なかったことに・3


 それから一週間ほど経過した、ある日。
 カイジはコンビニのバイトに出ていた。

 日付も変わった深夜の時間帯。客足は疎らだが、まったくの閑古鳥というわけでもなく、店内には入れ替わり立ち替わり、常に最低ひとりは客がいるような状態だった。



「1280円です……」
 商品をレジに通し終えたカイジがぼそぼそと金額を告げると、カウンターの前にいた水商売風の女が不可解そうに顔を歪めた。
「は……? なんか、高くない?」
「えっ……?」
 ハッとしたカイジが画面を確認すると、同じ商品を二重スキャンしてしまっていた。
「あっ……! す、すんません……っ!!」
「ちょっとお兄さん。しっかりしてよぉ〜」
 明らかに自分より年下の女にどやされながら、慌てて打ち直すカイジを、隣のレジで佐原がじっと眺めていた。

「ありがとうございました……」
 ようやく会計を終え、ツンとした様子でヒールを高く鳴らしながら去っていく女を見送りながら、カイジは深くため息をつく。
 店内を見渡し、レジに来そうな客がいないのを確認してから、佐原はカイジに近づいて、声をかけた。
「ヤな感じでしたね〜、今の女。いくら美人でも、あんなツンケンしたのはちょっとカンベンっすよね」
 佐原はいつもの軽口を叩きながらカイジをつついてみたが、カイジは上の空で「ああ……」と答えるばかりである。
 佐原はちょっとムッとして、声を潜めてカイジに言った。
「でも、カイジさんも悪いっすよ。最近、シフトもりもり入れてる割に、毎回こんな具合だし。困るんすよね〜、客はともかくとして、バカ店の怒りの矛先がこっちにまで向いてきて、オレ完全にとばっちり食ってんですから」
 小声で捲したてても、カイジはぼんやりしていて返事もない。
 愛想笑いを引き攣らせながら、佐原はさらに言った。
「あのね、カイジさん。恋煩いもいいですけど、頼むからバイト中は最低限の集中力を保っててくださいよ……」
「はぁっ……!?」
 それまで、まるで話を聞いていない様子だったカイジが、いきなり大きな声を上げたので、佐原はすこしびくっとする。
「なんすか、急に……」
「お前今、なんつった……?」
 目を血走らせ、必死の形相で迫ってくるカイジ。
 その豹変ぶりにビビり、思わずあとじさりながらも、佐原は強気に言い返す。
「だから、恋にうつつを抜かすのもいいけど、仕事はちゃんとやれっつってんですよ」
「!! こ、こい……」
 呟いて、パクパクと酸欠の金魚のように口を開閉するカイジに、佐原は半眼になってニヤリと笑う。
「おっ、その様子だと図星だったんすね。焦っちゃって、かわいいなぁ」
「なっ……なんでそんなこと、」
「ん? なんでって……あんたの顔見てりゃ誰だってピンときますよ。こりゃ、好きな女のこと考えてやがるな……ってね」
 佐原は得意げにウインクしてみせる。
 カイジは動揺を隠しきれない様子で、さらに詰め寄った。
「なんだお前っ……! ふざけるなっ……!! よりによって、オレが、こっ、こ、こ、」
「こんばんは」
 突然、耳に飛び込んできた第三者の声に、カイジは喉を凍りつかせる。
「あ、いらっしゃいませ〜。……カイジさん、お客さんっすよ」
 佐原に脇腹をつつかれ、カイジはギ、ギ、とぎこちなく首を動かして声のした方を見る。
 カウンターの前に立っていた白髪の若い男は、カイジと目が合うと口角を上げた。
「ハイライトふたつ。……ひさしぶりですね、カイジさん」
 カイジはなんとも形容しがたいような表情で、男をじっと見つめたまま固まってしまった。
(ま……マイナスのオーラに満ちてやがる……っ)
 男と対峙した途端、カイジが発し始めたどんよりと重苦しい負のオーラを、佐原は敏感に感じ取る。
 ただごとじゃない空気がレジ周辺に暗雲のごとく立ち込め、こりゃあ関わらない方が無難だと、佐原はふたりを残してソロソロと隣のレジに退散した。


