を見つけた。 そこで、先ほどの伯言殿の言葉を思い出して、後を付いていくことにしてみた。 甘寧は建業の街を城から城門のほうへふらふらと歩いていた。街並みを通り過ぎ、城門をくぐりぬけても尚、乾いた土の上を歩いている。 手には得物と酒瓶があって、足取りに合わせて鈴の音が鳴るのが少し滑稽だ。 俺はその後ろを音もなくついて歩く。 甘寧の獲物の切っ先に陽の光が反射して眩しい。 奴はどこへ向かっているのだろうか。 北へ北へひたすら歩いて、小高い丘に辿り着いた。 そこには小さな墓標があった。 甘寧の足がその前で止まり、おもむろに座り込んで、酒瓶の栓を開けてぐいと呷ってみせる。 墓標には・・・俺の名前が刻まれてある。 「なあ、親父さんよ。」 待て、待て。 もしかして甘寧は俺が見えているのだろうか。 いや、きっと見えていない。だが、どうしてここに来て俺に話しかけている? そして、聳え立つ抜けがらの石に語りかけ始めた。 「あいつ・・・どうしたらいいんだ?」 (・・・あいつとは・・・統のことか?) 「俺はあいつに詫びる気はねえ。悪いが、あんたにもだ。」 (・・・。俺もお前の立場ならば、そう考えるだろうな。) 「あいつは目を逸らす。でもあいつ自身、もう分かりきってるような気がしてならねぇんだ。」 (・・・。) ああ。お前は・・・。 甘寧の横に、そっと近づいて座った。 甘寧はじっと、墓石を見つめたままだ。 俺は何となく、何かを隣の男に語りたくなって、浮かぶ言葉をそのまま口にした。 (・・・あいつはな、生まれた時、とても大きい声で泣いたんだ。俺は嬉しかったよ。俺に息子ができたのだからな。) (よく近くの村の子どもたちと遊んで・・・よく喧嘩もしていた。負けず嫌いで我慢強くて、家に帰ってきてはじめて泣いていた時もあった。) (ああ見えて正義感も強いんだぞ、弱い者を見つけるとすぐに助けた。根は真面目で素直ないい子なのだ。ただ・・・それ故にこれと決めたら梃子でも動かぬ時がある。) (統を憎悪から引っ張り上げられるのは、お前しかいないような気がする・・・。だから、お前は命を落とすな。) (俺はお前を恨んでなどいない、乱世を恨むとも言わぬ。恨むものなど、死人には無いのだ。俺もお前も、そして統も、生まれ落ちた世しか知らぬ。俺は命を失っても尚、この世しか知らぬのだ。) (だから、・・・統のことを頼む。) 横にいた甘寧が、小さく頷いた。 こいつはやっぱり、俺が見えるのだろうか・・・? ああ、何だか眠くなってきた。 足のあたりが突然温かくなり、地に沈む感覚がする。 気づけば、体は横たわっていた。俺はここで、眠るというのか・・・。 統の顔が見たい・・・。 だが、地に埋もれて動くことができないのだ。 「甘寧。」 統の声。 「・・・何だよ、お前。」 「父上の墓で、何してんだよ。」 「お前の親父さんと、話してたんだよ。」 「・・・・・・・・・今日が父上の命日なんだ。」 「・・・。」 「父上の無念が、始まった日だ。」 無念。 俺の無念。 そうだな、俺の命がこぼれ落ちてゆく時は無念を感じたさ。手足が動かなくなってゆくのだからな。 だが、全てなくなってしまえばどうでもいいのだ。俺はお前が幸せでいてくれたら本望なのだ。 統、俺はお前に“俺の命も生きろ”とは言わないが、真面目なお前はそのつもりでいるのだろう?だから俺は何も言わない。お前は既に分かっているからな。 けど、一つだけ。 笑ってくれ、統。 この乱世、笑うことが難しい時もあるだろう。 でもお前は笑ってくれ。 俺の無念が始まった日が今日ならば、お前が笑わなくなった日も今日じゃないか。 「でもさ・・・。」 「何だよ。」 「・・・・・・別に。」 統は、手に花を持っていた。一輪、どこにでも咲いていそうな、小さな小さな白い花。 それを墓前に手向けたのだ。 その瞬間に、統の思念のようなものがどこからか伝わってきた。 大丈夫、もう、俺はこいつとやっていけます、と。 そして統は、甘寧から杯をひったくって、並々に注いであった酒を一気に飲み干した。 「ああ!てめぇ、俺の酒!!」 「いいだろ、一杯ぐらい。尻の穴小せえこと言いなさんな。」 「この野郎〜・・・いい根性してるじゃねえか。よっしゃ、ここで飲み比べと行こうぜ!」 「いいよ。父上の前だからね、絶対負けられないっての!」 そう言って、統は笑った。 やっと笑った。 目尻を下げて笑ったその顔を久しぶりに見た瞬間、胸のあたりから身体中が暖かく光っていって、俺はゆっくり目を閉じた。 そうして俺は、この世から本当に消えたのだ。 了 [*前へ][次へ#] |