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第20話 振り向いた先の景色
香澄の妹と真夜中に出会った次の日。いつものように朝降りてきた香澄の目は、通常と変わりなかった。片目だけわずかに腫れて赤らんでいるものの、それだけだ。内心で安堵しつつ、そ知らぬそぶりを続ける。
「おはよう、虹村くん」
「ああ」
「あのさ、来週の日曜日って、虹村くんの予定どうなってる……?」
控えめに訪ねる声に、形兆は脳内で予定表を広げた。
「昼から出かける。夜には帰る」
「そ、そっか」
「どうした」
「なんでもないの。確認したかっただけだから。あ、ごはんよそうね」
食器棚から茶碗を取りだして白米をよそい始める。香澄のそぶりに違和感がある気がするが、ぎこちないのは前からだろう。
考えを振り払って食事する。
億泰が話しかけてきたのは、食事のあとのことだ。
まぬけな億泰に珍しく真剣な表情に、ろくなことではないなと思った。
「あのよォ兄貴。おやじのことなんだけどよぉ」
「……なんだよ」
どうせ香澄のことだ、という予想は外れた。
肩透かしを食らった気分になりつつ、汚れた食器をスポンジで洗う。
香澄は自分にあてがわれた部屋に引っ込んでいるから、台所には形兆と億泰だけだ。
「今度……一緒に、メシくわねーか。おやじと」
「ふざけてんのかてめぇ」
「ふざけてねーよ」
皿洗いを中断して睨むと、億泰はむっとして唇を尖らせる。
「香澄……香澄が最近メシ食わせてるのは知ってるだろ? ……違うんだよ。おやじが」
「ちがう?」
「メシ、ひとりで食えるようになったんだ。箸はまだ難しいけど、スプーンぐらいなら使えるようになった」
「へえ……まあ、一ヶ月もすれば前みたいにバクバク犬食いするようになるさ」
「香澄が来てから三ヶ月経ってる。スプーンが使えるようになったのは一ヶ月ぐらい前だ」
「……んだと」
形兆は眉をしかめた。
そんなことあるはずがない。
何度言い聞かせてしつけても、ゆるやかに忘れていって一ヶ月もすれば元に戻って同じことを繰り返す。それが、肉の芽に犯された父親の十年前から変わらない現実のはずだ。
億泰は首を振る。
「香澄の歌聞くとおやじもぐっすり寝るだろ? サウンドセラピーっつうのがあるらしくてよぉ〜音楽で脳の活性化っつうの? そういう効果があったんじゃないかと思うんだけどよォ」
「脳の活性化だァ? ふざけんなよ億泰。あのおやじが、今更モノを覚えられるわけねーだろ」
「だから、一緒にメシ食おうって言ってんだよ」
眉を上げ、形兆は鼻を鳴らした。
億泰の言葉はにわかには信じがたいが、たちの悪い冗談を言っているようにも思えない。
「なら、今度観察しておこう」
「そうじゃなくて……メシ食おうぜ。四人で一緒に」
心がすっと冷えていくのがわかった。
奇妙な納得だ。
獣同然に知能を落とした父親の変化に困惑と期待を抱き、形兆の見解を聞きたい。その気持ちもあるのだろうが、億泰の本心は、
『みんなでメシを食いたい』
ということなのだろう。それも、父親と自分たちではなく、自分たちと香澄で――のはずだ。
胃がむかむかした。
父親をていのいい口実に使われている気分だ。
億泰は、形兆と香澄に和解してほしくてたまらないのだ。だからこんなことを言う。
香澄に頼まれたわけではないはずなのに。余計なおせっかいだ。
おろかで出来の悪い弟に対する不愉快さが募っていく。
香澄が形兆を怖がっていると、どうしてわからないのだろうか。
無理に接点を増やしたところで、いまさら以前のような関係に戻れるわけがない。余計に香澄を追い詰めるだけだ。
「ふざけてんじゃねーぞ」
ぐっと距離を詰めて睨んで、隣をすり抜けて台所を出る。
「兄貴ッ!」
「皿洗いてめーがやっとけ」
仕事を押し付けて二階をのぼる。壁にかけている弓と矢を鞄にしまって、手早く身支度を整える自室を出ると、ちょうど香澄が廊下を通り過ぎるところだった。
「あ……虹村くん。もうおでかけ?」
香澄は形兆が持つ鞄に気付くと、ぎこちなく笑った。
これだ。億泰の勘違いは間違いなくこれのせいだ。
様子を伺う無理した笑みを、億泰は形兆と仲良くしたいからだと勘違いしているのだ。間違ってはいないのだろうが、性質があまりに違いすぎる。
「夜には帰る」
言い捨てて、形兆は逃げるように家を出た。
そして――その夜。
家に帰り着いた形兆を出迎えたのは、耳をつんざくようなけたたましい破裂音だった。
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