泣かないで ただの日常話
ぐす、と鼻を啜る音がしんとした部屋に響いて、アカギはタバコを咥えたまま、隣のカイジを見た。
ヘッドボードに背を凭せかけて座っているアカギからは、自分に背を向けて寝転がるカイジの表情は伺えない。
だが、裸の肩がかすかに震えているのを見て、アカギは暫しなにかを考え込むと、猫みたいに丸まっている背中に声をかけた。
「なんか……ごめん」
「……」
カイジは返事をしなかったが、アカギは構わず、続ける。
「ひさしぶり、だったからかな……」
「……」
「血は、出てなかったみたいだけど……」
「……いったい、なんの話をしてるんだ、お前は……」
鼻声で呟いて、カイジはごろりと寝返りを打った。
本当はその顔を見られたくなくて背を向けていたのだろう、涙で濡れた頬、潤んだ恨めしげな瞳で、カイジはアカギを睨む。
「なにって……ケツ、切れちまったんじゃねえの?」
淡々とそんなことを言うアカギに、カイジは「はぁ?」と眉を寄せる。
「バカかお前っ……! 今さら、ケツ切れたくらいでめそめそするかよっ……!!」
単なるツッコミなのか怒っているのか、泣いているせいでわかりづらい。
「じゃ……なんで泣いてるの?」
煩わしげに顰めた顔を近づけてアカギが問いかけると、カイジはずる、と鼻を啜り、バツが悪そうにアカギから目を逸らす。
「べつに……どうでも、いいだろっ……」
お前には迷惑かけてねえ、とでも言いたげなカイジの態度に、アカギはカチンときたが、大きな体で掛布に包まって泣く年上の男の姿に、やれやれ、とため息をついた。
カイジが急に泣き出すなんてのは、日常茶飯事だ。
泣く理由は実にバラエティーに富んでいるが、いちばん多いのは、金。
金がないから、泣く。金を得られない自分の不甲斐なさに、泣く。金さえあれば、などと妄想して、現実とのギャップに泣く。
実に、くだらない。
泣くくらいなら現状打破に向けて努力すればいいのに、カイジはぜったいにそれをしない。ただ、泣くだけ。
その涙腺の緩さに、最初のうちこそうんざりしていたアカギだが、今はもう慣れた。
だが、ひさびさに肌を重ね、多少なりと充足感を得られた今、気怠い空気の中でさめざめと泣かれるのは、さすがに興醒めである。
カイジの涙の責任が、自分にあるのなら話はべつだ。
だが、そうではないと本人が断言した以上、カイジの泣く理由などアカギにとって至極どうでもいいことに成り下がり、泣かれるのもひたすら鬱陶しいだけだ。
カイジもそれがわかっているのか、アカギに涙の理由を話さない。逆に言えば、カイジが話さないということは、大した理由で泣いているわけではない、ということなのである。
紫煙をゆっくりと吐き出しながら、アカギはカイジを見下ろす。
「泣き虫」
「……るせー……」
言い返す声すら、弱々しい。
「あんまり埒のあかないことうじうじ悩んでると、ハゲるよ」
「うぅ……縁起でもねぇこと、言うんじゃねえっ……」
うだうだと唸り声を発するカイジを上から覗き込むように見て、アカギは無表情な声で呟いた。
「……ああ、もうすでにその兆候が」
「ぅえっ!!??」
とたん、ガバリと勢いよく起き上がり、血相を変えてカイジはアカギに詰め寄る。
「どっ、どどどどの辺りがっ……!?」
本日いちばんの真剣な眼差しを受け、アカギはタバコを左手指で挟むと、右手でカイジをちょいちょいと手招きする。
促されるまま、アカギに頭を差し出しながら、さっきまでしくしくと泣いていたことも忘れ、カイジは縋りつくような情けない声を上げる。
「う、嘘だよなっ……!? 見間違いだよなっ……!? 頼むっ……! そうだと言ってくれっ……!!」
ぎゃあぎゃあうるさいカイジの髪を、アカギはしばらくくしゃくしゃと掻き回していたが、前髪をぐいと引っ張るようにして持ち上げると、晒された額にちゅっと音をたてて口づけた。
「……」
「……」
状況が飲み込めないといった顔つきのカイジと、相変わらず無表情なアカギ。
ふたりはしばらく無言で見つめ合っていたが、やがて、アカギの方がゆるゆると顔を背ける。
どうかしたのか、と尋ねようとして、カイジはアカギの肩が小刻みに震えていることに気がついた。
「あんた……、必死すぎ……」
くっくっと可笑しそうに笑うアカギに、ぽかんとしていたカイジはみるみるうちに顔を赤く染めた。
「てっめ……、オレのことからかっただろっ……!!」
激昂するカイジに耐えきれなくなったのか、アカギはとうとう、声を上げて笑い出す。
笑うことの少ないアカギにしてみれば『爆笑』と言っても差し支えないほどの笑いっぷりに、羞恥と怒りで、カイジはぶるぶると体を震わせた。
一頻り笑い終えると、アカギはまだ笑みを湛えている目でカイジを見た。
「金がどうこうで悩むより先に、その、他人を簡単に信じ過ぎるところを、なんとかしたほうがいいんじゃねえのか?」
それから、枕元の灰皿でタバコを揉み消すと、悔しそうに歯噛みするカイジを置いて、ふわりとベッドから降りる。
「シャワー、浴びてくる」
そう言って歩き去るアカギの後ろ姿を、カイジはしばらく憤怒の形相で眺めていたが、ふと不安げな顔に戻り、その背に問いかける。
「なぁ……本当に、その……大丈夫だったんだよな……? オレの、頭……」
だが、なぜかアカギは返事をせず、ひらひらと軽く手を振って部屋を出て行こうとする。
「待て……なんだ、その意味深なリアクションはっ……! ふざけるなっ……! おいっ! 待てったらっ……! アカギっ……!!」
目の色を変えて布団から飛び出し、カイジはバタバタとアカギを追って部屋から出て行った。
事の真相にすっかり気を取られているカイジは、アカギの手によっていつの間にか涙が止められていることに、まったく、気づきすらしないのだった。
終
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