屏風の虎・1 モブ視点 三十代くらいのアカカイ カイジさんがクズ




 赤木しげるという男がいる。

 生い立ちはいっさい不明。十数年前、突如として裏社会に姿を現し、その神懸かり的な才気で数多くの伝説を残す博徒。
『天才』『悪漢』などと呼ばれるその男は、喧嘩の方も滅法強く、本職のヤクザでさえ生半可な気持ちで相手すると痛い目をみることになる。

 そんな嘘みたいな、幻みたいな男なので、当然、専属の代打ちとして雇いたい組は数知れず。だが、当の本人は飼われることを嫌い、その気が向いたときしか話に乗ってこない。
 そういう輩だから、敵も多い。だから、その姿を追う有象無象が、裏社会には常に跳梁跋扈しているとの噂。
 だが、赤木を捕まえることは非常に困難で、どんなに綿密に張り巡らされた網も、まるで手品のようにスルリと抜け、ふらふらとどこかへ行方を眩ましてしまう。

 というわけで、赤木を捕まえ、かつ、勝負を引き受けさせることは、並大抵のことではなく、裏社会では、赤木の着ているシャツの柄に擬え、

『屏風の虎を出すよりも難しい』

 とさえ言われていた。










「『屏風の虎を出す』ですか……」
 ひととおり話を聞いた俺は、とりあえずそう呟いてみた。
「そうだよ。まったく、厄介な男だよなぁ」
 まるで他人事のようにそうぼやく兄貴の、咥えタバコにすかさずジッポを差し向けながら、嫌な予感に胃がキリキリと痛み出す。
 こんなことくらいで情けない、と自分がほとほと嫌になる。下っ端とはいえ、仮にもヤクザやっといてどうかとも思うが、俺は根っからの胃弱体質なのだ。
 しかも悪いことに、俺のこの胃痛を伴う『嫌な予感』は、昔っから、実によく当たるのである。

 無意識に身構えていると、案の定、兄貴が俺に顔を近づけ、声を潜めて話し出した。
「……でもよ。大きな声じゃ言えねえが、いちばん厄介なのは、うちのオヤジだよ。なにせ、『屏風の虎』が打つ麻雀を、見てみたいなんて言い出すんだもんなぁ」
 来たぞ、と思った。額にじわりと汗が滲む。
「その虎を屏風から出すために、オヤジが用意した金、いくらだと思う?」
「……わかりません」
 我ながら、頓馬な返事をしてしまった。
 マズい、殴られるかと思ったが、予想に反して兄貴はつまらなさそうに鼻を鳴らしただけだった。
 それから、やにわに持ち歩いていた鞄の中から、なにかを取り出してドサリとカウンターの上に置く。
 それは、帯封された札束だった。
 兄貴は盛大にため息をつき、芝居がかった仕草で首を横に振る。
「百万。いいか、たったの百万だぜ!? 相手はあの、赤木しげるだぞ? 絵の中の虎を呼び寄せようってのに、こーんな端金じゃ……」
 兄貴は眉間を抑えて嘆く仕草をしてみせるが、本当に嘆きたいのはこっちだ。
 俺にはすでに、次の展開の予想がついてしまった。

 話は済んだとばかりに兄貴は表情をコロリと変え、俺に向かってこれ以上ないくらい、にこやかに笑ってみせた。
「っつうわけだ」
 どういうわけだ、と心中でツッコミを入れている間に、ぽん、と肩を叩かれる。
「この百万、どう使ってもいいし、多少、時間はかかっても構わねえから、赤木しげるをうちの組の代打ちとして据えさせろ……ってのが、オヤジの注文だ」

 つまり。
『屏風の虎』を出すより難しいと囁かれていることを、俺に成し遂げてみせろというわけだ。

 無茶もいいところだ。
 なんの伝手も実力もない、俺みたいな下っ端には無理ですよ。そう断ろうと口を開きかけたが、突然、兄貴に至近距離まで顔を近づけられ、その圧力に舌が凍りつく。
「それじゃ、後は、任せたぞ?」
 目の奥が笑ってない兄貴の笑顔は、正直底冷えするほど恐ろしい。
 硬直する俺の肩をもう一度叩いてから、兄貴は伝票を掴み、颯爽と席を立ってその場をあとにした。
 毎度あり、というやる気のない親爺の声を聞きながら、俺はしばし腑抜けたように、残された札束を眺めていた。

 プラスに捉えるなら、信頼されていると言えなくもない。だが……
 俺は頭を抱えて呻く。
 どう考えてもこれは、厄介ごとを押し付けられたというほうが正しいのではないか。仮にも、組長直々の依頼ごとだ。失敗したらいったいどうなるんだと、想像しただけで胃の腑が灼けるように熱くなる。
 逃げ出したくなるような気持ちを逃がすようにため息をつけば、大丈夫かい? と暢気な声がカウンターの向こうからかけられた。




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