ささくれ しげ→カイからのアカ+カイ




 十一月の駅のホームは、風が冷たい。
 東京駅への電車を待ちながら、アカギは上着のポケットに、冷えきった手を突っ込んだ。
 が、その瞬間、ちくりとした痛みが指先に走り、眉を寄せて自分の手を見る。

 自分でも気づかぬうちに、右手の人差しに大きなささくれができていた。
 さっき感じた痛みは、それがポケットの布地に引っかかったため発せられたものだったのだ。
 真っ白い手に、赤く裂けた傷口はやたらと目立つ。
 見るともなしにそれを眺めたあと、結局、アカギは無傷の左手だけをポケットに収めた。

「あんたと連れ立って電車に乗るなんて、ぞっとしねえな」
 前を向いたままぽつりと呟くと、隣に立っている安岡が顔を顰めた。
「仕方がないだろう……足がねえんだから。今から行く場所は、誰かに知られるわけにはいかねえんだよ……だから、念には念を入れてだな」
「わかったって」
 煩そうに遮られ、安岡は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
 安岡の伝手で、ある組の代打ちをすることになり、目的の場所へ向かう最中であった。

 向かい側のホームの壁に、愁いを帯びた女優の横顔がアップにされた広告が張り出してある。
 アカギはなんとはなしに、そこに書いてあるコピーを口にした。
「『恋なんてしたことがない』」
 安岡はぎょっとしてアカギを見たが、その目線の先を見て、ややほっとしたような顔になる。
「ああ……今話題の恋愛小説だろ? 俺はてんでそういうのに疎いが、職場の女連中がやたら騒いでるのを、最近よく見かけるよ」
「恋なんてしたことがない、のに、タイトルが『初恋』なのか? 矛盾してねえか?」
「俺が知るかよ。そんなのは作者に聞いてくれ……」
 安岡にため息をつかれたので、アカギは黙った。


「恋なんてしたことがない、ね。まあある意味、お前にぴったりの台詞だよな」
 しばらくしてから、安岡がそう言って皮肉げに笑ったので、面倒な流れになりそうだと嗅ぎ取ったアカギは、沈黙を貫こうとする。
「どうせお前も、誰かに恋なんてしたことねえんだろう……? 十三の時から、こんな調子だもんな……」
 案の定、余計なことを言ってくる安岡に、やはり、無視を決め込もうとしたアカギだったが、次の瞬間、目を見開いて固まった。

 向かい側のホームに、立っているひとりの男の存在に気がついたからだ。
 アカギから見て右斜め前の方向。列車待ちの列の二番目に立っている、黒髪長髪のその男に、アカギは確かに、見覚えがあった。

 その男との、ある記憶が鮮明に蘇るとともに、ささくれのたった指先が、じくりと痛んだ。






 右手の人差し指に巻いた絆創膏を見て、その男は目を丸くした。
「お前って、意外に不器用なんだな」
 それを聞いて、むっとしたのをよく覚えている。
 十数年前。アカギがまだ、麻雀を覚えて間もない中坊だった頃のことだ。

 当時、アカギの手の指先には、深いささくれが頻繁にできていた。
 その頃からすでに、根無し草だったしげるの栄養状態はあまり芳しくなく、そういう部分にそれが、露骨にあらわれているのだった。
 無意識のうちに気になって、つい触ってしまうから、傷はどんどん深くなり、白い手の上の生々しいそれが、男の目には痛々しくて、放っておけなかったのだろう。

「巻いておけ」と渡された絆創膏をしぶしぶ巻いてはみたものの、露骨に面倒くさく思っていたせいか、端がよれてくしゃくしゃになってしまった。

 男はすこしだけ口角を持ち上げ、やわらかい笑みを浮かべる。
 舌打ちして、アカギは男から目を逸らした。
 そんな目で見られるより、鼻で笑われた方が、まだマシだと思った。

「ほら、手、出せ。巻き直してやるから」
 男の申し出に、アカギはいっそう、顔を顰めた。
「べつにいいよ……このままで。たいして、痛くないし」
「バカ……そんな巻き方じゃ、意味ねえだろ。水だって沁みちまうぞ?」
 そういうとき、男はどうしてか、ぜったいに引き下がらない頑固さを見せた。

 結局手を取られ、新しい絆創膏を巻き直されている間中、アカギは男の方を見ず、不機嫌な顔をしていた。
 自分よりずっとずっと不器用な生き方をしていたその男に、不器用だなんて言われるのが、嫌なのだと思っていた。

 アカギと知り合い、部屋に上げるようになってから、男は救急箱をわざわざ用意したようだった。
 生傷の絶えない自分のために準備されたのであろうそれも、アカギの神経をうんざりするほど逆撫でした。

 お節介な男だった。生ぬるい男だった。
 傍にいたら、自分までぬるま湯に浸されていくようで、アカギは微かな危機感を覚えた。
「ほら、出来たぞ」
 そう言って、男が手を離す。
 その時、きれいに巻き直された絆創膏を見つめながら、アカギはしずかに、男の許を去ることを決めたのだ。


 翌朝、眠っている男を起こさぬように家を出て、それきり二度と、アカギは男の部屋を訪ねなかった。

 さよならさえ言わずに離れたその男が、今確かに、線路を挟んだ向こう側にいる。



 アカギの喉仏が、微かに上下する。
 男は、アカギに気がついていないようだ。ジーンズのポケットに手を突っ込み、ぼんやりとだらしなく立っている。
 距離があるので、その表情までははっきりと窺えない。
 あれから十年以上経っているというのに、男の姿はあの頃とそう変わらないように、アカギの目には映った。


「……どうしたよ、突然黙り込んじまって。昔の恋でも思い出したか?」
 安岡の問いかけが耳に届き、アカギは男から目を離さぬまま、口を開く。
「ああ、」
 それは自分の意思とは関係なく、ほとんど勝手に漏れ出した、独り言のような言葉だった。

 口にして初めて、それが恋だったのだと、アカギは今さら知った。



 世話を焼かれるのが嫌だったのは、子供扱いされたくなかったから。
 いつだって不機嫌だったのは、認めたくなかったから。


 あの頃のアカギが感じていた本当の危機感は、男の生ぬるい生き方に巻き込まれることではなく、そのやさしさに惹かれていく、自分自身に対するものだったのだ。

 あの頃はそれがわからなくて、ただ男に苛立っていた。
 男から離れ、べつべつの世界を生き、いくつかの出会いや別れを経て、多少はやわらかい目線でものごとを捉えられるようになった今だからこそ、わかる。
 
 ささくれのように、そこにあるうちは気になって仕方がないが、治ればそこにあったことすら忘れてしまうような、だけどそれは確かに、彼の初恋だった。



「へぇ、お前が、恋ねぇ……」
 安岡は驚いたように呟いたが、すぐに好奇心を隠さず、ニヤニヤと問いかける。
「で? どんなイイ女だったんだ?」
 対岸にいる、かつて好きだった男の姿を焼き付けるように目を細めたあと、アカギは目を閉じ、静かに笑った。

「さぁ? ……もう、忘れたよ」

 その言葉に被さるようにして到着のベルが鳴り、やさしくふたりを隔てるようにして、電車がホームに滑り込んだ。









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