大人と子供 しげるがぐるぐるしてる



 しげるが薄く埃の降り積もった下足入れを覗くと、そこにあるはずの上履きが跡形もなく消えていて、代わりに、ルーズリーフの切れ端が入っていた。
 それを取り出して眺めるしげるの口から、乾いた笑いが漏れる。

 しげるが如何に手紙の主である上級生達から疎まれているかということと、消えた上履きは自分達が預かっているということ。
 返して欲しければ明日の放課後、屋外プールに来ること、という脅迫。
 汚い字で書かれた手紙の内容は、だいたいそんなものだった。

 しげるは手紙の主を殴りつけてやりたくなった。
 上履きを隠すなどという、失笑ものの幼稚な手段をとるような輩に、むかっ腹が立ったのだ。

 だが、世間一般の中坊が考えつく憂さ晴らしなんて、所詮このレベルが関の山なのだろう。
 しげるが裏社会に通じ、どういった生き方をしているかということを知っていれば、こんな噴飯ものの子供じみた嫌がらせなど、怖ろしくて出来ないはずだ。
 だが生憎、しげるは学校に殆ど顔を出していなかったため、その辺の事情は学校側にまったく知られていない。
 だからこそ、しげるのことを単に『生意気な下級生』としか認識していない、世間的には『不良』と呼ばれるようなガキ共が、しげるをターゲットにこんなことをするのだ。

 普通の中学生なら、怯えて泣いたり恐怖に震えたりしてもおかしくないような出来事だ。
 だがしげるは、下手くそな字の羅列を鼻で笑い飛ばした。

 この学校に籍を置いている奴らは、ぞっとするほどくだらない連中ばかりだ。
 カイジが行け行けと煩く、行かないと部屋に上げないなどと言い出したから、偶に顔を出してみたのが間違いだった。

 やっぱり、こんなところに来ても碌なことがねえと思いながら、しげるは紙をぐちゃぐちゃに丸め、スラックスのポケットに突っ込んだ。
 うんざりした顔で、今脱いだばかりの外履きに足を突っ込む。
 午後の授業の開始を知らせるチャイムが、しんとした廊下に響いた。



 古ぼけたドアをノックすると、寝癖でぼさぼさの頭のまま顔を出した住人は、しげるを見て腫れぼったい目をわずかに大きくした。
「お前……学校は?」
 問い質す声は掠れている。
「行ったよ、カイジさんに言われたとおり」
 お陰で気分は最悪だけど、と心の中で付け加えて、しげるはカイジの顔を見上げる。
 カイジは脇腹をボリボリ掻きながら、顔を顰めた。
「あー……っと、オレが言ったのは、物理的にただ『行け』ってことじゃなくて……」
「カイジさんが、本当はオレにどうしてほしかったのかなんて、知らないよ。オレはあんたの言われたとおり、学校へ行っただけ。約束は守ったんだから、部屋に上げてよ」
 言葉を遮るようにしてぴしゃりと言い放つと、カイジはなにかぶつぶつと言っていたが、しぶしぶといった風にしげるを部屋に上げた。



 早速居間に座り込むしげるの傍らに立ち、カイジはなにか言いたそうな顔をしていた。
 なんどか口を開きかけては、諦めたような顔でため息をつくカイジに、しげるは片頬を吊り上げて笑いかける。
「言いたいことがあるんなら、はっきり言いなよ」
「ん……」
 カイジは目線を斜め下に投げて迷っていたが、結局首を横に振った。
「いや……なんでもねえ」
 妙に物わかりよく引き下がってみせるカイジに、しげるはムッとする。
 怒ればいいのに。怒鳴ればいいのに。カイジが言いたいことなんて、しげるには手に取るようにわかる。
 それなのに、そう簡単に引き下がられると、ささくれだった気持ちが行き場をなくして宙ぶらりんにされてしまうのだ。

 つまらない気持ちが上乗せされて、しげるは下唇を噛んで目を伏せる。
 しげるは、カイジのこういうところが大嫌いだった。
 自身の怒りにきちんとブレーキをかけ、言いたいことを飲み込める。普段どんなにだらしなくても、カイジが一応、『大人』なのだということを、見せつけられる。
 すると、それと対比されて浮かび上がるのは、カイジ相手に溜まった鬱憤をぶつけようとしていた、自分の惨めさだ。
 まざまざとそれを見せつけられると、しげるは自分自身にうんざりするのだ。

