約束の地
──6
6)Wuthering Heights



バラティエ・ラ・セコンドは年中無休、営業時間は夕方6時からラストオーダーの9時半まで。
開店当初開けていた昼は、今以上従業員を増やすつもりが無いので早々に止めた。
仕込みは大体昼を過ぎたころから2名いるコックが顔を出す。

長年の習性で、今日も自然と7時に目が覚めた。
悪い酒だったと思い返す。昨夜は自分を見失って捨てばちになったが、何も得るモノはなかったばかりか、
重苦しい頭と自己嫌悪に軽い吐き気が絶え間なく襲うばかりだ。
取りあえず着替えに風呂、朝飯。抱えの業者以外からの仕入れと、海に漁に出なければ。
おれは腰に纏わり付いたままクシャクシャになっていたシャツを羽織って宿を後にした。
陽はすでに高く、陽差しは強い。今日という日はまだ気だるさの抜けきらないおれを置き去りに、逞しく始動している。
明るく賑わうメインストリートを抜け、海岸から店へと続く小路を、おれは人の流れに逆らいながら足早に駆けた。

小高い丘を駆け上がるとプロヴァンス風建築に漆喰の白壁、ブルーの格子窓と同色の雨戸が特徴的なおれの店が見える。
途端に足取りは重く鈍った。
階段を上がった先にある正面のエントランスに良く知った萌葱の頭を認めた為だ。
ゾロは扉を背に胡坐をかいて陣取り、おれの気配に気が付くと待って居たかのように目を開いた。
「……無用心だろーが」
おれはこいつの足元に散乱する酒瓶の中から、グリーンの色味に艶のある1本を取り上げた。
「あのなァ……ウチで1番の値打ちモンは、もうてめェの腹ン中だ」
フン、と鼻を鳴らして「いい味だったぜ」とゾロは皮肉たっぷりに唇の端を上げた。
「ドロシーちゃんのバースディに開けて差し上げるつもりだったのに……!」
歯軋りして睨み付けると、この男は厳しく吊り上げていた頬を緩めて屈託無く笑った。
「相変わらずだな、てめェは」
それはずいぶん久しぶりの笑顔だった。たったそれっぱちの些細なことでおれの心臓は簡単に跳ねた。
だが陽気な笑顔と声に、自然と気持ちは弾んでいった。
「なァ、海、見に行かねェか」
「海?」
「ん。おれの海、見せてやるよ」
ゆっくり頷いて告げると、眩しいものを見たかのようにゾロの目が細められた。
こいつに光る海を見せたい。おれの夢の地を見せたい。これは長く心に秘めた念願でもあった。
そうと決まれば朝食と着替えだ。
おれはゾロを蹴飛ばし蹴飛ばし、裏口から自室への階段を上がった。

店から海までは丘を下って約10分の道のりで、左右は平坦な野が続き、低く生えた野草を分けて海岸沿いに出る。
そこから開ける景色がおれの捜し求めていた藍で、このまま海に沈めば肌さえも紺碧に染められるかと思うほどの藍さだ。
心地よい海からの風に目を細める。
2人、しばし忘我して言葉を無くすが、この海の素晴らしさはそこに身を預けてこそだった。
「さて、大物頼むぜ」
銛と網を投げると、何でおれが、とばかりにゾロは顔を顰めたが、踵を返すと海へダイブした。
浮き上がってくるまでの少しの間におれもまた飛び込んで、虹色の海にぽかりと浮かんでやつを待った。
こんな晴れた気持ちでこの海に漂うのは初めてのことだった。虹色に光るこの海を見たあいつは何を想うだろう。
やがて網で獲物を引いて、ゾロが波間に顔を出した。
「うおっ……」
「な、どうよ」
「こりゃすげェな……」
言葉少なく、ゾロの目が水平線までを望み、宙を泳ぎ、そしてゆるりと振り返った。
髪や指先に光の粒子が弾けて虹色に光る。海風がそれらを拾ってまた眩しく輝いた。
分かるか。これがおれの探して求めた海なんだ。本当にあったろ。世界で一番、お前に見せたかった場所なんだ。
ゾロの目がまた宙を彷徨い、返しておれを正視した。
「こんなすげェ景色を独り占めしてたんだな」
ひたりと据えられた視線に暗い予感が胸をよぎった。
「攫っちまえばいいのかとも考えたが……」
おれは今、波に揺られながら、心までも揺らされるのを止められずにいる。
「てめェが此処で幸せなら言うこたねェ」
────今、ゾロがおれを手放した。
身勝手にも、誠実な声にそう感じた。
自ら手放し望み通りの結果を得た筈だった。
ならばこの理不尽にも裏切りだと感じる心は何だ。このやりきれなさをどう理解すればいい。
おれは1度飛沫を立てて水面下へ沈んだ。サプンとまた浮き上がってゾロに向き合う。
「ここはオールブルーだぜ。他に何がいる」
「……そうだな」
つまらない涙は海に隠した。無意識に語られた言葉を責める訳にも詰る訳にもいかなかった。
何より己にその資格が無い。
「荒れるかもしんねェな」
ゾロの伸ばされた指の先に、重い灰色を孕んだ雲が見えた。
いつの間にか海を渡る風は湿気を帯び、雷鳴が遠く轟いていた。


