回答拒否
最終話 春が死んだ日 前編
日曜日、虹村くんとデートした。
わたしが見たいと言った映画を二人で見て、雑貨屋を見て回って、わたしが行きたいと言った喫茶店に虹村くんは連れていってくれた。
ケーキを頬張るわたしに、虹村くんは自分のケーキを半分くれた。わたしはお返しに、紅茶を一口差し出した。
間接キスだね、と笑うと、バカか、と虹村くんは苦笑した。
会計のとき、虹村くんはわたしのお代まで出してくれた。そんなの悪いよ、と言うと、黙っておごられとけと恥ずかしがる。
喫茶店を出た瞬間に、虹村くんの手がわたしの手を掴んだ。冷たくて大きな手にわたしはびくりと肩を弾ませてしまったのに、虹村くんはそ知らぬ顔で歩き出すのだ。
朝、二人で家を出たときも、映画を見ているときも、雑貨屋を回るときも、ずっとずっと虹村くんはわたしの手を掴んでいた。
危なっかしいからと言って、決して手を離さないのだ。
わたしはドキドキしてしまって仕方ない。虹村くんのドキドキはそのままわたしのドキドキになる。
形兆くんが楽しいから、楽しい。形兆くんがなにか不安になると、わたしも不安になる。
形兆くんには、いつも楽しく心穏やかでいてほしい。
人の心に波風が立たなければ、わたしの心も波風立たずにいられる。
商店街を歩きながら、どこに行きたい、と虹村くんが言った。お前の好きなところにつれていってやる、と言いながら繋いだ手を握る。
好き……。好きってなに? わたしはなにも言えなくなる。
好きなんて、そんな難しい感情。わたしに言わないでほしい。
「じゃあ、わたしを殺して」
思ったことを口にすると、虹村くんが眉根をピクピクと寄せた。繋いだ手が痛いほど握り込まれる。泣きそうに瞳をにじませた虹村くんの返事は悲しい。
わたしも、理由もないのに悲しくなった。
虹村くんが悲しいと、わたしも悲しい。でもすぐそばから楽しそうな学生の声が聞こえてきて、わたしも楽しくなった。
回答拒否 最終話
「春が死んだ日」前編
「……香澄、香澄。香澄ッ!」
「えっ!?」
突然肩を掴まれ、その感触に現実に引き戻された。思わず身構えた香澄は、自分を掴む手が億泰のものだと気づき、はう、と息を吐き出した。
相手がわかっても、容易に警戒を解くことはできなかった。
硬直したままでいると、億泰が眉根を寄せて首を傾げる。
「何度も呼んでるのに。どうかしたか〜?」
「あぁ、ごめん、ボーッとしてたかも……」
香澄は額に手をやって苦笑した。周囲を見渡せば、そこは虹村家のリビングだ。出来立ての食事が机に並んでおり、夕食中だったことを思い出した。
よほどぼんやりしてしまっていたらしい。香澄は無意識のうちに口の中の白米を飲み込む。
「俺抜きで映画行くなんてズルいって話をしてたんだよ」
「お前がいつも映画館で騒ぐからだろ」
形兆が静かに億泰に指摘し、味噌汁をすする。億泰がむっとする。
「ガキの頃の話だろそれェ」
すこしだけ怒っていることが、自らのスタンド――ピンクスパイダーを通して伝わってくる。
困った香澄は眉を下げた。曖昧な笑いは、香澄のくせだった。
「んで、なんの映画見にいったんだ〜今日は」
「うん、『タイタニック』を。虹村くんもなんだかんだ見入ってたよね」
「え?」
億泰と形兆が目を見張る。驚く二人に香澄は首をかしげた。
「タイタニックは先週だろ」
「へ?」
「タイタニックは先週行った。今日は、お前が俺に付き合うっていって、肉の蝋人形見たろ。上映中俺の手ずっと握ってたのに、覚えてないのか?」
「うそ」
困惑する形兆に揺さぶられて、ぐらりと脳みそが揺れる感覚がする。逃げ場を探すようにさ迷う香澄の視線は壁掛けのカレンダーに止まった。
日曜日の列に『タイタニック』と『肉の蝋人形』がそれぞれ日付の横に並んでいる。香澄の筆跡だったが、記入した覚えはない。
ホラー映画を見た記憶などない。
今日見たのはロマンス映画だったはずだ。帰りに形兆と二人で喫茶店に入った。そこでケーキを食べて……。
「おい、今日は帰りに買い物行って帰ったろ。割ったコップ買い直したいって、お前が言ったんだぞ。それ」
形兆が香澄の持つマグカップを指差す。初めて見るそれは、デザインや色合いからして明らかに香澄のセンスだ。猫のプリントがされた愛らしいマグカップなど、形兆はまず選ばない。
香澄の頭がどんどんを痛くなっていく。焦燥が背筋を撫でる。
「ま、まぁ! 怖すぎて記憶飛ぶってことまあるよな! あにき!」
「そ、そうだな」
億泰が動揺しながらフォローをいれ、形兆もそれに頷く。
一週間分の記憶が欠落した事実が信じられず、香澄は相槌も打てずに呆然としていた。
記憶の欠落――それには覚えがある。
母が死んだあと一年間の記憶が、香澄にはない。ところどころ覚えている場面はあるもののひどく断片的で、記憶の捏造かと聞かれれば否定できなかった。
そのときとおなじ状態になっていることを、ややあって香澄は自覚した。
形兆と話しているときでも、気がつけばぼーっとしてしまう。会話の内容を忘れる。自分がどこにいるのかわからない時があり、立ち止まって周囲を見渡さないと居場所を認識できない。
香澄には理由がわからない。ただ、目の前に膜がかかったようになって、現実味がない。
なにかひどく辛いことがあったとき香澄はそうなって、気かつけば時間が経っているのだ。
なにも感じず、流されるままでいれば、辛いことはいつか失せてくれるから。
それでも失ったものは取り返せないし、じくじくと胸をえぐる化膿した傷が癒えることがないと――わかっているけれど。
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