たまらない アカギが理性を失う話


「……でよー、その客がオレにいちゃもんつけてきたんだけど、それを店長に見られちまったんだよ。そしたらさ……」

 気分良く酔っぱらったカイジは、いつもよりすこしだけ饒舌になる。
 八割方聞き流しながら、アカギはくだを巻くカイジを眺めていた。

 カイジの話はいつだって、アカギにとってはどうでもいいような、くだらない愚痴ばかり。
 普段のアカギなら、そんな不毛な時間など必要ない、と飲み会自体を蹴ることだろう。
 ただし、相手が惚れた奴となれば、話は別だ。


 ある賭場でカイジと出会い、アカギはその胆力と、凡庸さの中に隠されている底知れない狂気に惹きつけられていた。
 普通の人間なら、まず気がつかないカイジの資質。だが、それは滅多に揺れることのないアカギの琴線にふれ、腹の底まで重く響くような深い興味を抱かせた。

 まだ、知り合って日が浅いふたり。
 だがアカギは、カイジのことが好きになりかけている自覚があった。
 
 今まで、性欲を満たすためだけに一夜限りで女を抱いた経験しかないアカギにとって、これは生まれて初めての、ちゃんとした恋愛感情だった。

 カイジほどの相手に、これから先出会えるかどうかわからない。
 だからこそ、アカギは慎重になっていた。

 段階を踏んだ恋愛というものなどしたことがないし、なにより、相手は同性だ。
 初恋にしては、かなりハードルの高い片思いだったが、障害が多ければ多いほど、燃えるのがアカギの性分である。
 ただ、心底惚れ抜いている相手なので、できることなら、傷つけたくないのだ。
 そんな他者を思いやる、真人間のような感情が自分の中にまだ残っていたのかと、アカギは苦笑を禁じえなかったが、ともかくも、カイジを好きになったからには、大切にしたい。
 そして、カイジの方からも自分に好意を持って欲しいという願望を、アカギは抱くようになったのだった。


 だから、カイジからのサシ飲みの誘いは、アカギにとって僥倖といえた。
 なにせ、惚れた相手とふたりきり。しかも相手の家での宅飲みなのだ。 
 アカギにしてみれば、鴨が葱を背負ってやってきたどころの話ではないのだが、カイジが自分をこうやって誘ったということは、多少なりと自分を信頼し、心安く思ってもらえているのだと理解し、今日はまだ、下心を表に出さないでおこうと心に決めた。

 そういうことに疎そうなカイジが、まだ誰にも触らせたことのない場所を触ってみたい。誰にも聞かせたことのない声が聞いてみたい。
 そんな欲望は、もちろん、ある。
 だけど、焦る必要はない。話を聞く限りでは、カイジは今独り身らしいし、女の影もない。
 絡め捕るようにすこしずつ、ゆっくり距離を縮めていく、その過程を楽しむのもいいと、アカギは鷹揚に構えていた。



 しかし、そうはいっても思考の中心はやはり、目の前の鴨をどう落とそうかということだ。
 カイジの話に適当に相槌を打ちながら、アカギはひたすら、それについて考えていた。

 どんなふうに口説くのがいちばん効果的か。ここで警戒されてしまっては、せっかく縮んだ距離も、すべてが水泡に帰す。案外、はっきりしない態度を取ることも多い人だから、多少、強引にいった方がいいのか。それともーー



「お前っ……! オレの話聞いてんのかよっ……!!」
 突然、カイジがグラスを卓袱台に叩きつけ、その音でアカギは我に返る。
 じっとりとした目つきで睨みつけられるも、アカギは平然とした顔で取り繕った。
「聞いてるよ、ちゃんと」
「嘘つけっ……! じゃあ、なんの話してたか、言ってみろよ」
「……」
 口を噤んだアカギを見て、カイジは目を吊り上げた。
「ほらな、やっぱりぜんぜん聞いてねえじゃん……」
「……悪かったよ」
 アカギが謝ると、カイジは「は〜〜〜……」と深いため息をつき、背中を丸めて卓袱台に頬杖を突いた。
 そのまま、なにかを考え込むように黙ってしまったカイジに、どうしたものかと考えた挙げ句、とりあえず空のグラスにビール瓶を傾けてやると、カイジはグラスを持ち上げてそれを受ける。

