なかったことに・2
「おはよう」
ある日、目を覚ますとそう挨拶してきたアカギは、なぜかカイジと同じベッドの中にいた。
肘枕して自分の顔を眺めているアカギに、起き抜けで咄嗟に状況把握のできないカイジは、ぼんやり「おはよう……」となどと間抜けにあいさつしたが、自分の声で徐々に意識が覚醒してくるにつれ、その目と口を大きく開いていった。
「あっあっ、あっ……!」
カイジはガバリと起き上がり、腰と頭に走った鋭い痛みに悶絶する。
驚愕と激痛のあまり、あかぎ、と名前を呼ぶことすらままならないカイジに、アカギは目を細めて笑う。
「寝顔は案外、幼いんだな。あんた」
やわらかい声に、カイジは全身からサーッと血の気が引いていく音を聞いた気がした。
寝顔を見られていた、のが問題なのではない。
どうしてアカギが同じベッドで、自分の寝顔を眺めるような事態になっているのか、ということが問題なのだ。
しかもふたりが今いる部屋は、カイジが見たことのない場所なのだが、やたら大きなベッドとか、テレビの横に設置されているエアシューターとか、ヘッドボードの上にある意味深なアメニティボックスとか、次々に目に飛び込んでくるそういったものどもを見るに、ここはいわゆる、そういう施設なのだと認識せざるをえない。
悪夢はそれだけじゃ終わらない。
起きて二分のカイジが直面したもっとも恐ろしい現実はーー素っ裸だということだ。
自分が。そしておそらくは、アカギも。
渇ききって張り付いた喉を潤すようになんども唾を飲み込み、蒼白な顔のまま、カイジはなんども瞬きをする。
それから、勇気を出して分厚い掛け布団を捲り、こわごわとその中を覗き込んでから、「ひぃっ」と悲鳴を上げて自分の体を掻き抱いた。
「クク……眠気は覚めましたか……?」
鳥肌のびっしりと立った裸の腕を撫でさするカイジに、アカギが体を起こしながら声をかける。
なんでっ……!? どうして、こんなことにっ……!?
カイジは深く混乱しながら、必死に昨夜の記憶をたぐり寄せる。
昨日は確か、二カ月ぶりくらいにアカギがうちに訪ねてきて、アカギが贔屓にしてるっていう、ちょっと高めの飲み屋で呑んだ。
久々に会えたし、酒も料理も滅茶苦茶うまかったから、ついテンション上がっちまって、常になくいろいろくっちゃべってウザいくらいアカギに絡みまくって、その後二次会、三次会……と、店を変えてぐだぐだ飲み続けたことは覚えてる。
だけど、その三次会の途中あたりからの記憶が、綺麗さっぱりスポーンと抜け落ちているのだ。
そして、一足飛びにこのありさまである。
カイジは小刻みに震えながら、両手で顔を覆う。
「夢……」
「じゃ、ねえんだな、これが」
ぽつりと呟いた希望の言葉すらバッサリと切り捨てられ、カイジはとうとうどばっとその目から涙を溢れさせてしまう。
いったいどうして、こんなことに。
相手はまごう事なき、正真正銘の、男。
そりゃあ、最近、抜いてなかったけど。正直、溜まってたけど。
だからって、ラブホで知人とホモセックスだなんて。
貞操観念などあったもんじゃない。
あんまりだ。ひどすぎる。
悲壮感漂う泣き姿を眺めながら、アカギはヘッドボードに置いてあるタバコを引き寄せる。
「一応言っておきますが、ワカンだったんで」
「わか……ん……?」
その言葉の意味をすぐには理解できず、カイジはぐすぐすと鼻を啜りながら、横目でアカギを見る。
「合意の上だったってこと」
咥えたタバコに火を点けながら言われ、カイジは頭をガツンと殴られたようなショックを受けてあんぐりと口を開いた。
「なんだよ、それっ……! オレ、本当に言ったのか? その、い、いいって……」
「もちろん」
優雅に紫煙を燻らせながら、アカギはカイジに顔を近づける。
「……『いれていい』って、言ってたぜ?」
「!!!」
立て続けに襲い来る衝撃に、カイジは言葉も出ない。
和姦。その上、掘られる側。もひとつおまけに、開通済み。
精神的ダメージの三倍満である。
直撃で食らったカイジは完全にぺしゃんこになり、しばし生気が抜けたように虚ろな目で宙を眺めていた。
そんなカイジをよそに、アカギは悠々とタバコをふかす。
そして、短くなったそれを灰皿に押し付けると、床に足を下ろして立ち上がった。
突然動き出したアカギを、カイジは怯えた目で見上げる。
「そんな顔しなくても……べつに、取って食いやしませんよ」
鼻で笑って、アカギは下穿きに足を通し始めた。
落ち着いてみてみると、ベッドの脇には互いの脱ぎ散らかした服が抜け殻のように散らばっていて、ベッドサイドに置いてあるゴミ箱には、丸まった白いティッシュがいくつも入っている。