「ちょっと、ツラ貸せっ……!!」
 ハイライトの会計が済むなり、カイジは男を引きずるようにして店の外へ出て行った。
(触らぬ神に祟りなし。くわばら、くわばら)
 空気の読める佐原は余計な口出しをせず、まるでその姿が見えていないかのようにふたりをスルーした。



 人気のない店の裏までやってくると、カイジはようやく掴んでいたアカギの腕を離す。
 そして、真正面からアカギをキッと睨みつけると、開口一番、叩きつけるように怒鳴った。
「お前っ……!! オレにいったい、なにしやがった……っ!?」
 胸ぐらに掴みかかろうとするような勢いで迫られ、アカギは無表情にカイジを見る。
「なんです? 藪から棒に……」
「すっとぼけたって無駄だっ……!! この前のアレから、オレは段々、おかしくなっちまって……っ」
 吐き捨てるその顔は、憔悴しきっている。

 カイジは例のあの日以来、穏やかならぬ日々を送っていた。
 はじめはアカギに言ったとおり、すべてをなかったことにして、記憶の外に追い遣ることが出来ていた。
 尻孔をなにか硬いもので押し開かれたような違和感や、体中に散らばる鬱血痕にさえ目を瞑れば、アカギの置いていった金で、つかの間だが豪遊することもできたし、むしろウハウハだったのだ。

 しかし、日が経つにつれ、カイジの脳は徐々にあの夜の記憶を思い出し始めた。

 額に押しあてられる唇の感触。
 汗ばんだ肌を探る、指先の温度。
 絡まる舌の、苦い味。
 首筋の、うすい皮膚の匂い。

 そういった生々しい断片が、日常のふとした瞬間にフラッシュバックするのだ。
 しかも不思議なことに、それらの記憶は時間が経つごとに色濃くなっていくのだ。

 普通、記憶というものは時とともに風化していくはずなのだが、あの夜の記憶は時が経てば経つほど、まるで肌にじんわりと染みこんでいくかのように、深く、鮮明になっていく。

 カイジは辟易した。
 ぼーっとしている時間がいけないのかと思い、バイトのシフトを増やしたが、完全に逆効果。忙しく働いていてもカイジの脳味噌は回想をやめず、集中力を欠いてミスを連発している。
 挙げ句の果てに、夢にまであの夜のことが頻繁に出てくるようになって、ここ数日、カイジは碌に眠れてすらいないのだ。

 完全に、日常生活に支障をきたしている。
 おかしい。いくら男と寝たのがショックだからって、普通ここまで追い詰められはしないだろう。
 今まで、死線をいくつも潜り抜けてきたのだ、自分のメンタルは、そこまでヤワじゃないはず。

 そうするともう、アカギになにかされたと考えるより他、ないのだ。
 自分の思考が、アカギによって操作されている。オカルトじみてはいるが、今のカイジにはそれ以外の結論は思いつかない。

 精神的にも肉体的にもボロボロなカイジは、半ばアカギに縋りつくようにして言う。
「なぁ……お前いったい、オレにどんな魔法かけやがったんだよっ……!?」
 アカギはぴくりと眉を上げ、目を伏せて片頬を吊り上げる。
「『魔法』ときましたか……クク……」
「なっ……なにがおかしいっ……!?」
 静かに笑うアカギに、カイジはカッと赤くなる。
 ありえない、子供みたいなことを口走っているということはわかっている。
 それでも、『魔法』としか形容しようがないのだ。こんな理不尽なこと。

 アカギはまっすぐにカイジを見て、口を開く。
「『なかったことに』できなくて、困ってるんでしょ?」
 カイジの喉が、ヒクリと震えた。
 買ったばかりのハイライトの封を切り、一本抜き出して咥えながら、アカギは言う。
「生憎オレは、魔法なんてかけた覚えないんで……となると、話は簡単ですよ」
 そこで言葉を切り、アカギはタバコに火を点ける。
 たっぷりと肺に満たした煙をゆっくり吐き出しながら、固唾を呑んで見守るカイジに、アカギはふっと笑いかけた。

