金木犀 神域没後の話





 秋の空はよく晴れて、どこまでも高く澄んでいる。
 一年ぶりに着る長袖のシャツは、仕舞いこんでいる間にすこし縮んでいて、ごわついた肌触りに、カイジは着心地の悪さを感じた。




 すっかり秋めいたとはいえ、陽射しはまだ夏の名残を残している。
 眩しさに眩んだ目を細めながら歩くカイジの鼻先を、ふっと微かな香りが過ぎった。



 この時期に街を歩けば、必ず鼻先を掠める、ふくよかな甘い香り。
 近くに花の姿など見えないのに、どこからともなく漂ってくる不思議な香り。




 カイジはこの香りが苦手だった。
 苦手になった、という方が正しいだろうか。



 以前、ある男が、この花の香りが苦手だとカイジに言ったことがあった。

 何年か前の、ちょうどこの時期。
 その男とカイジは知り合いで、どういうなりゆきでそうなったかまではカイジも忘れてしまったけれど、とにかく、ふたりで街を歩いていた。



 その日も空は澄んで空気は乾いており、息を吸い込むと強い花の香りが鼻腔を擽った。
 かなり近くに、花の木があるらしい。カイジは辺りを見渡しながら、隣を歩く男に対して問いかけた。

「秋になると、どこ歩いてても必ず一度は、この匂いがしませんか?」

 その頃のカイジは別段、その香りが好きでも嫌いでもなく、単なる世間話として口に出しただけだった。


 が、男はわずかに眉を寄せ、
「……匂い?」
 と問い返したのだ。


 その時、一瞬見せた怪訝そうな表情が、あまりにもその男らしくなく、奇妙なことだが、まるで別人のようにカイジの目に映った。
 些末な違和感を覚えながらも、カイジは続けて男に言う。

「花の匂いですよ。ほら、あそこの樹に咲いてる……」

 カイジが指さす先を見て、男は「ああ……」と呟いた。


 男は足を止め、生け垣の中の、オレンジ色の星屑みたいなちいさな花を、しばらく眺めていた。
 だがその横顔は、花を通り越してどこか遠くを見つめているように見えた。

 感情というものがいっさい読み取れず、それでいて深く澄んでいる、底なしの青空みたいにきれいな瞳だった。


 カイジはなんとなくぞっとした。傍らに立ち止まっているはずなのに、なんだか男が、遠く離れていくような気がしたからだ。

 だが、男がそんな顔を見せたのはほんの数秒のことで、その後、カイジの方に向き直った男は、不吉なイメージを払拭させるように、いつも通りの表情で静かに笑って言った。



「香りの強い花は、苦手なんだ」











 それは、本心だったのかもしれない。

 けれど、時期から鑑みるに、その時の男には、既に香りというものがわからなくなっていたとしても、おかしくはない。

 男の病気が嗅覚にも異常をきたすようなものだったのだと、カイジはあとになって知った。




 だとしたら、男はどんな気持ちで、あの言葉を呟いたのだろうか。

 香りを感じられなくなった男が、その事実をカイジに打ち明けなかった男が、香りの強い花を『苦手』だと言った、その時の気持ちを想像すると、カイジはやる瀬なくなるのだ。

 隣にいながら、どこか遠くへ行ってしまいそうだった男の、横顔を思い出す。
 違和を感じながら、深く追求しなかった自分に、ひどく腹が立った。



 言ってくれればよかったのに。
 相談してくれればなにか、力になれたかもしれないのにと思ったが、それ以上に、男はそんなこと絶対に望まないだろうということもわかっていた。



 結局男は最期まで、すべてをカイジに隠し通した。
 今となっては、本当のことを知る術はない。





 あれから数年が経過した。

 男がこの世から姿を消しても、秋は毎年規則正しくやってきて、あの時と同じ香りを運んでくる。

 今でもこの香りを感じると、カイジはあの時のことを、男の横顔を思い出さずにはいられない。




 だから、カイジはこの香りが苦手になった。
 男がいなくなってから、ずっと。



 冴えた空気の中を遠くまで漂う、甘く寂しい香りを大きく吸い込み、吐き出すのと一緒に、カイジは男と同じ台詞を、ぽつりとちいさく呟いた。




「香りの強い花は、苦手なんだ」









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