 相手が違うだけで、自分のやろうとしていたことは、手紙を寄越した連中と似たり寄ったりだ。
 畢竟、自分だってまだまだガキなのだ。
 大人であるカイジにとっては、自分も、あのくだらない手紙を寄越した連中も、おんなじ中学生のガキでしかないのだろう。

 この部屋に来たばかりだというのに、しげるはものすごく、帰りたいと思った。
 帰る場所などないのだけれど、とにかく、こんな気分にさせるカイジの傍から、今は離れてしまいたかった。
 だがそうすると、なんだか逃げたみたいで余計に面白くないし、(一方で、そういうどうでもいいようなことにこだわっているからガキなのだ、という気もしたけれど)しげるは、
「寝る」
 と呟いて、立ちあがった。

「あっ、おい、しげるっ……?」
 慌てて追っかけてくるカイジの声を無視して、制服のままベッドに上がる。
 しげるが来るまで眠りこけていたのだろう、人肌の温みが残る布団に包まって目を閉じると、傍らに立つカイジがため息をつくのがわかった。
 こういうときのカイジのため息には、呆れの中にどこかあたたかみが含まれている。
 しょうがないやつ。
 言外にそう、苦笑されているような気がして、しげるはカイジのため息を聞くとますます、ぐちゃぐちゃした気持ちに拍車がかかる。

 ややあって、わずかな衣擦れの音が聞こえてきた。
 カイジが床に寝転ぶ音だ。
 言えばいいのに。『オレだってついさっきまで寝てたんだから、ベッドを空けろ』って。
 だが、カイジはしげるがベッドを占領すると、自分はなにも言わず、決まって床に寝るのだ。
 いつもこうだ。
 カイジの傍では、なにひとつ思い通りにいかない。
 しげるは固く目を瞑り、不貞寝を決め込むしかなかった。





 しげるが次に目を覚ましたとき、外はすでにとっぷりと闇に沈み込んでいた。
 床に目を落とすと、大きな体を丸くして、カイジはまだ寝息をたてている。
 疲れているのだろう。長く続いたバイトの連勤が昨日やっと、終わったのだと言っていた。
 すこし、やつれたような寝顔をしばらく眺めたあと、しげるはそっとベッドから抜け出した。

 勝手知ったるなんとやらで、衣類の入っている引き出しを開け、中からジーンズと長袖のシャツを適当に選んで取り出す。
 制服を床に脱ぎ捨て、代わりにカイジの服を身につける。長すぎる裾や袖はそのままに、ずり落ちてくるジーンズのウエストだけをベルトで止めた。
 実年齢より大人っぽく見られることの多いしげるだが、こうやってカイジの私服を着ると尚のこと、端から見るととても十三歳には見えなくなる。
 鞄に突っ込んだ札を無造作に掴み取ってポケットにねじ込み、スニーカーを履くと、しげるは玄関の扉を静かに開け、夜の街に繰り出した。
 一眠りしたというのに、まだ気分がくさくさしていて、すこしでもそれを晴らすため、麻雀でも打とうと行きつけの雀荘に足を運ぶことにしたのだ。




 階段を上って扉を開けた瞬間、部屋の中に充満したタバコのにおいがしげるを出迎える。
「……いらっしゃい」
 受付にいる若いアルバイトが、しげるの方をチラリと見て、やる気なさげにそう言った。
 しげるは軽く息を吸い、空気を肺に取り込む。
 煙たく臭い雀荘の空気は不思議としげるの体に馴染み、乾ききった心に一滴の水を与えた。
 近くの卓に座っている男が、しげるに声をかけてくる。
「よぉ……兄ちゃん。ちょうど今、メンツがひとり足りねえなって話してたんだ。俺達と打たねえか?」
 しげるが卓に目をやると、残りのふたりの男も、しげるをじっと見つめていた。
 値踏みするようなその目つきを見ただけで、しげるは三人の男がグルであることを看破した。
 しげるは緩く口角を持ち上げる。
「……いいですよ」
 オレもちょうど、あんたらみたいなのから毟ってやりたい気分だったんです、という本音はもちろん告げず、しげるは椅子を引いてゆっくりと卓についた。