 グラスに満たされた蜂蜜色の液体を眺めながら、カイジはぽつりと呟いた。
「……お前さ、つまんねえんだろ」
 思わぬ言葉に、アカギはカイジの顔を凝視する。
 カイジはアカギの方を見ないまま、ふて腐れたようにぼそぼそと喋り続けた。
「お前がこういうの好きじゃないって、なんとなくわかってたんだけど……せっかくこうして知り合えたわけだし、いちど、お前と飲んでみたくて……」
 喋っているうちにしょげてきたのか、カイジはしょんぼりと肩を落とす。
 酔いのせいで、頬は火照って赤い。目が潤んでいるのも、やはり酔っているせいなのだろうか。
 腹の底が急にぞわりとして、グラスを持つアカギの手に知らず、力が籠もった。
「オレの方こそ、悪かったな……もう、誘わねえよ……」
 そう自己完結して、濡れた三白眼でじっと見つめてくるカイジに、アカギはぞくりと背筋を震わせる。

 なんなんだ、この人は。
 自分より年上で、ガタイもいい、正真正銘の『男』。
 それなのに、いくら酔っているとはいえ、こんな幼稚な拗ね方。
 どう考えても、妙だ。おかしい。
 ……はずなのに、そのアンバランスさの中に、危なっかしい色香に似たようなものを漂わせている。

 ぞくぞくするような、蠱惑的な表情だった。
 惚れた欲目を抜きにしても、今まで抱いたどの女より、カイジの表情は効果的にアカギの欲を刺激した。
 下半身にゆるりと血が集まる気配があって、アカギは軽く唇を噛む。

 たまらない、と思った。
 相手が男だからと、完全に気を抜いていた。
 あのカイジがまさか、酔うとこんなにも扇情的になるなんて、思いも寄らなかったのだ。

 アカギはカイジの方から視線を逸らし、卓袱台の上を見る。
 傷つけたくないと思ったはずだ。ゆっくり近づいていこうと。
 だが、酔っぱらってむくれるカイジには、そんな決意など容易くぶち壊されそうなほどの破壊力があった。
 やさしくしたい気持ちはある。だけど、今ひとたびカイジの顔を見てしまったら、もう自分を制御できる自信がない。

 年上、しかも男だ。やわらかい体も、豊満な胸もない。
 性的魅力とはほど遠いはずのカイジの特徴をひとつひとつ数え上げることで、アカギは理性を保とうとする。

 そんなアカギの心中なともちろん知る由もないカイジは、自分を見ようともせず、なにかを耐えるようにうつむいているアカギに、やはり自分と飲むのが苦痛に感じるほど辛かったのかと、目端にじわりと涙を滲ませる。
 だが、そう思っているのなら、はっきりそう言って欲しい。
 沈黙を貫かれるのがいちばん堪えると、カイジは卓袱台に身を乗り出してアカギの顔を覗き込もうとする。
「おいっ……! お前っ、なんか言えよっ……! だんまりとかっ……、卑怯だぞっ……!」
 しかし、顔を深く伏せているアカギとなかなか目を合わせられず、焦れたカイジは、
「ちゃんとこっち見ろっ、このアホっ……!!」
 そう、涙声で叫んでアカギの頬を両手で挟み、無理矢理自分の方に向き直らせた。


 当然、アカギは真正面からまともに、カイジの顔を見てしまう。
 怒りに見開かれた大きな目いっぱいに湛えられた涙。聞き分けのない子供のように、強く噛み締められた唇。真っ赤に色づき、熱をもった頬。
(……たまらない)
 アカギはチッと低く舌打ちして、カイジを睨みつける。
 その表情が今まで見たこともないくらい恐ろしいものだったので、カイジは一瞬、身を竦ませた。
「あんたをさ……」
 ため息とともに、アカギは口を開く。
「どう口説いてやろうかって、ずっと考えてた」
 え、と呟いて目をまん丸くするカイジに、アカギは怒ったような顔で続ける。
「……んだけど、ちょっともう無理。限界」
 苛立ちを吐き捨てるように荒々しく言って、アカギは自分の頬を挟むカイジの手を強く掴む。
「我慢がきかないオレも悪いけど、誘ったあんただって悪い……自覚、ねえんだろうけどな……」
「は? アカギ……?」
 混乱したように眉を寄せるカイジを、アカギはふつふつと欲を滾らせた目で見る。
 ……こうなってはもう、歯止めはきかない。この人が泣いたって、知るものか。いや、むしろ、オレの手で泣かせてやりたい。
 カイジによって、さっきまでのゆとりを理性とともにきれいさっぱり吹き飛ばされてしまったアカギは、引き寄せたカイジの掌に獰猛に口付ける。

「まだ、あんたが誰にも触らせたことのない場所を触ってみたい。誰にも聞かせたことのない声が聞いてみたい。いいだろう? 酒飲んで話してるよりも、きっとずっと、愉しいぜ……?」

 あれだけ考え込んでいた口説き方は、結局こんな獣じみたものに落ち着いてしまい、カイジを流し目で見ながら、アカギはその掌をべろりと舐め上げた。






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