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第18話 優しくできない掌
ピンクの歯ブラシが洗面所に置かれ、女性用の整髪料が棚の隅に控えめに鎮座する。
食器棚のなかには億泰と形兆の菓子にまじって香澄の好きな菓子がストックされ、無地のコップの隣に猫模様のマグカップが並ぶ。
それらの変化は形兆にとって侵蝕に等しかったが、香澄が同居する以上自然で当然のことだ。
三ヶ月ほどが過ぎた。
言いつけ通り書き置きを残したのかは知らないが、とにかく、家に帰らない香澄が問題になることはなかった。
周囲に知られることもなく、刑兆と香澄の奇妙な関係は続いていった。
父親の部屋にはいつの間にか香澄が持ち込んだちゃぶ台があって、香澄はそこで父親と共に食事する。
億泰は形兆と食事をする。ひとりで食事するのは寂しいから、という形兆に対する要らない配慮のためだ。
三人で食べればいいものを、と思ってそう命令したこともあったが、二人ともそれを無視するのだった。
香澄と億泰が二人で寝ているのを形兆が発見した日から、目に見えて億泰は香澄にべたべたするようになった。
一緒にいる、話しかける、遊びたがる、という意味ではない。まとわりつくの範疇を超えて、文字通りべたべたしている。
「香澄〜膝枕してくれよォ」
「かまわないよ。おっくんはあまえんぼさんだね」
「うっ! ……香澄には言われたか……ねっねぇなぁ〜」
「うん。おたがいさまだね。どうぞ」
億泰は食器の皿洗いを終えるなり、リビングのソファーに座る香澄に膝枕をねだった。香澄は二つ返事で了承し、億泰の頭は香澄の膝の上に収まる。
子供じみた『おっくん』などというあだ名も、香澄に言われるに限ってはすんなりと受け入れている。
「香澄ってあったけーよな」
「おっくんもあったかいよ」
「それにやわけー」
「おっくんは筋張ってるね」
「兄貴は筋肉かてーぞ」
「虹村くんは男の人だもんね」
「俺も男だぞ」
「おっくんは男の子」
くだらない会話をしながらクスクス笑いあう。香澄はともかく億泰は声でかいので不快だ。
向い側でチラシの整理をしている俺のことも考えろよ――と形兆は思う。自室で遊べばいいのに、億泰と香澄はいつもリビングに居座っている。
いつでも話しかけていいんだよ、などと言外に言われているような気がして胸がむかつく。
しかしここで自室にこもるのも負けた気分になる。形兆は無言で、勝負にならない耐久レースを繰り広げる。
そして途中でバカらしくなって、自室へ向かうのだった。
不貞寝をするようにベッドに入る。ぐっと目をつぶって精神を集中すると、じょじょに眠りに落ちていく。
しかし浅い眠りはすこしの物音で妨げられてしまう。今回は近所の犬の遠吠えだった。
最近は、親父のうめき声に睡眠を阻害されることがなくなった。父親が眠っているからだ。
どうやら香澄の歌を聞くと静かに眠るらしく、それに億泰が気付いてからというもの香澄がほぼ毎日子守唄を聞かせているのだ。
以前から時たま、うめかずに静かに眠る日があるなとは思っていた。まさかそれが、家を抜け出して香澄の歌を聞いていたからだとは思いも寄らなかった。そんなに何度も脱走されていたのかと、見張りを言いつけていた億泰を殴りつけたのだった。
そんなふうにして父親が静かになったものの、ぴりぴりと毛羽立った神経はやはり覚醒しやすいのであった。
時刻は夜の三時ほどだ。すっかり目が冴えてしまった形兆は不機嫌そうに眉根をひそめ、トイレに行くために立ち上がった。
真っ暗の廊下に出ると、廊下の奥に人の気配がすることに気付いた。
瞬時にバッド・カンパニーを発現し警戒態勢に移る。武器を構えさせたが、すぐに杞憂だとわかった。
廊下の電気をつける。
「なにやってんだ」
「あ……虹村くん」
廊下の奥、トイレの前で香澄が座り込んでいた。
香澄は突然の明るさに手をかざして、目を細める。顔色は悪い。
近づいていくと、香澄は手足を動かしてトイレの扉の前からどいた。
「トイレだよね。ごめんね、どうぞ」
「お前はこんなとこで座ってなにしてる」
「たいした用事でも……ないんだけどね」
「具合でも悪いのか」
すぐそばにしゃがみこむと、香澄は形兆から距離を取るように身体を傾けた。
それに気付いて形兆は一歩後ずさる。すまなそうな表情で、香澄は薄く笑った。形兆を伺うような笑みが、どうにも苦手だ。
「そんなところ……」
「……ひとりで立てんのかよ。 立てないなら億泰連れてくが」
「い、いいよ……起こしてもらうの悪いし……ぜんぜんひとりで平気――ウッ」
言葉の途中で、口を覆って体を丸めた。うごっ、という水がはじける音が香澄の喉から響いて、香澄の身体が一度だけ跳ねる。
しばらくそうしてうずくまったあと、香澄の喉が上下に大きく動いた。
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