屏風の虎・5



 都合のいいことに、近所の喫茶店には、他に客の姿はなかった。
 カウンターからいちばん遠い窓際の席に着き、店の親爺にホットコーヒーをふたつ注文して、俺は改めて対面の男をまじまじと観察する。

 なんというか……平凡な男だった。勝手に怪物のような容姿を想像しておいて失礼な話なのだが、なんだか俺はすこしだけ、ガッカリしてしまった。
 伊藤はひどく落ちつかなさげに、視線を彷徨かせている。卑屈そうに背中を丸めたその姿は、本当にこれがあの伊藤開司なのかと疑わしくなるほどだ。
 俺がひたすら眺めていると、痺れを切らしたように伊藤が口を開いた。
「で……? なんなんですか、オレに頼みって……」
 ぼそぼそと言われ、俺はそうだったと思い出し、「ああ、」と声を上げる。
「赤木しげる……」
 その名を口にしたところで、親爺がコーヒーを運んできたので、俺は言葉を切った。
 コーヒーをテーブルに置き、親爺が離れていったところで、俺は改めて伊藤を見て、思わず固まってしまった。

 その目。黒目のちいさい三白眼が、鋭利な刃物のように光っている。
 赤木の名を口にした途端、伊藤は先ほどまでとはまるで別人のような表情を見せた。
 頬や指に残る傷が、異様なほど目につき始める。

 俺は気圧され、言葉を唾とともに飲み込んだ。
 伊藤は俺の顔を見たまま、ゆっくりとコーヒーを一口啜った。
「アカギが、どうかしたんですか……?」
 静かに問われて、俺は慌てて舌を動かした。
「あ、赤木さん、に……、うちの組の代打ちを引き受けていただきたいんです。噂によると、貴方は、赤木さんとかなり親しい間柄のご様子……」
「そんなこと、ないですけど……」
 微かに、伊藤の瞳が揺らぐ。
 動揺しているのだろうか?
 理由はわからなかったが、この機を逃すまいと、俺はさらに畳みかける。
「いや、十分過ぎるほど調べはついています……貴方になら、きっと赤木しげるをーー屏風の虎を、こちらの側へ引き摺りだせる……」
「屏風の虎?」
 尋ね返され、裏社会で赤木がそう呼ばれていることを教えると、伊藤は感心したように「へぇ〜……」と呟いた。
「あいつ、そんな風に呼ばれてんのか……」
 その口調には、親しい友人に向けるような、心安い響きが確かに含まれていた。

 俺は確信する。この男なら、きっと赤木をその気にさせられる。
 さっき垣間見せた、只者ならぬ雰囲気。あれこそが、この男の本質なのだ。
 それなら、あの赤木しげるが認め、この男と交流があってもおかしくない。

 しかし、昂ぶる俺とは裏腹に、伊藤はかるくため息をついた。
「オレに頼まれても無理ですよ……あいつをその気にさせるなんて、なにかよっぽどのことがないと……」
 端から諦めたような口振りに、気持ちが萎えそうになる。
 やはり、難しいか。
 しかし、ここまできて諦めるわけにはいかないと、俺は気持ちを奮い立たせた。
「そこをなんとか……お願いします。勿論、報酬は弾みますから……」
 俺は鞄から札束を取り出す。

 組長からの軍資金百万。その内十万は、情報料として女に渡してしまったから、残りは九十万だ。

 テーブルの上にドンと置くと、男の目の色がはっきりと変わった。
 素寒貧だというのは、どうやら本当らしい。

 さて……、この金、どう使うべきか。
 ない頭を捻って考えながら、俺はさらに言い募った。
「九十万あります……貴方がもし、赤木さんを呼び出してくれたなら、それだけで五十万差し上げましょう」
 男が息を飲むのがわかった。
 よし、あともう一押しだと、俺は言葉を続ける。
「そしてもし、貴方が赤木さんをその気にさせて、うちの組の代打ちを引き受けさせてくれた暁には……残りの四十万も差し上げます。……どうです? 悪い話じゃないでしょう?」
 俺は無理に笑みを作ったが、頬が引き攣ってしまった。

 男の視線は、テーブルの上の札束に完全に固定されている。
 突如として現れた目の前の大金に目を血走らせているその様子は、浅ましく、矮小だ。
 これがさっきの男と同一人物なのだろうかと、密かに混乱していると、伊藤はやがて、ぼそぼそと言った。
「呼び出すくらいなら……あるいは……」
「えっ……? 本当ですかっ!?」
 思わず、大きく身を乗り出してしまう。
 男はひどく苦々しげな顔で、携帯を取り出した。
「でも……代打ちを引き受けさせるのは……難しいと思う……」
「ええ、構いません……不躾なお願いを聞き入れてくださって、ありがとうございます」
 深々と頭を下げて礼を言うと、男は軽く頷き、席を立った。
「すこし、待ってて下さい」
 そう言って、男はトイレのドアの向こうに消えた。






 数分後。
 戻ってきて席に着いた伊藤は、なぜかひどく青ざめた顔をしていた。
「アカギに連絡がつきました。あと十五分ほどで、こちらに来るそうです」
 淡々とした報告に、「えっ」と間抜けな声を上げてしまう。
「来るっていっても、ここじゃなくてオレの部屋なんで……、これ飲んだら、出ましょう」
 そう言ってカップを持ち上げる伊藤に、俺は急に焦り始める。

 まさか、こんなにもあっさり事が運ぶとは思ってもみなかった。
 あとたったの十五分で、噂でしか知らない伝説の男と相見えることになる。

 なんとも実感が湧かず、俺はどぎまぎと戸惑ってしまった。
 だがおかしなことに、俺はともかくとして、なぜか伊藤までもが動揺を隠しきれない顔つきをしていた。

 ぼんやりと冷めたコーヒーを啜り、不味そうに顰められたその顔はやはり、血の気が引いている。

 赤木に、なにか言われたのだろうか?
 たった数分の電話で、こんなにも憔悴してしまったのだろうか。

 伊藤の様子を見ているうち、今さらながら、赤木に対する恐怖心が俺の心を震わせ始めた。

 情けない。俺はぐっと唇を噛み締める。
 せっかく、あと一歩のところまで迫ってきたんだ。こんなところで怖じ気づいて引き下がるなんて、漢じゃねえ。

 気持ちを奮い立たせるように、俺は冷めたコーヒーをぐっと飲み干す。
 男は半分以上コーヒーの残っているカップをソーサーに置くと、「じゃあ……行きましょう」と言って立ちあがった。


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