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最終話 春が死んだ日 後編


 砂原香澄には、母が死んでから一年間ほどの記憶が欠落している。
 それは母親を死なせた、というストレスによる脳の防衛機能が働いたことによるもので、要するに現実逃避だ──と、香澄自身は否定的に捉えていた。
 たしかにその通り、正しく脳の防衛機能によるものであったが、香澄自身の認識とは大きく異なる意味合いがあった。

 封じ込めた記憶の扉が開かれていく。思い出すな、と脳みそが事実の認識を拒否してずきりと痛む。しかし今、香澄は──目の前の男に、覚えがあった。

「あの日、人妻を殺してやった時以来だ!」

 その言葉に心当たりがあった。
 思い出すなと本能が拒絶する。しかし香澄は、記憶の扉にもう……手をかけていた。



   ***


 クリスマス、父が買ってきたプレゼント。自分の欲しかったものが得られなかった。期待はずれだった。
 当時流行っていたおもちゃが欲しかったのに、父が買ってきたのはよく似た別のものだった。
 売り切れで欲しがっていたほうは買えなかったから代わりに、という父の言葉の意味を、理解できても納得できない。5歳とはいえ、まだまだ感情が先行する年頃だ。
 香澄は泣き喚いてダダをごねた。妹は欲しかったものを与えられていたから、香澄だけ欲しいものが与えられないのはひどく残酷なことに思えた。
 それがショックで、香澄は衝動的に、思いついた言葉を口にした。

「お父さんなんて死んじゃえ」と。

 父にしてみれば、有り体に言えば子育てで罵倒されるなどよくあることだ。反射的に苛立ったり、思い通りにならない娘に腹が立ち、傷つくことがあっても、一過性のものだ。健全な関係であれば愛情は揺らがない。
 だからきっと、言われた父以上に、言ってしまった香澄自身が傷ついた。

「おとうさん、ごめん、わたし、」

 舌足らずな言葉で取り繕おうとして、絶望した。俯いた父は喋らない。喋ってくれないから父が怒っているのか、悲しんでいるのかわからない。
 言った言葉の意味を真面目に考えさせようとした大げさな傷つきの態度は、両親の思惑以上の動揺を香澄に与える。
 パニックになった香澄はリビングを走り、靴も履かずに家を飛び出した。

 両親は家を飛び出す香澄にも、大して危機感を示さなかった。夜とはいえこの辺りは治安もいいし、香澄がこういう時逃げ込む場所は知っていたからだ。
 母親はあらあらと笑い、肩をすくめた。貴方よりも私が行くほうがいいわと手話で会話し、父もよろしく頼むと手話で返す。
 父の一生消えない後悔は、ここでどうして自分も行かなかったのだと、治安がいいとはいえ夜は危険だとわかっていたのに、どうして妻だけに娘を任せたのだと、そこにある。


 その夜は少し雨が降っていて、雨宿りをするように、香澄は川辺の橋の下でうずくまっていた。
 ぐすぐすと鼻を鳴らして泣いていると、母がやってきた。
 傘を畳んで、橋の下に入ってくる。

?迎えにきたよ?

 と母が指先を立てて動かし、手話で話しかける。
 香澄は首を振った。

?お父さん傷つけた。もう帰れない?

 手話で返事をする。
 言った言葉は取り消せない。だから喋る前によく考えてから話しなさい、というのが、両親の教えの一つだった。それを素直に受け取って育った香澄は、自分の暴言をひどく後悔して、取り消せないことに傷ついている。

?言った言葉は取り消せなくても、ちゃんと謝れば上書きできるのよ。ほら、家でみんなでケーキを食べましょう?

 大きな身振りでケーキの大きさを強調しながら母が笑う。その笑い声に救われた香澄は表情を輝かせて、うん、と応えた。
 立ち上がって母の手を取ったとき、母の背後に誰かがいることに気がついた。
 小雨に濡れてしなびた黒髪。黒いスーツに赤いシャツが、道路の照明に反射して、ひどく目立った。
 しかしそれ以上に目を引いたのが、男が持つナイフだった。幼い香澄の腕よりも刃渡りは長く大きい。雨に濡れて鋭く光っている。

