そのままで・2



「……さん、カイジさん。起きて」

 肩を揺すられて、唸りながら目を覚ます。
 瞼を開くと、ぼうっとぼやけた視界に見慣れた天井が映った。

 意識がいまいちはっきりとしない。しんとした部屋に響く秒針の音を聞きながら、今何時だろうと考えていると、隣から低い笑い声が聞こえてきた。
 聞き慣れないそれに眉を寄せ、隣を見てオレは文字通りガバリと飛び起きた。

「あんた、ニヤニヤ笑いながら眠ってたぜ。可笑しかったから、つい起こしちまった」

 悪いね、と、すこしも悪びれずに謝って肩を揺らす、見知らぬ男。
 ベッドの隣で嗅ぎ慣れぬ紫煙を燻らすその男と咄嗟に距離を取ろうとして、オレは素早く壁に背を張り付けた。

「だっ……! なっ……!?」
 誰だっ……! いったいなにが起こったっ……!?
 そう言おうとしたが言葉にならず、ただただ口をパクパクさせるオレに、男は細く煙を吐き出し、言った。

「オレのこと、わからない?」

 抱えた片膝に頬を寄せ、男は目を細めてオレをじっと見る。
 その視線に威圧感を覚えるが、後ずさりしようにも後ろには壁しかない。

 青ざめながらもこわごわと男の双眸を見返して、オレはあっと声を上げた。
 オレの顔を覗き込んでくる瞳の、不思議な淡い色に見覚えがあったからだ。

「し、しげ……」
 信じられない気持ちで呟くと、男は鋭い目を細める。
「おはよう、カイジさん」
 滑らかなテノールが紡ぐのは、よく聞き知ったあの少年の呼び方。

 いや。
 いやいや、ありえねえだろっ……!!

 もう、ほとんどパニックになりながらそう思うけれども、確かに男としげるの間には、無視できない共通点がたくさんあった。
 若いのに真っ白な髪、シャープな面立ち、皮肉めいた笑い方。
 とくと見れば見るほど、浮かび上がるようにそれらの要素が目についてきて、目の前にいるのが昨日共寝した少年だと信じる他なくなったオレは、気が狂いそうになる。

「お、おま、どうして……」
 一晩でこんなにデカくなるもんなのか、最近のガキってのは!?
 ……そんなことあるわけねえだろって、オレが自分にいちばんツッコみたい。
 だけど、起き抜けに頭をガツンと殴られたみたいなぶっ飛んだ展開に、脳みそがオーバーヒートして、ただただ間抜けに驚くことしかできないのだ。

「……『どうして』?」
 緩く首を傾げ、男はクスリと笑う。
 それはしげるがときおり見せる仕草、そのもので。
 ハッキリとした既視感に目を白黒させるオレに向かって、男は口を開いた。

「カイジさんが、オレを大人にしてくれたんじゃない」

 一瞬。
 男がなにを言っているのかわからなくて、呆気にとられた。
「……は?」
 ひどく間の抜けた声で呟いてから、意味深な含み笑いに、男の言わんとしていることをようやく理解する。

 ボッと火がつくように、顔が熱くなった。
「い……いやいや……大人に、ってっ……」

 確かに昨夜のアレは、俗にそう形容されたりするかもしれないけど……!
 つーか、しげるも行為の前、しきりにそんなこと言ってた気がするけど……!!

 でもそれはあくまで比喩表現であって、実際、一晩でこんなに成長するなんてこと……

 息を飲み、オレは目の前の男を食い入るように見つめる。

(ありえるのかっ……!? 赤木しげるならっ……!!)

 確かに、オレが昨日寝たのはただの中坊ではない。あの赤木しげるなのだ。
 普通なら到底受け入れられないはずのこんなわけのわからない事態も、『赤木しげるだから』という一言で、なんとなく説明がつきそうな気がしてくる。

 目の前の男と、ついでについつい納得しそうになっている自分自身にもちょっと戦慄しつつ、オレは呻いた。
「狂気の沙汰……」
「でも、面白いだろ?」
 すかさずそう切り返してくる男に、「ねーよっ……!」とツッコミを入れる。
 男は喉を鳴らして笑い、枕許の灰皿でタバコを揉み消すと、おもむろに、オレの方へと迫ってきた。

「……ねぇ、カイジさん」

 心臓が、魚のように跳ねる。
 場の空気を一変させる、鼓膜に絡みつくような囁き。
 明確な意図を持って細められた瞳と、ゆるく弧を描くうすい唇に、ゴクリと唾を飲んだ。

 間近で改めて男の姿を見ることになり、それまでしげるの面影ばかりに気を取られていた男の、肩や、腕や、首筋のどこにも、幼い甘さが欠片も残されていないことに気づく。

 目の前にいるのは、もはや少年ではない、ひとりの『男』。
 それも、同性のオレですら圧倒されるような迫力を持った、類い稀な大人の『男』だった。

「オレ、これでもまだ、あんたより歳下なんだぜ。せっかく、大人にしてもらったってのにーー」

 ーーマジかよ。
 てことは、コイツまだ未成年かもしれねぇのか!?

 衝撃の事実に動揺しつつも、今はそれどころじゃない。
 じりじりと、男のもつ雰囲気に呑まれそうになりながら、オレは冷や汗をかく。
 なぜ今まで気がつかなかったのだろう。男は確かにしげるでありながら、同時にまったくの別人でもあったのだ。

「だからね、カイジさん」

 音もなく、ひたりひたりと。
 凄絶な雄の色気を隠そうともしないで、迫り来る獣。
 捕食される恐ろしささえ感じて思わず身震いしてしまうほどなのに、男の存在から発せられる強烈な引力が、目を逸らすことすら許さない。

 みっともないほど竦んでいるオレを、男は壁にたやすく縫い付ける。
 限界まで見開いた視界の端、男はオレの左耳に唇を寄せ、熱い吐息とともに、滴り落ちるような艶を孕んだ声で吹き込んだ。

「もっと、ちゃんとオレを、大人にして?」



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