「てめェ、宿とってんのかよ」
「いや、船に行く」
来た道を店へと戻りながら、おれは今夜の嵐を予想した。
「へたすりゃ嵐になるぜ。部屋ならある、来いよ」
従業員の休憩室には簡易だが浴室とベッドが備え付けてある。
しばらくの間であれば、船で寝泊りするより不自由は感じない筈だ。
ゾロは刻々と暗くなっていく空を見上げ、暫く思案していたが、やがてこくりと頷いた。
おれは何だか気が抜けた。促してはみたが、こいつは断るだろうと思っていた。
おれとの気まずい時間より、独りの時を選ぶと思ったからだ。
だがやつは意に反して大人しく付いて来た。
空に目をやると朝方の快晴が嘘のような暗い空が迫っている。確かにこんな天気では船に泊まるのは危険だろう。
1人都合の良いように合点して、おれは足を早めた。

昼をまわってメシだと声を掛けると、ゾロは後ろ頭をガリガリやりながらおれの部屋のテーブルに着いた。
並んだ膳が好物の和食だと認めると「旨そうだな」とにっかり笑った。
おれは箸を使うのが得意ではないが、この無防備な笑顔が見られるなら悪くないな、と思う。
貝柱の炊き込みご飯を親の敵のようにがっつく姿に、懐かしい、と瞬間過去の航海を振り返った。
「ルフィから連絡は」
「……ねェな……もう1年以上前にナミさんから電伝虫が1度鳴ったきりだ」
皆で此処に帰ってくると約束した若き海賊王。あの誓いはいつ叶えられるのだろう。そして隻脚のジジィは。
「さ、もう雇いのコック達が来る頃だ。てめェは勝手にやっとけ」
残りのメシをかっ込んで席を立とうとした時、いきなり堰を切ったような激しい雨が窓ガラスを叩いた。

「いいんですか料理長」
吹き荒れる風雨は時間の経過と共に嵐の様相を呈した。きっと閉店の頃にはドアを開けることさえ出来ない位の暴風雨になってるだろう。
律儀な若いコック達はいつも通り仕事にやって来たが、おれはこいつらを帰すことに決めた。
「この雨じゃなァ…今日はおれ1人で十分だ」
予約客に断りの電伝虫を入れるか。なんせ此処は吹きっ晒しの丘の上だ。せっかくご来店頂いて帰りに怪我でもされては敵わない。
しかし幸いなことに週末ではなかったし、この荒天の中そうそう一見の客が飛び込んでくるとも思えない。
だが店は開けておくことにした。死ぬ程腹を減らしたやつが、この店を探して探して辿り着くかも知れないのだから。
おれは出入りの業者と予約客に連絡を入れる為、電伝虫を取り上げた。

店は本来ピークを迎える時間であったがこの酷い嵐でさすがに来店客は無く、おれは店中の雨戸を閉めてまわった。
厨房を磨いて明日の仕込みを終わらせると、取り立てて急ぐ用事も無かったので煙草に火を点けてひと息つく。
一杯やるかな。頭の中で今夜の酒と肴を組み合わせていると、欠伸をしながらゾロが顔を出した。
「さすが鼻が利くじゃねェか。ツマミ用意すっから、てめェも手伝え」
「おう」
カウンターを開けて厨房に入り、業務用のデカイ冷蔵庫の中からタコとトマト、調味料棚からオリーブオイルと酢を放り投げた。
「適当に何か作れよ」
慌てて食材を受け止め、あっぶねェな、とぶつぶつ言いながら憮然とした面持ちでゾロは冷蔵庫を勝手に漁り始めた。
その後姿を見詰めながら、おれはこんな時間がいつまでも続けばいいと願わずにはおれなかった。
この土地で、おれが居て、最高の店があって、そして傍らには得がたいこの男。
いつまでもというのが贅沢ならば、半年、いや3ヶ月でもいい。
まるで夢物語だ。あまりにも都合が良すぎる想像に、思わず吐き捨てるように自嘲した。