「てっめぇ……舐めてんのかっ……!! このクソガキっ……!!」
 目を血走らせて詰め寄る男に胸ぐらを掴まれ、しげるは喉を引き攣らせて笑った。
 他のふたりの男も、ゾンビのようにゆらりと立ち上がり、しげるを睥睨している。
 毟ってやるつもりが逆に持ち金ぜんぶ毟り取られて、打ち始めた頃とはまるで別人のように表情を豹変させた男たちは、まさに『化けの皮が剥がれた』という表現がぴったりと嵌まる。
 しげるにとっては赤子の手を捻るよりも容易い麻雀だったが、こういった輩が負けたあとに見せる剥き出しの本性が、しげるにとっては愉快なのだった。
 余裕やプライドなどという覆いを跡形もなく剥がしつくされ、さらけ出された『人の心』に、直に触れているような心地がするのだ。
 相手がこんなクズ共であっても、その生々しい感触は、しげるに充足感を与えた。
「ちょっとちょっと! 揉め事なら外でお願いしますよ……」
 迷惑そうな顔をした店員がしげると男の間に割って入ると、男は舌打ちしてしげるを離し、
「表へ出ろ」
 と告げた。


 よっぽど腹に据えかねていたのだろう。表に出るとすぐ、人目も憚らずに連中はしげるに襲いかかってきた。
 一人に後ろから羽交い締めにされ、最初に声をかけてきた男に、拳で頬を殴られる。
「おいおい、あまりやり過ぎるなよ?」
 残った一人の男は、笑いながらタバコをふかしている。
 鈍い痛みを感じながら、目の前の男を見上げると、助けを請わないふてぶてしさが気に入らなかったのか、肩で息をしながらまた拳を唸らせてきた。
「ガキがっ……! 調子に乗りやがってっ……!!」
 なんども執拗に顔を殴りつけられるうち、やがて口の中が切れ、血の味が唾液に混じってくる。
 どうやら、奥歯が欠けたらしい。しげるは硬い小石のようなそれを舌で探り、鉄の味のする唾液とともに吐き出す。
 白い歯の欠片は勢いよく飛び、男の靴に当たって地面に落ちた。
「……命中」
 しげるがニヤリと笑うと、男はヒクヒクとこめかみを引き攣らせる。
「てめぇ……っ……、殺してやるっ……!!」
 男が再度殴りかかってきた、その瞬間を狙ってしげるは自分を羽交い締めにしている腕に体重をかけ、勢いをつけて前蹴りを繰り出した。
 しげるの蹴りは男の鳩尾にヒットし、男がよろける。
 突然の反撃に動揺し、緩んだ拘束の腕からいとも簡単に抜け出すと、しげるは脇目も振らず、目の前の相手に殴りかかった。


『敵意』が『殺意』に変わった人間は、我を見失っている分、行動パターンが単純化して、いとも簡単に次の行動を読み取ることができる。
 つまり、男がしげるの挑発に乗った時点で、勝敗は決したと言っても過言ではなかった。


「たっ……たす……助け……」
 ものの数分後には、さっきまでしげるを殴りつけていた男が、情けない声を上げて震えながら道路の上に蹲っていた。
 怒りも憎しみも表情に出さず、ただ淡々と暴力をふるうしげるに恐れをなしたのか、残りの二人はいつの間にか逃げ出したらしい。

 握りしめた拳をゆっくりと下ろし、しげるは男を見下ろす。
 さきほどまでの威勢はどこへやら、仲間にも見捨てられ、ボコボコにされた顔で恐る恐るしげるを見上げる姿は、卑小で、憐れだ。
 その姿を眺めているうち、しげるは氷水に浸されたみたいに、頭からつま先まで、急激に冷えていくのがわかった。

 怒りや殺意さえも力尽くでねじ伏せてやれば、残るのは結局、こんな弱々しい瀕死の虫けらだけ。
 虚しさ。それが体中を満たそうとする前に、しげるは血で濡れた拳をカイジの服の裾で拭い、そこを立ち去ろうとした。

