風の強い日・1 神カイ中心にしげカイ、アカカイ 神域没後の話


 風が強い。
 どこからか飛ばされてきた白いビニール袋が、よく晴れた高い空をぐんぐん舞い上がっていくのを、ぼんやりと視界の隅に留めながら歩いていた。

 あんな風に風に乗って、どこまでも飛んでいけたらどんな気分だろう。
 そうしたらいつか、あの人にまた会えるだろうか。
 この一か月、なんども同じようなことを考えている。

 狭い道から開けた通りに出て、信号待ちの人の群れに加わる。
 ふと視線を巡らすと、ショーウインドーに映る自分の顔が目に入る。
 うすぼんやりとしたその輪郭を見て、乾いた頬を触ってみた。
 そういえば、最近、泣いていない。





 赤木さんが亡くなってから一ヶ月。
 表向き、オレは普通の日常生活を送っていた。
 バイトをし、稼いだ金をせっせとギャンブルにつぎ込み、その日暮らしの平凡な毎日。

 だけど赤木さんが亡くなったあの日から、世界は薄膜一枚隔てたように現実味がなくなった。
 ギャンブルをしていても、自分ではなく赤の他人が打っているような感覚が拭えない。
 飯の味も、旨いとか不味いとか、あまり感じなくなったし、どうでもよくなった。


 赤木さんは唯一無二の存在で、誰もが憧れる神さまみたいな人だった。
 勿論それは、オレにとってだって例外ではなかった。
 出会ったときからずっと憧れて、遠くから見つめていた。
 遥か高みを飛ぶ鳥のような闊達さと、気持ちの良い破天荒さに、抗うべくもないほど惹きつけられていた。



 赤木さんが亡くなったと知ったとき、なぜだかすこしも涙が出なかった。
 不思議だった。普段から涙腺がものすごく緩いオレが、赤木さんの死に直面して一粒も涙を零さないなんて。悲しいとか辛いとかいう感情よりも、そのことに対する驚きの方が大きかったくらいだ。

 思い返してみれば、その日を境に、オレは一切泣かなくなったんだ。
 涙だけではない。以前ほど笑わなくなったし、怒りもしなくなった。
 感情というものが、ぼろぼろと剥がれ落ちていくのを、ただぼんやりと傍観しているようだった。



 これは明らかに正常な状態とはいえないだろうけど、オレにとってはむしろ都合が良かった。
 もともと、ちょっとのことでめそめそする自分に嫌気がさしていたのだ。
 涙が流れなくなったからといって、死ぬわけじゃないし。体だって、健康そのものだ。
 感情が乏しくなると、ますます周りの人が離れていくような気もしたが、元々オレは人付き合いが苦手だし、べつにどうだってよかった。



 それに、なにより、すこしも薄くならないのだ。
 赤木さんの記憶が。



 目を閉じると、いや、閉じなくても、鮮やかに思い出せるのだ。
 ふたりで過ごした日々、歩いた街、赤木さんの表情を。
 たとえば、今歩いているこの道をふたりで歩いたとき、赤木さんがどんな風にオレを振り返り、どんな風に笑ったか。
 そんな些末な思い出でさえ、心の中にくっきり刻まれ、まるで赤木さんが目の前にいるかのような鮮明さで思い出すことができる。

 驚くべきことに、赤木さんが生きていた頃よりも、その記憶は濃くなっている。
 そしてそれらの思い出は、時間が経ってもすこしも薄れずぼやけず、いつまでも同じ彩度で溢れ出す。


 どんなに忘れたくないことでも、普通なら、時とともに多少なりとも風化するはずなのだが、オレの中の赤木さんの記憶は、あたかも今そこに生きているかのように、生々しく息づいているのだった。

 不思議だった。
 まるで、流れない涙が栓になって、オレの中からこぼれ落ちようとする記憶を堰き止めているみたいだった。


 赤木さんのことをこのまま薄れさせずにいられるのなら、一生涙が出なくたってかまわない。
 オレはそう思っていた。
 本来、鮮やかすぎる記憶は、悲しみや辛さをもたらすはず。
 だが、思い出の中で赤木さんが生きて、そこにいる限り、悲しみや辛さはそれほど、オレの中では大きくならなかった。

 どんなに赤木さんの近くにいた人だって、ずっとすべてを覚えているわけにはいかない。死んだ人のことを、すこしずつ忘れていくのはごく自然なことだ。
 だけど、オレは忘れない。なにひとつ薄れさせることなく、覚えている。
 たぶん、涙を流さない限り、ずっと。

 赤木さんを記憶の中に留め置くということに対して、オレは使命感にも近いような思いを、抱いてすらいた。




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