お兄ちゃん 佐原がかわいそう


「カイジさん」

 コンビニのバイト中。
 駐車場のゴミ拾いをしている途中で声をかけられ、カイジは顔を上げた。
「……しげる!」
 その姿を認めたカイジは、わずかに顔を綻ばせる。
「どうしたんだ? こんなとこで」
 カイジが近寄ると、深夜のコンビニには不釣り合いな学ラン姿のしげるは、ポケットに手を突っ込んだまま、口を開く。
「ちょうど、近くを通りがかったから。カイジさん、いるんじゃないかと思って」
 それから、緩く口角を持ち上げて、カイジの顔を覗き込んだ。
「カイジさん。今日、うちに泊めてもらってもいい?」
「おー……いいぜ。ちょうど、もうすぐ上がりだしな……」
 すこし考えてから、カイジは店を指さす。
「なんなら、終わるまで中で待ってろよ。一緒に帰ろうぜ」
 カイジの提案に軽く頷き、しげるはその目に悪戯っぽい色を浮かべた。
「カイジさん」
「んー?」
 気の抜けた返事をするカイジに、しげるはゆっくりと近づく。
 端から見ると不自然なほど近い距離から、誘うような視線を送られて、カイジは息を飲むと、きょろきょろと辺りを窺った。
「あっ……アホっ……! お前、まさか、こんなとこで……っ?」
「べつにいいじゃない。周りに人もいないし……」
 ね? と、しげるに促され、カイジはうっと言葉に詰まる。

 確かに……周囲に人影はない。しげるとカイジが立っているのは、店から離れていて、外灯の灯りも届かないような、目立たない場所だ。
 それに、こんな至近距離で、時々しか会うことのできない年下の恋人に、甘くねだられているのだ。
 この状況で絆されない奴なんて、果たしてこの世に存在するのだろうか?

「ね……早く。人が来ちゃうよ?」
 笑い混じりの潜めた声で急かされて、カイジはバリバリと頭を掻きむしりながら、
「あーっ、クソっ……! わかったよ……!」
 と叫んだ。
 しげるはクスリと笑い、カイジの頬に手を伸ばす。
 傷をやわやわとなぞられて、カイジは顔を赤くしつつ、背を屈めてしげるの方に顔を突き出した。
「ほら……、早くしろよ……」
 ぶっきらぼうな物言いがかわいくて、しげるはもうちょっとこのままカイジの顔を眺めていたいと思ったが、臍を曲げられると面倒なのでそこはぐっと堪え、カイジの顔にそっと顔を近づける。
 かたく目を瞑り、全身をガチガチに緊張させながらキスを待つカイジの顔を眺めながら、唇を重ねようとした、その時。



「あーっ! カイジさん、こんなとこにいた!」

 突然、第三者に声をかけられて、カイジの肩がビクッと揺れる。
 声のする方を見ると、バイトの同僚である佐原が、ふたりの方に小走りで近づいてくるところだった。
 ものすごい勢いでバッと体を離し、慌てて咳払いなどするカイジに、しげるは面白くなさそうな顔で舌打ちした。


「ちょっと、なにしてんすか!? あんたが戻ってくんの遅いから、バカ店がサボってんじゃねえかって疑って、『探してこい』ってうるさいのなんのって……」
 ぐちぐちと文句を言いながらカイジに近づき、そこで初めてしげるの存在に気がついたのか、佐原は言葉を切った。
「え……この子、誰っすか?」
 不機嫌そうに明後日の方向を向いているしげるに、佐原はじろじろと不躾な視線を送る。
 ……この様子だと、どうやら、キスしようとしてたことはバレてないようだ。
 カイジはほっと胸を撫で下ろしつつ、引き攣った笑顔で言う。
「おっ……弟だよ、弟っ……!」
 しげるの眉がぴくりと動いたのに、カイジは気がつかなかった。
「へぇ〜……! 弟さんなんていたんすか……!」
 佐原は目を丸くして、まじまじとカイジとしげるを見比べる。
「あんまり、似てないっすね……」
「そ、そうか……?」
 背中に冷や汗を垂らしながら、カイジはしげるの背中をぽんと叩いた。
「ほら……挨拶しろよ、しげる……」
 ギロリと睨み上げてくるしげるに、カイジは必死に目で訴える。
(悪いっ……! ここは合わせてくれっ……! 頼むっ……!)
 拝み倒さんばかりのカイジの様子に、しげるは忌々しげにため息をつくと、佐原の方をチラリと見て、
「……どうも」
 と呟いた。
「しげるくん……っすか、はじめまして! オレ、カイジさんのバイトの同僚で、佐原っていいます、よろしく!」
 高いコミュ力を無駄に発揮して、明るく挨拶する佐原をよそに、カイジは横目でビクビクとしげるの機嫌を窺っていた。