「ちょっと君っ……! 待ちなさいっ……!」

 後ろから声をかけられ振り返ると、懐中電灯の黄色い明かりが、まともに顔に直撃する。
 眩んだ目を眇めて光の方を見ると、若い警官がしげるの方へ小走りで近づいてくるところだった。
 逃げ出さずにその場に留まったのは、実直そうなその警官の雰囲気が、どことなくカイジに似ていたからだった。
「君、これはいったい……どうしたんだ?」
 ボロボロになって蹲る男の姿と、頬を腫らして唇の端を切っているしげるを交互に見て、警官はオロオロと困った顔をする。
 警官のくせに、こういうことに慣れていないのだろう。うだつの上がらないその様子が、ますますカイジと重なった。
 男は途方に暮れたように眉を下げ、しげるの姿をじろじろと眺める。
「君は……見たところまだ子供みたいだな。とりあえず、署へ……」
 そう言って、腕を引こうとする警官を振り払い、今度こそしげるは夜闇の中を駆け出した。

 子供。
 子供。
 カイジに似た警官にかけられた言葉が、頭の中でリフレインする。
 せっかく忘れかけていたのに、あの警官のせいで思い出してしまった。
 麻雀を打つ前まで抱えていた、つまらない気持ち。

 警官の声はしばらく追っかけてきていたが、諦めたのか撒いたのか、やがて聞こえなくなった。
 しげるは足を止める。
 今夜はどこかで野宿でもしようかと思ったが、いろいろあってそこそこ疲れているので、出来れば屋根付きの場所で眠りたかった。
 宿を探すのすら面倒で、しげるは結局、カイジの家へ向かうことにした。
 東の空が明るくなってきた。この時間なら、きっとカイジはギリギリまだ家に居る。
 しげるは足を速め、カイジのアパートへ向かった。

 しげるがドアの前に立つと、ちょうどバイトへ向かうところだったらしいカイジと鉢合わせた。
「いったいどうしたんだっ、その顔っ……!!」
 しげるの顔を一目見るなり、カイジは蒼白になって騒ぎ出す。
「なんでもない。ちょっと疲れたから、ベッド貸して」
 そう言いながらカイジの隣をすり抜け、スニーカーを脱ぎ散らかして部屋に上がろうとすると、
「しげる」
 声をかけられた。
 その声がえらく真剣な響きを帯びていたので、しげるは足を止めてカイジに向き直る。
 カイジはなにかを考え込むような、深刻そうな顔つきでしげるの方をじっと見つめていた。
「……なに」
 初めて見る表情に、しげるは眉を寄せる。
 カイジはひどく言い辛そうにしながらも、低い声で問いかけた。
「まさかお前……、学校の奴らとやりあったのか……?」
 しげるの頭に、カッと血が上る。
「見たんだ……? あの手紙……」
 怒りを抑えて問い返せば、案の定、カイジはギクリと身を竦ませた。
 やはり、カイジはスラックスのポケットに突っ込んだままだった、あの手紙を読んだのだ。
 大方、しげるが脱ぎ散らかした制服を片付けてやるときに、偶然発見したのだろう。
「人の手紙盗み見るなんて、最低」
 そう吐き捨てると、カイジは傷ついたような顔をする。
「わ、悪かったっ……! でもっ……!」
「いいよ。言い訳なんて聞きたくない……」
 カイジの言葉を遮り、しげるは引きつる口端に無理やり笑みを刻む。
「安心しなよ。これは手紙の主にされたことじゃないから……。それより、早くバイト行きなよ。遅刻するよ?」
 刺々しいしげるの声に、カイジはぐっと耐えるように言葉を飲み込んで、
「……いってきます」
 重々しくそう呟くと、その場を離れていった。

 駆け足で階段を下りる足音を聞き届けてから、しげるは部屋の中に入る。
 まっすぐにベッドへ向かい、そのまま飛び込むようにしてうつ伏せで寝転がった。
 冷たい布団に染み付いた、苦いタバコのにおいを大きく吸い込んで、しげるは目を閉じる。