 反射的に、母の気配が変わる。香澄を強い力で後ろにかばい、男を警戒する。
 男の目が、香澄に向けられた。

「……その子、喋れないの? さっきの、手話ってやつだよね? ボク、そういうのに興味あってさぁ」
「……! ……! ……!」

 母は手を振って、あっちへ行けと訴える。耳の聞こえない母の言葉はうめき声まじりでまともな発音にならず、聞き取ることが容易ではないからだ。
 香澄は母が焦る理由がわからない。夜にナイフを持った男と出会う、ということの意味がわからない年頃だったし、男の声が友好的そのもので、香澄に警戒を抱かせなかったのも大きい。

「お母さん、しゃべれないの。なにかご用ですか」

 よかれと思って声をかけると、母が慌てて香澄の方を向いた。黙ってなさい、早く逃げなさい、と、手話で命令する。
 その命令の意味合いを香澄が認識できない間に、事は動いた。

「へえ、喋れないんだ。でもさっき軽く笑ってたよね? 笑い声は出せるの? 声は出るけど言葉にならない、ってやつなのかな、興味あるなぁ。お姉さん可愛いし」

 早口にまくしたてながら、男が大股に距離を詰めてくる。

 きらめく銀色の刃が、母の胸に突き立てられる。知り合いに手を振るような気軽さで、男が母の身体を切り裂いた。
 鮮血が香澄の頬に落ちる。小雨に当たり張り詰めた頬に、生暖かく。

「──! ──!!」
「あぁ、叫びも声にならないんだね。人間って痛い時に叫ぶことで痛みをごまかすみたいなんだけど、叫べなくてうめき声になるだけ、って、どんな気分? それで痛いのごまかせるの?」

 男の言葉はどこまでものんびりとしていて、敵意がない。純粋な好奇心だけだ。それが香澄を混乱させる。
 母が膝をついて倒れこむ。
 お母さん、と、声をかける。母は脂汗を浮かべながら香澄を睨むように見据える。
 男が楽しそうに笑って香澄を見やり、ナイフをかざす。

「にげっ、て……!」

 呻き混じりの声で、母が叫ぶ。香澄に触れようとする男に掴みかかって、庇いながら。
 その声に気圧されるように、香澄は踵を返してその場から逃げ出した。

 それからのことは覚えていない。ずっとずっと走り続けて、逃げ続けた。あの男に追われていると言う感覚だけがある。家に帰れば父まで襲われる、痛いことをされる、と恐怖があり、家には帰れなかった。
 逃げて逃げて、逃げ続けて、気がつけば朝になっていた。
 よっぽど遠くまで逃げたと思っていたのに、街をぐるりと回ってまた川辺に戻ってきてしまっていた。
 川辺は人だかりができていた。パトカー。救急車。青いビニールに包まれた担架。父が泣きながらその担架に手を伸ばして、見知らぬ警官に羽交い締めにされて止められている。
 青いビニールに包まれた担架から、手だけが落ちてだらりと垂れ下がっている。赤黒い血がポタポタ滴り落ちる指先に、母のつけていた指輪が嵌められている。

「わたしのせいだ」

 と、香澄はつぶやいた。
 香澄に気がついた父が安堵の息をもらして駆け寄ってくる。その腕に抱かれながら、香澄は恐怖と絶望の中にいた。

「わたしが死んじゃえって、言ったから」

 それは明らかな記憶の錯誤だったが、香澄にとっては真実になる。
 恐怖で記憶に混乱をきたした香澄の証言はあてにならず、雨で証拠が流れ追跡困難だったこともあり、犯人は捕まらなかった。
 父は香澄を責めなかったし、香澄に合わせてお前のせいではないんだ、と繰り返し説き続けたが、効果はない。
 自分を追いかけにきた母が殺人鬼に惨殺され自分も殺されるかもしれない、と恐怖するよりも、自分の放った言葉で母が自殺したと考え自責する方がよほど香澄にとっては楽なことだったからだ。
 死にたい気持ちのまま香澄は成長していく。精神の発達に伴ってピンクスパイダーも強化される。
 父の愛も説得もむなしく、香澄は小学三年生の頃、二つ下の妹に懇願した。

 もう死にたい、殺してほしい──と。
 妹は一度は断るが、ピンクスパイダーは無意識下で動き出す。
 香澄の自分自身への憎しみを周囲に振りまき、攻撃させるように仕向けて──歪んだ家族が出来上がる。
 そこからは、香澄の知る、痛みの日々だ。