タコとトマトのオリーブオイル漬け辺りになると思っていた食材は、ゾロの手でタコときゅうりの酢の物とトマトのまるかじりサラダに化けた。
「酢の物はまぁいいとして……まるかじりって料理か?」
「そのまんまだってうめェんだよ!」
「違ェねェ」
しかしタコときゅうりは恐ろしくぶつ切りで、殆ど材料から姿を変えていなかったし、トマトに至ってはまんまの格好で皿に鎮座間している。
おれ達はカウンターの隅に陣取って、文字通りゾロの料理を肴に酒を楽しんだ。
ゾロは渋い顔をしていたが、おれがとっておきの古酒と肴をチラつかせると「分かってんじゃねェか」と片頬を吊り上げた。
嵐が窓や扉をガタガタと鳴らしている。風で飛ばされてきたのか、時たま何かが外壁にぶつかる様な音もする。
だが今、丘の上のこの店はおれ達を柔らかく包んで、まるで背中を優しくあやす母親のようだった。
くだらない話で笑って、呑んで、よく食って、少し喧嘩して、何ものにも替えがたい大切な時間。
だからおれの心の奥底に、唾棄すべき身勝手な感情が潜んでいることを気取られてはならない。
出来ればこの時を切り取って、いつでも取り出すことの出来るガラスの箱に収めたい。
酒を呷る喉元や、シャツから覗く斜めに走る傷をちらと盗み見る。この男が欲しいと想う心が止められない。
永遠なんて望んじゃいない。もう少し、ほんの少しでいい。
ゾロ、お前の欠片が欲しい。
この感情が卑しさでなくて何だ。
想いの強さか、ぐらりと傾いだ身体を支えきれず、おれはカウンターに片肘をついた。
「あー…ダメだ。おれ寝るわ」
「おい平気か」
乱れる心に翻弄されるまま、ゆらりと立ち上がるとゾロの手が反射的に肩を支えた。
何の性的な色も孕まないその手にさえ、今のおれでは動揺を隠しきれない。
刹那触れた手を強く払って、喉元を押さえながら目を逸らすのがやっとだった。
「悪ィ……後は勝手に呑ってくれ」
強張らせた背中で気に懸けてくれるなと言外に告げ、おれは自室への階段をたゆたいながら上がった。

どうにか自室に滑り込んだおれはそのままベッドに倒れこんだ。
呼吸は荒く、ため息には明らかに欲情の色が滲んでいる。激しく胸を掻き乱すのはほんの些細なゾロの仕種だ。
物を咀嚼する肉感的な唇の形や、酒を嚥下する喉の動きが生々しく脳裏によぎり、知らず手は下肢の衣服を寛げていた。
下着の中で性器が硬く昂ぶっている。
そろりと布地の上から触れただけで、身を震わすほどの熱い息吹を覚えた。
「ぅ、ん、……っん……」
我慢できずに腰を浮かしてボトムを下げる。じかに指を絡めて締め付けながら擦りあげると、火の点いたような快感が背筋を這った。
この絡む指がゾロのものだったら。
不埒な想像にますます鼓動は高まり、性器を握り込む手が熱くなる。
欲しい相手が同じ屋根の下に居る。
許されないことをしているという背徳感に劣情が刺激され、甘い声が漏れるのをどうしても噛み殺せない。
「んっ……あ……っ」
────シャツを肌蹴てしどけなく誘ってみろ。
夕べのバーツの科白が突如頭の中で反芻された。
ロロノア・ゾロを抱えたままで────。
シャツのボタンを1つ、2つと定まらない指で除き、汗ばむ肌に指先を滑らせる。
頭を擡げた小さな乳首に爪先が触れて弾かれたように身体が跳ねた。
「あっ、…んぁっ……」
吐口からとろりと前触れの体液が零れ、しとどに手を濡らしている。ぬめりを得て快楽を貪る動きは徐々に抜き差しならないものになっていった。
まるで神経を鷲掴みに愛撫しているような感覚に、熱い塊がせり上がって我慢の限界が近いことを知らせた。
やけに早く訪れた吐精の感覚は泣き出してしまいたいような痛みを胸に感じさせる。
────こんなにも求めるものがあの男で、おれは一体どうすればいい。こんな馬鹿野郎、きっと誰も救えない。
だけどゾロ、真実お前が欲しいんだ。言い訳も反論も出来ないほどに。おれを狂わせるこの手がお前のものだったら────。

「……ゾ、ロ……っ」
ガクガクと腰が震えて下腹が波打ったと同時に精液が迸った。
危うく手のひらでぬるい体液を受け、やはりおれは馬鹿みたいだ、と荒い息を殺しながら射精にほうけた頭で自嘲した。
と、その時、ふと空気の流れを感じた。そろりと目線をやるとそこには半ドアになった扉と、1人の男のシルエットがあった。
俄かに信じることの出来ない光景に、舌は喉奥で縮み上がり萎縮して、言葉を失ったまま束の間呼吸さえ忘れた。
ゴツ、と重い靴底の音が響き、しかし次の瞬間には白濁に濡れた左手を掴まれ、その勢いのままに上体を引き起こされた。
「……どういうつもりだ」
ゾロの声はくぐもって、凄まじいまでの激情でおれを刺す。
掴まれ眼前に晒された左手から快楽の残滓が漏れ伝い、ゾロの親指を汚してポタリとシーツに小さな染みを作った。
おれは全身から力が抜けていくのを止めることが出来なかった。
「今、おれの名を呼んだ」
聞いたと言うのか、そんな。
ぐらりと視界が揺れたような気がした。どうしようもない絶望が腹の底から湧き上がる。
ただ一言、名前を音にしただけのこと。なのに、それを知られた事実は精液を見られた事よりひどく残酷だ。

嵐は激しさを増し、今宵、外にも裡にも吹き荒れている。






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