 あの手紙をカイジに見られたことに対して、あんなにも憤った自分自身に、しげるは驚いていた。
 しげるの中に湧いた感情は、怒りーーというよりも、焦燥、というものに近いように思えた。
 自分は焦っているのだ。あんな手紙を送りつけられたことを知ったカイジは、間違いなく自分を心配するだろう。
 しげるが庇護の対象であるという認識が、カイジの中でまた大きくなってしまう。
 カイジにとって、いつまでも自分はガキのままだってこと。それが嫌で、焦っているのだ。
 しげるは舌打ちした。どうしてこうも、うまくいかないのだろう?
 カイジといると、調子を狂わされてばかりだ。

 脱ぎ捨てていったはずの制服は、きちんとハンガーに吊されていた。
 それを睨むように眺めているうち、しげるは浅い眠りに落ちていった。




 目覚めたあともしばらくカイジのうちで過ごしてから、しげるは汚れたカイジの服を洗濯機に突っ込み、制服を着て部屋を出た。
 十七時半。釣瓶落としの太陽は、西の空を金色に輝かせながら沈もうとしている。
 足を動かすたび、スラックスのポケットの中で丸められた紙切れがカサカサと音を立てるのが煩わしい。

 しげるは学校に向かっていた。
 この腐った気分を作り上げた、くだらない連中を殴ってやろうと思い立ったのだ。
 そんな憂さ晴らしの方法では、終わったあと、腐った気分にますます拍車がかかるだけだとわかっていたが、それでも、どうしても奴らを殴らないことには、気が済まなくなっていたのだった。

 放課後。グラウンドから、威勢のいい運動部のかけ声が聞こえてくる。
 それを横目に眺めながら、しげるはプールへと向かった。
 更衣室の前を通り、白い鉄の柵に足をかける。
 乗り越えようとしたしげるの耳に、プールサイドでかわされている会話が飛び込んできた。
「あんた、なんなんだ? オレたちが用があるのは、赤木とかいう、あのクソ生意気な一年坊主なんだけど……」
 不愉快そうに歪んだその声が、恐らく、しげるを呼び出した手紙の主なのだろう。周りから同調する声が上がったことで、最低でも他に五名はいるということがわかる。
 問題は、そいつらがべつの人間と対峙しているらしいということだ。
 どうやらしげるの前に、プールサイドへやってきた人間がいるらしい。
 とてつもなく、嫌な予感がした。
 まさか、と思うしげるの心中を察したかのように、その男の声がした。
「オレはまぁ……あいつの保護者っていうか……そんな感じで……」
 間違いなく、カイジの声だ。
 しげるは唖然として、その場に立ち尽くしてしまった。
 あの人は、いったいここで、なにをしてるんだ……?
 バイトはとっくの昔に終わっているはずだから、カイジはうちに帰らず、そのままここへ直行したということになる。
 密かに混乱するしげるの耳に、鋭い舌打ちが届く。
「あいつ、怖じ気づいて大人にチクりやがったのか……。普段あんなふてぶてしいくせに、意外としょうもねえガキだったんだな」
「い、いや! それは違うぞっ……! なんていうかこれは、オレが勝手に……」
 取り繕うカイジの声も聞かず、上級生たちは馬鹿にしたような笑いを漏らす。
「とにかくっ……! お前ら、あいつの上履きを返してくれねえか? じゃねえと……」
「上履き? 上履きなら、そこにあるじゃねえか」
「えっ……?」
 驚いたようなカイジの声で、しげるは次の展開を大体把握した。
「泳いで、取りに行けばいいじゃないですか。赤木くんの上履き……」
 忍び笑いを漏らしながら、取り巻きのひとりが言う。
 やはり、予想した通りだ。
 学校のプールには、一年中水が張ってある。
 今の季節なら凍るように冷たいその水の中に、しげるの上履きは沈められているのだろう。
 カイジが息を飲むようすが、手に取るように伝わってくる。
「お前ら……こんなことして……」
「『こんなことして』なんだっていうんすか? まさか、学校でオレら、ガキに手を上げたりなんかしませんよねぇ?」
 ケラケラと笑い声が上がる。カイジは耐えるように沈黙していた。
 まさか、中学生を殴るわけにもいかない。そんなこと、カイジに出来るはずがなかった。
 そうすると、カイジが次に取る行動はたったのひとつだ。
 仮に自分が今出て行って、奴らをぶちのめしたとしても、結果は同じこと。
 カイジは絶対に、そうするに決まっている。
 しげるは鉄柵を強く掴み、ギリ、と歯を食いしばった。

 くそ、あのお人好し!
 あんたはどれだけ、オレの調子を狂わせれば気が済むんだ!