   ***

「あぁ……ッッ! ああッ! そんな、そんなことって!」

 全ての記憶が蘇っていく。
 心の奥底に押し込んでいたものが、堰を切ったように流れ出てくる。
 母を殺した男──災厄そのものが、目の前にいる。
 男はにっこり笑って、恥ずかしそうに肩をすくめた。その動きにびくりと肩が跳ねる。一挙一動に集中してしまう。

「ごめん、ちょっとトイレ行っていいかな? さっき飲んだコーラにもよおしてきちゃって」
「……は?」

 この場にはあまりに似つかわしくない言葉に、香澄は眉をしかめた。男は香澄の困惑など無視して、森林公園に点在する公衆トイレの中にゆったりと入っていく。
 油断させておいて攻撃しよう、などと見え透いた思惑ではなく、本心からの言動だとわかってしまうのでタチが悪い。

「あの人、完全に自分の感情だけで動いてる。人を攻撃してやろうって悪意がなくて、快楽だけを求めて生きてるんだ……」

 理性というものがない。獣そのものだ。思いついたことをそのまま実行する。人の形をしているからといって、そんな存在と会話が通じるはずがない。
 男にはスタンドがある。警察でさえ歯が立たない。
 だとするなら──。
 形兆を呼びにいく? 形兆にすがりついて、あの男を倒してくれと頼むのか?

「だ、大丈夫か、香澄……」

 父の呻くような呼びかけに、現実に引き戻される。ハッとして駆け寄った。

「お父さん、怪我、大丈夫?」
「あ、あぁ……私は平気だ……ぐうっ」

 父は苦しそうに呻いている。肩に深々とスタンドの刃が突き刺さっているのだ。それはどくどくと脈動し、父を苦しませている。刃を抜くことができれば父も楽になるだろうと思うが、父の身体に血管のようなものが突き刺さって一体化していて外せない。

「とりあえず、ここから離れよう、お父さん」

 落ちていたナイフを拾い上げる。抜き身の刃で傷をつけないようにしながら、父の腕をつかんで自分の背に身体を預けさせる。
 力の入っていない成人男性の身体だ。ひどく重たいが、放置することはできない。
 全身に力を入れると、殴られ続けた腹部がズキズキと痛むが、無視をする。
 踏ん張って、なんとか膝を持ち上げて、香澄はずりずりと移動を始めた。

「わ、私はいい……置いていくんだ……」
「だめだよ。ここにいたら、絶対あいつが殺しにくる……。あいつ、余裕なんだ。絶対追いつけるって確信してる。だから澄泉が逃げても、追いかけない。多分お父さん以外にも何人か?操って?る。外に配置してるんだ。この森林公園からは出られないって、タカをくくってる……」

 ピンクスパイダーは、自動で澄泉を追いかけ守るようにと命令してある。自動操縦と化しているピンクスパイダーの状況は香澄には感覚的にしかわからないが──。
 香澄を始末した後、澄泉もすぐに始末できる、と、男は確信しているのだ。

「絶対守る……死なせない……お父さんも澄泉も……」

 ブツブツとうわごとのように呟きながら、香澄は父を背負って歩く。
 売店の裏手の物陰に父を寝かせて、大きく息を吐く。
 体力がなくなっている。香澄とて、今すぐ病院に行くべき怪我を負っているのだ。

「香澄……頼む、お前だけでも逃げてくれ……。お前まで死んでしまったら、耐えられない」
「──いやだ」

 父は顔面蒼白だ。どくどくと脈打つスタンドの刃が、父のエネルギーを吸い取っているのだ。このままでは死んでしまう。
 そんなこと許せない。
 澄泉も怪我をしている。澄泉を生かして逃がすためには、父を助けるためには──。
 男にスタンドを解除させねばならない。
 たとえ香澄の命を賭けてでも──。

 そう思ってから、なにかが破綻していることに気がつく。
 そうだ。この理論は、まず前提からして間違っている。

「そうだ、おかしいよ……どうしてわたしが、命を懸けて家族を守らないといけないの? わたしが死んでも家族が生きてくれるなら幸せ、なんて思わなきゃいけないの?」

 そもそも、あの男がいなければ母は生きて、香澄のそばにいてくれたはずだ。

「どうしてわたしが、死にたくならないといけなかったの? 生き続けるのは苦しいことって思わないといけなったの? ちがう…………終わらない痛みの中で生まれてきたのを後悔するべきなのはわたしじゃあなくて──あの男のほうだ!!」