「そりゃカイジさん……あんた、オレに惚れちまったんだ」
「!! なっ……!!」

 衝撃に、カイジは充血した目を大きく見開く。
「なに抜かしやがるっ……!! ふざけるのも大概にしろっ……!!」
 憤怒の形相で叫ぶカイジだが、その顔色はなにかに怯えるように青ざめている。
 そんなカイジを黙ったまま眺め、アカギは再びタバコをふかす。
「『なかったことに』したくないんですよ、あんたが。表面上は忘れようと努力していても、深層心理でそう思ってる。……魔法があるとするなら、それだ。あんたがあんた自身に、魔法をかけてるんです」
「オレが……? オレ自身に……?」
 茫然自失といった体で呟くカイジに、アカギはニヤリと笑い、タバコの先を差し向ける。
「そう……。あの夜のことを忘れたくない。あんたは繋がりたがってるんだ。オレと、もっと深いところでね」
 ゆらゆら揺れる煙の向こうで、アカギは不敵に笑う。

 カイジは軽く息を吸うと、掠れた声でぽつりと漏らした。
「違……う……」
『恋煩い』という佐原の言葉がなぜかそこで思い出され、カイジはそれを振り払うかのように、首を激しく横に振った。
「違うっ……! 違う違う違うっ……!! ぜったい、そんなはずねえっ……!!」
 怒りと動揺で顔を真っ赤に染め、カイジは駄々っ子のように喚き散らす。
 だが、否定の言葉を重ねれば重ねるほど、アカギの言うことが、不気味に真実味を帯びてくるように感じられ、カイジは肩で息をしながら、ついには黙り込んでしまった。
 そんなカイジを、アカギは目を細めて眺めている。

 オレが、こいつに惚れてるだって……?
 馬鹿な。ありえない。そんなのはハッタリにきまっている。惑わされるな。

 自分に言い聞かせるようにしながら、カイジはアカギを睨めつける。
「『なかったことに』したくねぇのは、お前の方だろうがっ……!!」
 低い声で反撃を始めたカイジに、アカギは黙ったまま続きを促す。
「なかったことにしたくねぇから、そんなこと言ってオレの気を引こうとしてんだろっ……!! わかるんだよ、オレにはっ……! 人の弱った心につけ込む、悪魔の手口がなっ……!!」
 歪んだ笑みを顔面に張りつけ、カイジは強がるように言う。
 アカギはすこしだけ意外そうな顔をして、
「ふーん……」
 と呟き、一歩前に進み出た。

 縮まる距離に怯みつつも、矜持だけでなんとかその場に踏み止まるカイジに、アカギはさらに近づくと、囁くように言う。

「もういちど、同じことしてみればきっとわかりますよ。オレとあんた、どちらの言うことが正しいのか……
 素面ですれば、誤魔化しなどいっさい利かない。あんたの知りたがっている、本当の真実が得られる……」

 カイジの体が、小刻みに震え始める。
 おぞましい誘いを受けているというのに、カイジはアカギに魅入られてしまったかのように、その場から動けない。

 生ぬるい夜の風が、ぞろりと頬を撫でていく。
 アカギは浅く笑い、カイジの心を絡め取るような声音で続けた。

「あるいは、どちらも間違ってるかもしれないし、どちらも正しいのかもしれない……
 ねぇ、知りたくありませんか? オレの気持ちと、あんたの気持ち……」

 アカギはそこで言葉を切り、邪悪な笑みを浮かべる。

 今にも泣き出しそうに顔を歪めながらも、カイジはゆっくりと自分に伸ばされる悪魔の手を、避けることも逃げ出すこともできず、ただ息を飲んでその場に立ち竦んでいることしかできなかった。








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