「いや〜……それにしても……」
 不穏な空気にひとり気づかぬまま、佐原は能天気な声を上げる。
「顔は似てなくても、やっぱ兄弟ってことっすかね。なんか、普通の奴とは違う……ただ者じゃないって空気が、びしびし伝わってきますよ……」
 佐原は口端を吊り上げ、鋭い視線をしげるに送ったが、そっぽを向いたままのしげるにあっさり無視され、むっと眉を寄せた。
「きれいな白髪っすね……それ、地毛っすか?」
 わざと不興を買うような言い方をして、しげるの注意を引こうとする佐原に、カイジはあたふたしながら言う。
「ばっバカ、んなわけねぇだろ……! 染めてんだよっ……! 今どきの中坊の間では、こういうのが流行ってんだよ、なぁ? しげ……」
 同意を求めようとしげるの方を見て、カイジは「ひっ」と声を漏らす。
 いつの間にか、どす黒いオーラが見えそうなくらい、しげるは機嫌を損ねてしまっていた。
 ぐさぐさと突き刺すようなその視線は、佐原ではなく、カイジのみに集中して注がれている。
「? どうしたんすか、カイジさん……」
 状況を飲み込めていない佐原の、暢気な声だけが虚しく響く。
 蛇に睨まれた蛙のように縮こまるカイジを馬鹿にしたように一笑すると、しげるはニコリと笑って言った。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 急に、あどけない調子で呼び掛けられて、カイジは一瞬ぽかんとしたが、しげるが自分のことを呼んだのだとわかると、ぞわぞわと指先から血の気が引いていくような寒気を覚えた。
(ああ……? お、『お兄ちゃん』……っ!?)
 頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けるカイジを、やたらきらきらと澄んだ目で見つめながら、しげるはとんでもないことを口にした。

「帰ったら、えっちしようよ」

 その場の空気が、一瞬にしてカチコチに凍りつく。
 しばらくの間、カイジも佐原もあんぐりと口を開けたまま固まってしまい、唯一、しげるだけが、涼しげな顔でふたりの様子を観察していた。



 やがて、はたと我に返ったカイジは、猛烈な早口でしげるに捲したてる。
「なっなっなに言ってんだよ、お前バカか冗談も大概にしろ初対面の人間をからかうなっつうの、悪いな佐原こいつちょっと頭おかしいから無視していいぜ……」
「佐原さん」
「……っは! はいっ!?」
 カイジの無駄口を遮るようにして呼びかけられ、佐原はビクッとする。
 さっきまでの無垢な様子はどこへやら、しげるは悪魔めいた笑みを浮かべ、佐原の目を覗き込んだ。

「どうですか? このあと、一緒に……」
「……は?」

 ぱちぱちと瞬きをする佐原に、しげるは小鳥が囀るような軽やかさでつらつらと喋り始める。

「ふたりでいじめてあげた方が、お兄ちゃんもきっと悦んでくれると思います……。なにせ、オレのお兄ちゃんは、マゾだから……」

 ね、お兄ちゃん。

 どこまでもにこやかな笑みを浮かべ、しげるはカイジに呼びかける。
 つられた佐原がカイジを見ると、青ざめた顔で言葉を失い、ただ口をぱくぱくさせるカイジの黒目はうろうろと彷徨い、焦点がまるで定まっていなかった。

 頬をひくひく引きつらせながら、佐原はずりずりと静かに後退していく。
「いや……いいっす……結構です……遠慮します……」
「さっ……佐原っ……!」
 はっとしたカイジが名前を呼ぶと、縋るようなその表情をどう受け取ったのか、佐原はみるみるうちに恐ろしいものを見るような顔つきになり、カイジ達に背を向けて一目散に逃げ出した。

「おっ、おっ……お疲れさまでしたーー!!」

 まるで悲鳴のように尾を引くその声を聞きながら、しげるとカイジは猛ダッシュで走り去る佐原の背中を見送る。




「『お疲れさまでした』だってさ……まだ、バイト、終わってないのにね?」
 佐原の姿が見えなくなると、しげるはくすっと笑ってカイジを見る。
「佐原さんって、面白い人だね。……『お兄ちゃん』?」

 お兄ちゃん。

 その響きにとどめを刺されたかのように、カイジの膝からガクリと力が抜ける。
 ヘナヘナとその場に座り込んでしまったカイジを見下ろして、しげるはわざとらしく首を傾げた。
「どうしたの? お兄ちゃん……。もしかして、佐原さんにいじめてもらえなくてショックだった?」
 抜け殻みたいになってしまったカイジには、もうその言葉も届いていないようだったが、しげるは構わず続ける。
「大丈夫だよ。佐原さんの分まで、オレ頑張るから……。期待してて?」
 ぶわり。
 思い出したかのようにカイジの両目から涙が溢れ出し、ぼたぼたと地面に落ちる。
 地面に手をつき、死人みたいな顔で泣くカイジに、しげるはニヤリと笑った。
 それは、とてもとても弟が兄に向ける笑みであるとは言えない、『酷薄』を絵に描いたような笑みだったが、うつむいて泣くカイジはそれに気づかない。

 それから、うって変わって朗らかな顔でカイジに向かって笑いかけると、しげるは冷たい地面に蹲る兄に向かって、やさしく手を差し伸べた。

「さ、バイトに戻ろうか。ーーね、『お兄ちゃん』?」






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