 力強く宣言をする香澄に、父は目を見張った。香澄は闘争心の少ない少女で、昔から人に何かを譲ることが多かった。母の一件からは尚更、自分の意思を通そうとは決してしない。
 その香澄が、怒っている。
 怒髪天を衝く、ということわざがある。怒りのために髪の毛が逆立った鬼神の如き形相を表現する言葉だ。
 香澄は髪の毛を掻き上げて、牙をむき出しにして怒りをあらわにした。だが、同時に覚悟のひらめきがその瞳にはある。
 自分の身を投げ打ってでも家族を守る覚悟。自分の身を捧げても敵を屠る覚悟。
 自己犠牲の献身ではない。己の身体すらを駒にして、喉元に食いつこうという闘争心という覚悟だった──。

「ああああああっっ!!くそっ!!死ぬほどムカついてきたッッ!!」

 香澄は咆哮した。今まで内側に向いていた自殺願望は闘争心と憎しみに変わり、全方位に出力されて燃え上がっている。

「わたしは逃げないッ!! あの男に、わたしの絶望の半分だけでも味合わせてやる……ッ!!」


   ***


 香澄が闘争を決めた時、男はトイレから出てきたところだった。
 香澄と父がいなくなっているのを見て、「かくれんぼかな?」と年甲斐もなくはしゃいだ。
 森林公園の入り口に点在して設置している彼の『人形化した死体』たちは動いていないようだから、公園を出てはいないらしい。
 かくれんぼは楽しいものだが、早いところこの場の二人を始末して澄泉を狩らねばならない。
 さわやかな風に乗って、なんとなく香澄の怒りや敵意が伝わってくるようだった。
 抵抗して暴れた末の抵抗と絶望顔が見たくて挑発したが、くすぶっていたものにガソリンをぶちまけてしまったのかもしれない。
 それはそれで、楽しいものだ。
 そう思っていたが──男は目の前の通路の奥、木の陰に香澄がいることに気がついて、反射的に物陰に身を隠していた。
 そのことに自分で驚いた。
 チラリと見えた横顔が、先ほど見た覇気のない少女のものとは思えなかった。
 あの目はヤバイ、と直感した。
 何が何でも殺しに来る、そういう覚悟の決まった目だ。
 物陰に隠れず、堂々と、道路の真ん中を歩いていることからもわかる。
 逃げるのではなく、男を探しに、『始末しに』きている目だ。

 ──でもまぁ、予想外だったが。見た所あの子のスタンドは戦闘系じゃないようだし……何よりあの子は、自動操縦型のスタンドを自分の妹の防御に使っている。

 男は気圧されながらもそう現状を理解し、ふっと息をついた。

「──バカな女だ、スタンドがなければあんなガキ、大した敵じゃない……って思ってるでしょう」

 ──バカな女だ、スタンドがなければあんなガキ、大した敵じゃない……っ、ハッ!

 思考を一言一句先読みされ、男は肩を強張らせた。

「わたしのスタンドの名前はピンクスパイダー。耳と一体化した補聴器型のスタンドと、宙に浮いてる衛星と、三体で一つのスタンド」

 通りから聞こえる解説。男は先ほど耳からひっぺがそうとした補聴器がスタンドの本体だったのか、と納得した。だから引きちぎれなかったのか、と。

「補聴器型の方は自動発動していて、わたしの意思ではONとOFFも切り離しも出来ない。音を感知するだけのスタンドよ」
「へえ……通りでひっぺがそうとしても取れないと思ったが。制御できないスタンドなんて難儀なもんだなぁ! それじゃあ結局、お前はスタンド攻撃ができないってことじゃねぇーかぁーーッッ!」

 男がそう言って笑い、スタンドで攻撃する準備をしていると──ぼすん、すぐそばの茂みに何かが投げ込まれた。
 赤黒い何かだ。転がらなかったのでボールなどではない。だが軽いものだ。
 思わず落ちた方を見る。草むらで隠れてよく見えない。
 赤い黒い何か。
 赤の奥に肌色が見え隠れし、ピンク色の補聴器が取り付いている──耳だ。

