ポートレイト しげカイ→アカカイ


 それは、薄っぺらな一冊の手帳だった。
 桜の花を模した校章の上に、金色の文字で『生徒手帳』と印字してある、黒いビニール製の表紙。
 それを捲ると、その裏側に、一枚の写真が貼り付けてある。
 
 教師にしつこく注意でもされたのだろう。詰め襟のホックを、しかつめらしくいちばん上まで止めている。
 頗る不機嫌そうな表情をしているが、珍しい髪色にまず目が行くせいで、そう目立たない。
『上記の者は本学校生徒であることを証明する』という文言の上で、自分をこんな狭い枠に閉じ込めるな、とでも言いたげな顔でこちらを睨みつける、ひとりの、中学生の写真だった。




「なぜ、あんたがこんなもの持ってるんだ」

 隣からそんな声がしたのでカイジが寝返りを打つと、アカギが黒い手帳を手にして、ぱらぱらと捲っていた。
 いつの間に見つけたのだろう。それは、本棚の中に無造作に差し込んであったものだ。
 べつに隠していたわけではないけれど、相変わらず目敏い奴だと感心しながら、カイジは布団を自身の肩にかけ直す。
 こいつ、寒くねえのかな。
 体を起こし、咥えタバコで手帳を捲るアカギの、剥き出しの上半身を眺めてそんなことを考えつつ、カイジは口を開く。
「なぜ、って、お前が置いてったんだろうが。忘れちまったのかよ」
「そうじゃなくて……なぜこんなもんを、後生大事に取っておいてあるんだって聞いてる」
 アカギの口調が乱暴だったので、カイジは驚いた。

 昔の写真を見られるのが、そんなに嫌だったのだろうか?
 こいつは、そんなことにこだわらない質だと思っていたが。

 内心、首を傾げつつ、カイジはアカギをじっと見上げる。
 手帳を捲るアカギは、なぜだかとても不愉快そうな顔をしていて、その面差しが、写真の中の中学生と重なった。



 六年前。
 まだ十三歳のアカギはカイジと出会い、ごく短い期間をともに過ごしたあと、唐突にその行方を眩ませた。
 最後にカイジの許を訪れたとき、アカギはさまざまなものを狭い部屋に残し、家主が起きる前に出ていったのだ。

 まだ真新しい学ランの上下。
 薄汚れた、黒い皮の学生カバン。
 おそらく一度も吹かれたことがないであろう、ぴかぴかのリコーダー。

 そういった雑多なものどもに混じって、黒い学生手帳も、床の上に乱雑に捨て置かれていたのだ。

 当時のアカギにとっては文字通り、不要なものをそこに捨てていったという感覚しかなかったのだろう。
 だが、残されたカイジにとってはもちろん、そうではなかった。

 十三歳の生意気な少年が自分から離れていったのだとわかるまで、そしてそれがわかってからも、いつ彼が戻ってきてもいいようにと、しばらくの間は、学ランや学生カバンなんかは押し入れに仕舞いこんで、大切に保管していたのだ。
 さすがに三年も経つ頃には、それらも燃えるゴミに混ぜて処分してしまったのだが、それでも、この生徒手帳だけは、どうしても捨てられなかったのだ。

 カイジにとって、褪色した一枚の写真だけが、かつてその少年が確かにそこにいたという、唯一の証だった。

 風の吹くまま気の向くまま、野良猫のように気まぐれで、また会えるかどうか怪しいような少年を、待っているような諦めたような、そんな曖昧とした日々を、カイジはずっと、その写真とともに過ごしてきたのだ。


 とはいえ、それを率直に伝えるのはどうにも憚られ、カイジは沈黙する。
 質問に答えないカイジを横目で睨むようにしたあと、アカギは、
「もう、この写真はいらねえな」
 と呟いた。

 そして、やにわに指でタバコを挟んで唇から抜き取ると、煙の上がるその先端を躊躇いなく写真に押しつけたので、カイジはギョッとして跳ね起きた。
「ばっかやろ……!!」
 ものすごい勢いでアカギの手から手帳を奪い取り、カイジは慌てて写真を見る。
 端の方がすこし焦げてしまったが、写真の中の少年には影響がなかったようだ。
 ほっと胸を撫で下ろすカイジを、非常に面白くなさそうな顔つきで見て、アカギはつと腕を伸ばし、カイジの手から手帳をひったくった。
「あっコラ……!!」
 カイジは目を吊り上げたが、不機嫌さを隠そうともしないアカギにずいと迫られて、伸ばしかけた手を止めた。

 しばらく、間近でカイジの顔を見つめたあと、アカギは口を開く。

「……なんで? べつにもういいじゃない、こんな写真。こうして、オレが戻ってきたんだから」

 低い声でそんなことを言うアカギに、カイジは目を見開いた。
 不満そうなその顔には、やはり、わがままで生意気だったあの頃の少年が見え隠れする。
 そしてその少年は、『過去ではなく、今ここにいる自分をちゃんと見ろ』と怒っているのだ。

 なんだか、急に鳩尾の辺りがくすぐったくなってきて、カイジの目が自然に細まる。
 目の前にいる大人の男の、白い頭をぐしゃぐしゃに撫で回してやりたくなった。

 素直に『わかったよ』と言ってやることもできるけれど、それじゃあつまらない。
 なにせこちらは、六年も待たされたのだから。

 カイジはそっとアカギの手許に指を伸ばし、写真に触れる。

「この写真は、オレにとって特別なんだよ。なにせ、そばにいたくてもそれが叶わなかった頃のお前が、手帳を開けば、そこにいるんだから」

 二度と戻らない、六年という月日。
 それを懐かしむように慈しむように、カイジはやわらかい眼差しを、写真の中の少年に注いでいた。

 穏やかなカイジの表情を、アカギは眉間に皺を寄せてつまらなそうに眺めていたが、やがて、意思を固めたような声で、ぼそりと呟いた。

「……埋めてやる」
「あ?」
「六年なんて、オレが埋めてやる。だからあんたもう、この写真見るの、やめなよ」

 六年前より格段に研ぎ澄まされた瞳でまっすぐに射貫かれ、カイジはわずかに息を飲んだが、すぐに口端を上げてニヤリと笑ってみせる。
「……言っとくが、オレの六年は、長かったぜ? お前に埋められるかな?」
 挑発的な物言いに、アカギも不敵な笑みを浮かべ、カイジの耳許に唇を寄せた。
「あっという間さ。今日一日、あれば事足りる」
 すぐさま、耳の穴に潜り込んでくる舌の感触に笑い声を上げながら、カイジはアカギの手によって素直に押し倒される。
 甘噛みするような、せわしないキスをなんども受けながら、カイジは手を伸ばすと、白い頭をぐしゃぐしゃに撫で回してやった。







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