 心中で激しく罵ってから、しげるはふわりと鉄柵を飛び越えた。

 プールサイドの向こう岸で、六人の中学生に一人の大人が対峙しているのが見える。
 水面を眺め、迷っているような長髪の男の顔を目端に留めながら、しげるは助走をつけると、躊躇いなく冷たいプールの中に飛び込んだ。
 派手な音とともに水飛沫が上がり、プールサイドにいる連中がこちらを見るのがわかる。
「しげるっ……!!」
「来るなっ!」
 悲鳴のような声で名前を呼ばれるのと同時に、しげるは鋭く牽制した。
 しげるの後を追い、今にも水の中に飛び込みそうになっていたカイジは、強い声にはっとしたように固まった。
 それを見届けてから、しげるは水中に潜りこんだ。

 服を着たまま泳ぐのには慣れている。
 濁った水の中で目を開き、しげるは目的のものを探した。
 早く見つけないと、あの馬鹿な人が痺れを切らして飛び込んでしまうかもしれない。
 そうなったら、自分が飛び込んだ意味がまったくなくなってしまうのだ。

 やがて、しげるの目が、水底に沈む白いものを捉える。
 手を延べてそれを持ち上げると、果たしてそれは、白い上履きだった。
 底まで沈めるため、ご丁寧に石まで詰められていたそれを腕に抱え、しげるは向こう岸に向かって勢いよく足を蹴って泳ぎだした。




「し、しげるっ……!! バカやろうっ、こんなクソ寒いのに、飛び込む奴があるかっ……!!」

 岸に辿り着いたしげるに手を差し伸べるカイジは、なぜか泣きベソをかいていた。
 その手を無視して自力でプールサイドに上がったしげるは、全身からボタボタと水を滴らせながら、圧倒されたように口を半開きにしている上級生の前に立つ。
「あんたら、オレのこういう姿が見たかったんだろ? 満足したなら、とっとと失せな……」
 殺されてえのか? と言外に告げながら睨みつけると、「ひっ」と情けない声を漏らしたあと、連中は一目散にその場から逃げ出していった。


 しげるは深くため息をつき、濡れた前髪を掻き上げた。
 あんなくだらない連中相手に、どうしてオレがこんなことしなくちゃいけないんだ?
「しげるっ……大丈夫かっ……?」
 あわあわとしながら上着を脱ぎ、手渡そうとしてくるカイジをギロリと睨めつけると、連中と同じような情けない声がカイジの喉から漏れる。
 だが、カイジは連中と違って逃げだそうとせず、すぐさま困ったようにへらりと笑って、「帰ろうぜ」と言った。





 ふたりでプールの柵を乗り越える頃には、辺りはとっぷりと闇に沈み、運動部の声も聞こえなくなっていた。

 取り戻した上履きを抱えながら、しげるはカイジの斜め後ろを歩く。
 こんなずぶ濡れでカイジの隣を歩くのは、なんとなく癪だった。

 水を吸った靴は、歩くたびにぐちゃっ、ぐちゃっと音を立てる。
 煩わしくなって、しげるはカイジに悟られぬよう、靴下ごと歩道にそれを脱ぎ捨て、その横に、抱えていた上履きも投げ捨ててしまった。

 空を見上げると、冴え冴えと星が瞬いている。
 冷たい風が吹くたび、体温が急激に奪われていく。
 昨日殴られた傷が痛い。
 耳も痛い。明日は熱が出るかもしれない。
 なにもかもが煩わしくなって、しげるはついに、ぽつりと漏らした。

「うっとうしい……」

 ちいさな声だったが、カイジは振り返る。
 その目を見ないようにしながら、しげるは言葉を続ける。
「なんであいつらのとこ行ったんだよ。頼んでもいないのに。お節介なんだよ、あんた。そういうの、うざったい。人の心配より、自分の心配してたらどう? 碌な仕事にだって就いてない、ニートのくせに」
 完全なる八つ当たりだということは自覚していたが、しげるは舌が回るのを止めることができなかった。