青天の霹靂をやり過ごし、ようやく落ち着きを取り戻してきたカイジは、敢えてそれらを目に入れないようにしながら、自分が次に取るべき行動を考える。
冷や汗をかきながらカイジがせわしなく目線を泳がせている間に、アカギは服をすべて身につけてしまった。
「そろそろ出るけど、あんたは……」
そう、アカギが言い出した瞬間、カイジは覚悟を決めた。
勢いよく掛け布団を剥ぎ、ふかふかのベッドから転げ落ちるようにして一糸纏わぬ姿で土下座したカイジに、アカギは動きを止める。
床に掌をつき、深々とアカギに頭を垂れながら、カイジははっきりとした真摯な声で言った。
「アカギ、頼むっ……! この通りだっ……! なかったことにしてくれっ……!!」
黒いつむじをみながら、アカギは緩く首を傾げた。
「なかったこと……?」
「ああっ……! 手前勝手なこと抜かしてるってことは重々承知だっ……! だけどっ……!」
カイジは固く目を瞑り、血を吐くように叫ぶ。
「覚えてねぇんだっ……! なに一つ、思い出せねぇんだよっ……! 情けねぇ話だが、こんな状態で和姦だなんだって言われても、とてもじゃねえけど受け入れられねぇよっ……! だから……っ」
「いいですよ」
軋るような懇願に重なるようにして聞こえたアカギの声に、カイジは「へっ……?」と顔を上げる。
「いっ、いいのかっ……?」
目をまん丸にして驚くカイジに、アカギはこくりと頷く。
「なかったことに、したいんでしょう? いいですよ。あんたとこうなったのは……まぁ、成り行きみたいなもんですし」
なんでもないことのように答えるアカギに、カイジは「そうか」とため息をつく。
もし、アカギが自分に好意を抱いていたのだとしたら、カイジはその気持ちを踏みにじったも同然である。
だが、今のアカギの口振りからすると、昨夜の行為は完全に酔った勢い、若気の至り、ほんのはずみで致してしまったと解釈してよさそうだ。
人の善いカイジは、自分の行動がアカギを傷つけてしまうのではないかという恐れを抱いていたから、そうならずに済んだことに、心底ホッとしたのだ。
今日目覚めてから初めて緩んだ表情を見せるカイジに、アカギは加えて言う。
「じゃあ、昨日のことは綺麗さっぱり忘れて、今まで通り、あんたに接します。……いいんでしょう? それで……」
カイジは目を見開いた。
願ってもみないことだった。こんなに自分勝手な申し出を承諾してくれる上に、今まで通りの付き合いを続けてくれるなんて。
感動のあまり言葉を忘れるカイジを、アカギはじっと覗き込む。
「それだけじゃ、不服ですか……?」
「いっ……いやっ……!!」
ハッとして、カイジはぶんぶんと首を横に振る。
「ありがてぇ……っ!! 感謝してもしきれねぇよ、アカギ……!」
心の底から嬉しそうにそう言って、再度、地面に額を擦りつけるカイジに、アカギは苦笑する。
「わかったから……立ちなよ、カイジさん」
促され、カイジはおずおずと立ち上がる。
相変わらず真っ裸の情けない姿で立つカイジを前に、アカギはジーンズのポケットを探り、よれよれの万札を何枚か、無造作に取り出してカイジの手に握らせた。
「ホテル代。オレは先に出るけど、あんたは落ち着くまでいるといい」
「! 多すぎるだろ、これじゃ……」
「いいから、とっときなって」
まごつくカイジに半ば無理やり金を押しつけて、アカギは鞄を持ち、さっさと部屋を出て行こうとする。
「あっ……アカギっ……!」
入り口のドアを開けようとするアカギに、カイジは咄嗟に声をかけた。
「ありがとな……。その……、お前と今まで通りの関係を続けられて、嬉しいよ……」
せっかく繋がったアカギとの縁が切れなかったことが、カイジは本気で嬉しかったのだ。
微かに赤くなった頬を誤魔化すようにぽりぽりと掻きながら、カイジはアカギの顔を見る。
「オレも、昨日のことはなかったことにする。ちゃんと、ぜんぶ忘れるから、次会ったときは普通に声かけてくれよなっ……!!」
照れ臭そうに笑うカイジをしばらくじっと見たあと、アカギはクスリと笑って呟いた。
「まぁ……あんたにそれが、できるならね。」
独り言よりもちいさなその声は、当然カイジに届くことはなく、アカギは、
「それじゃ……いずれ、また」
とだけ言って、部屋の外へ出て行った。
ガチャリと扉の閉まる音を聞きながら、カイジはアカギの懐の深さに、改めて感謝せずにはいられなかった。
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