「なんだッ……これは! まさかあのガキのスタンド……!」

 とっさに移動しようと身を翻した瞬間、補聴器の形をしたスタンドが蠢いた。集音器の部分が蠢いたと思った時、空間が揺れる。
 音の波動だ。
 雨やパンチを避けることができても、人は音を避けることはできない。方向を調節された音波が男を直撃する。
 身体にぶち当たった瞬間衝撃波は『糸』の形を取った。螺旋状の糸が何本も伸びて、男の身体を絡め取る。

 通りでは香澄が絶叫していた。
 耳をそぎ落とし、噴出する血液を手で押さえながら、血まみれのナイフを握りしめて歯をくいしばる。

「ああああああッッ!! いっ、痛いわ……! すごく痛いッ!!さっき散々腹を殴られてた時よりよっぽど痛い!耳って毛細血管が集中しているし脳に近いから出血が尋常じゃないわっ!! どうしようめちゃくちゃ涙が出てきた……」

 ボロボロと溢れ出す涙は、傍の血液と溶け合って、ドロドロになって頬を垂れていく。しかし香澄は笑う。生存本能が極限まで高まってテンションがおかしくなっているのか、気が狂ってしまったのか。

「でも痛いってことはいいことだよね……生きてるってことだもの。わたしはこの痛みを背負って、気を強くして生きていくことにする……母の分まで!」

 もう、誰かのために己を使い潰して自傷しようとする少女はどこにもいない。ここにいるのは、己の痛みを受け止めて、二本の足で未来を歩もうとする気丈な少女だけだ。
 香澄の歩く先には、あの男がいる。


 音波を放たれた瞬間、どっ、と心臓が脈打った。
 なんだそれだけか、と拍子抜けしたのはほんの数秒だった。何もしていないのに急激に心音が早くなる。汗が垂れ落ち息が上がる。
 まるで全力疾走でもしたように。
 追い立てられるような焦燥の中、男は衝動的に木の幹に頭を打ち付けた。
 今、ものすごく死にたい。
 今、死ねたらすごく気持ちがいいだろう。
 今、こんなに辛いのだから、死んだら解放されるに仕方ない。
 その衝動が身体を支配する。理性がやめろと叫ぶが、感情に突き動かされたまま、男は己のスタンドを発現させた。

「か、体の自由がきかねぇっ……!!クッソ!」

 制御が効かない。スタンドの刃が容赦なく振り下ろされる。
 背後から斜めに突き入れられ、鎖骨を砕いて胸から貫通する。

「マスターオブパペット!!」

 その瞬間、能力を発動させる。スタンドの刃と肉体を同化させ、癒着して寄生させて、頚椎を乗っ取って動きを制御する。

「死にたい気持ちは変わらねえが、これで助かった……! 他人に与えられた絶望で、簡単に死んでたまっかよ! ボクは聖なる矢に選ばれた──こんなところで死ぬ運命じゃねぇんだよ!!」
「いや、死ぬ運命だよ」

 すぐ横で囁かれた声。男が反射的にスタンドで攻撃に転じる前に──腹部にナイフが刺さっていた。
 内臓を断ち切って、焼けるような痛みが滑り込んでくる。

「アッグ!!」
「あなたに味方する運命なんかない……これからは! 決して!」

 手首をひねり、香澄はさらに突き入れる。内臓を攪拌された箇所から黒い血液が溢れ出す。
 男は傍のスタンドを操作し、香澄を攻撃しようとした──だができない。男の能力はつぎはぎの刃で構成されたスタンドを分解し、他人の身体に突き刺すことで体の支配権を奪うものだ。複数人操れる強烈なスタンドだけに、能力発動中はスタンド体を動かせなくなる。
 現状男は能力を『自分を自殺させない』ことに使っている。スタンドの腕を伸ばして香澄を攻撃することに力を割く、余裕がない。

「やっぱりそのスタンド、操ってる間は動かせないんだね? わたしのピンクスパイダーと能力が競合しているから、均衡してスタンドも身体も動かせないみたいだね!」

 男がバランスを崩して膝をつく。香澄は慈悲を与えない。差し出された肩に体重をかけたナイフを振り下ろした。
 抵抗できない男は、なんとか手を振り上げる。刃は腕を貫通し、肩の肉を二ミリほど抉っていった。
 香澄は肩に固執しない。一息に引き抜くと、何度も刺突を繰り返す。
 倒れこむ男に馬乗りになって、執拗に切りつける。その容赦のなさが、殺意の強さを物語っている。