 カイジは足を止めると、しげるの顔を見てカラリと笑った。
「……お前の心配は、あまりしてねえよ。どちらかというと、相手の奴らが気の毒だったから、オレが顔を出すことにしたんだ」
 軽く息を吸い、カイジは話し始める。
「オレに言われて学校行ったあとくらいから、お前なんか、イライラしてたし。手紙読んだとき、絶対相手を殴りに行くだろうなって思った。中坊が何人束になったって、お前相手じゃ勝てっこないだろうし、そうなったら、相手も気の毒だし……その……」
 歯切れ悪く言って、カイジは頬を掻く。
「お前がもし……上級生ボコボコにしちまったら、最悪、停学にさせられちまうかもしれねえだろ? だから……」
 ごにょごにょと語尾を濁したあと、カイジはしゃんと背筋を伸ばし、真摯な眼差しでしげるを見た。
「でも……ごめんな。オレ、勝手に、余計なことしちまったのかもしれねえ……。結局は、お前に飛び込ませちまったし……」
 だけど、とカイジは語気を強める。
「だけど、お前のことは放っておけない。大事だから……。この先もこうやって、余計なお節介しちまうと思う。でも……悪いけど、諦めてくれ」
 カイジはそう言って、頭を下げた。

 ずるい、としげるは思った。
 そんな言い方は、ずるい。
 こうして素直に謝れるカイジは、ずるい。
 こんな風に謝られると、しげるはとげとげした気分を真綿でくるまれたようで、どうにも行き場がなくなってしまったみたいに、据わりの悪い気持ちになってしまう。
 しげるは濡れたスラックスを、ぎゅっと掴んだ。


「あっ……お前、裸足じゃねえかっ……!! 靴はっ……!?」
 ようやくそれに気がついたカイジが、騒ぎ始める。
「置いてきた」
「なっ……なんで?」
「濡れてて、気持ち悪かったから」
 しげるが言うと、カイジは「はー……」と疲れたようなため息をつき、首を横に振る。
 それからしげるに背を向け、地面にしゃがみ込むと、後ろに手を伸ばした。
 この人はなにを始めたのだろうと、突然の奇行をしげるが観察していると、やがて、痺れを切らしたようにカイジが振り返った。
「ほら、早く負ぶされよ。足、冷てえだろ?」
 軽く目を見開いて、しげるは固まった。
 なにか、言おうと口を開くが、なにも言葉がでてこない。
『早く』と促すカイジの背中は広くて、あったかそうで、しげるの冷えきった体は、たしかにそこにくっつきたがっている。

 嫌だよ……そんな、恥ずかしいこと。
 ガキみたいなこと。

 そういう気持ちはぜんぶ、さっき真綿にくるまれたときに、融け出してしまったようだった。



 しげるがそっとその背に体重をかけると、カイジはしげるの膝裏に腕を回し、「よっ」と勢いをつけて軽々立ち上がった。
 カイジの体温を感じながら、しげるは密かに、ほっと息をつく。
 冷えてじんじんするつま先を、ゆるりと風が吹きすぎていった。

 カイジの服が、しげるの体の水を吸ってどんどん湿っていくが、カイジはなにも言わなかった。
 広い背中に揺られながら、しげるは遠い星空を見上げる。

「早く、大人になりたいな」

 しげるの口からぽろりと零れ落ちたその言葉は、暗に自分が子供であると認めているようなものだったが、カイジはただ、ふっと笑って目を閉じる。
「……まぁ、いいんじゃねえの? お前が心の底からそう思うなら、その気持ちを大切にすれば」
 反対されるとばかり思っていたしげるは、予想外の言葉に、すこし反抗的な気分になって、ぼそぼそと続ける。
「……やっぱり、ゆっくりでいい」
「それもいいんじゃね?」
 のんびりと答えるカイジは、どんなしげるも受け入れてくれると言っているみたいで、やっぱり、しげるはちょっと、ふて腐れたような気持ちになるのだった。

 大人は、ずるい。

 カイジの背に揺られながら、しげるは目を閉じ、囁く。
「カイジさん」
「ん?」
「……今日は、一緒に寝ようよ」
 それはほんとうに、消え入りそうにちいさな声だったが、カイジは『自分は床に寝る』なんて言わずに、ただ、「ああ」とだけ答えて、静かに笑ったのだった。







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