 ──ま、まずい、このままじゃやられるッ……!!
 スタンドが動けない、本体も動けないでは打つ手がない。腹部の怪我は致命傷になってもおかしくない。
 失血と痛みで意識が遠のき始めた時──不意に香澄の攻撃が止んだ。
 
 顔の横にナイフが落ちる。

「ぐっ……がっ、」

 香澄のくちびるからごぼりと血が溢れ出す。咳き込んだあと、真横に倒れる。ピクピクと痙攣をはじめる香澄を見て、男は息を吐いた。
 身体が動くようになっている。ピンクスパイダーの支配が途切れたのだ。
 身体を起こしながら男は笑った。

「き、気絶したってのか。さっき殴った時、何本かあばら折れてたもんな。あげく、自分で耳を削ぎ落とせば、失血で気絶もするか……ちょ、ちょっとビビったよ、このクソアマッ!」

 香澄の頭を掴み上げ、岩場の地面に叩きつける。ごきん、と鈍い音がする。後頭部から血が溢れ出す。

「まぁ、ボクには誰も叶わないってことだ。ボクは最強なんだ……お前をさっさと殺して、父親も妹も殺してやる」
「──いいや」

 じゃり、と男の背後で足音がする。
 低く、地を這うように冷たい声。

「マスターオブパペットと互角に戦うか……精神の上では勝っていたぜ、香澄」
「け、形兆……サン」

 虹村形兆のスタンドが見える。
 男は引きつった笑みを浮かべ、愛想を向けた。

「ごめんね、つまみ食いしちゃった。死にかけだけど、最後の一口は形兆サンにあげるよ」

 楽しみを譲る、という表情で。
 香澄の腕を掴んでプラプラと揺らして、形兆に差し出した。
 その手が薄汚い、と形兆が思った瞬間、バッドカンパニーは男の手を正確に狙撃した。

「ぎゃああ!!」

 鶏を締めたような悲鳴が耳障りだ、と形兆が思った瞬間、単独で先行していたグリーンベレーが、男の喉を真一文字に切り裂いた。

「あぐっ──」

 悲鳴は喉の裂け目から漏れ出て、吐息になり、不出来な笛のような音を鳴らした。
 気持ちが悪い。
 何もかもが不快だ。
 何もかもが汚れている。
 この世界に美しいものなど何もない。


   ***


 その一件において、億泰が知ることはあまりに少ない。
 形兆と二人で香澄を探していたら、半狂乱の澄泉が駆け寄ってきた。

「お姉ちゃんが危ない、助けて、おねがい」

 形兆にすがりついて懇願する。形兆は何かを察したようだった。
 澄泉は何体かの『死体』に追いかけられていた。億泰は澄泉と追っ手を引き受け、形兆が香澄を助けに行った。
 なんとか死体を片付けて、澄泉と共に森林公園に向かった。

 たどり着いたその場所に、うずくまっていた。背中しか見えなくても、その身体が返り血で染まっていることは見て取れる。
 むせ返るような鉄の匂いが、森の匂いをかき消すように漂っていた。
 形兆は血まみれの香澄を抱き起こしていて、微動だにしなかった。
 傍らには粉微塵にされた肉塊が転がっており──事情は理解できなくても、状況は嫌でも理解できる。そんな有様だった。

「自業自得だ」

 と形兆がポツリとつぶやいた。

「よせばいいのに、立ち向かった。こいつの責任だ」

 俺たちに関わるからこうなった、と端的にひとりごちる。

 形兆はこの時のことを決して語らない。億泰も訪ねない。
 だからこの一件において億泰が知ることは、なにもない。
 形兆の生み出したスタンド使いによって、香澄が瀕死の重傷を負った。
 ただそれだけだ。

「事件の隠蔽と後処理を頼む」

 と形兆は公衆電話で知り合いのスタンド使いに連絡を取り、家に一度帰宅すると、必要な荷物だけをまとめて街を出た。
 だから香澄の顛末を──億泰は知らない。知る由もない。
 知る資格もないのだと、思っていた。
 そうして世界から取り残されたまま、形兆と共に闇の中を歩いていく。
 その先がどんな破滅につながっているとしても。そうすることしかできないのだから。




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