狸 薄暗い


「もうすこしで出来ますよ」

 そう、カイジに声をかけられる五分ほど前に、赤木は浅い眠りから覚めていた。
 窓から蜂蜜色の西日が差し込んで、眩しい。瞼の裏の血管が、赤く透けて見える。
 意識は完全に覚醒していたが、赤木はほんの気紛れで、もうすこし寝たふりを続けてみることにした。

 台所から、いいにおいが漂ってくる。
 甘辛いような、醤油と出汁と、油のにおい。
 たまにこうして家を訪ねたとき、カイジにねだって作ってもらう料理のにおいが、赤木は心の底から好きだった。
 こうやって目を閉じ、洗い物をする水の音や食器のぶつかり合う音、カイジの足音なんかに耳を澄ませていると、赤木は自分がほんのちいさな子供に戻ったかのような錯覚を覚えるのだった。
 無論、物心ついたころから、赤木には肉親と過ごした記憶などない。母親が台所で夕飯を作るのを居間で待っているなどという経験も、今まで一度たりと、したことがないはずだ。
 だが、こうして過ごす時間は、確かな懐かしさを赤木に覚えさせ、それが赤木にはとても不思議なことなのだった。


 やがて、足音が近づいてきた。
 卓袱台の上に皿を並べる音と、カイジの気配。
 料理のにおいが更に近くなって、赤木は食欲を刺激されたが、まだ瞼は閉じたまま、寝たふりを続ける。
 寝ている赤木を気遣っているのだろうか。忍びやかな足音はなんどか居間と台所を往復し、そのたびに料理のにおいが増え、赤木の鼻先を擽った。

 何往復か目に、カイジが床に座る気配がした。
 ふたつのコップにとくとくと、なにかを注ぐ音がして、卓袱台の赤木の側に乾いた音を立ててひとつ、置かれる。

 それから、微かな衣擦れの音がして、カイジの気配が赤木に近づいてくる。
 近くまで膝行り寄り、息を凝らして、顔を覗き込まれる。
 どうやら、狸寝入りだということに気づかれていないようだと、赤木はまだしばらくこのままでいることを決める。

 すると、カイジはなにを思ったか、するりと立ちあがると、赤木の体を跨いで腹の上に座りこんでしまった。
 床についた膝に体重をかけ、赤木が重くないように注意は払っているようだったが、普段のカイジらしからぬ行動に、赤木は些か驚く。

 ーーこいつ、眠っている俺相手なら、こんなに大胆なこと、しやがるのか。

 新しい発見に緩みかける口許を引き締めていると、カイジは赤木の胸にそっと手を付いて、体を小刻みに震わせ始めた。
 自身の体に伝わる振動に、赤木は始め、泣いているのか、と思ったが、違った。
 堪えきれないといった風にクスクスと、カイジは、笑っていたのである。

「なぁ……そろそろ起きてくださいよ。どうせ、狸なんだろ?」

 可笑しくてたまらない、という声で言われ、赤木はぴくりと瞼を動かし、軽くため息をつきながらそれを持ち上げた。
 明るさに一瞬、眩んだ視界の中で、カイジは赤木を見下ろして笑っている。
「なんだ……バレちまってたのか……」
 いたずらに失敗してがっかりしたような赤木の様子に、カイジは笑みを深める。
「狸のしっぽが、見え隠れしてたから」
「しっぽ?」
「はい」
 カイジは頷いて、くくっと喉を鳴らす。
「オレを欺いてやろう、って魂胆が、見え見えなんだ。赤木さんにも、不得手なことってあるんですね」
 見下した風でもなく、調子に乗るでもなく、ただひたすら赤木が見せた綻びを愛おしむような眼差しに、
「そうか」
 と赤木は呟いて微笑んだが、ふと、その笑みを陰らせた。

(それじゃあ、死んだふりなんて、なおさら、)
「お前には、きっとすぐにばれちまうんだろうなぁ」

 赤木の口からぽつりと漏れ出た言葉に、カイジは一瞬、不思議そうな顔をしたが、赤木の笑みに差した陰りはほんのごく僅か、カイジの目にはいつもの笑顔にしか映らないほどの些細なものだったので、カイジは気づかないまま、答える。
「そうです。赤木さんが本当に眠っているのか、それとも寝たふりをしてるのかなんて、隣の部屋にいたって、わかります」
 そいつはすごいな、とカイジに笑いかけてやりながら、赤木はこのとき、密やかに、ある決断をした。
 それは赤木にとって、それからカイジにとっても、これ以上ないほど重要な決断だったのだが、赤木はそれをカイジに伝えることはせず、代わりに、つと腕を伸ばして、ゆるやかにその腰を撫でた。
「カイジ」
 呼びかけると、こそばゆそうに目を細めて、はい、と答える。
 黒髪に沈む日の光が当たり、輝いて見える。やわらかな陰影が縁取るその顔を、赤木は黙ったまま見上げた。

 長く居すぎたか。
 このまま傍にいたら、離れがたくなりそうだった。
 心の中で唇を噛む。
 ここらが潮時だ。これが、いい切欠だったのだ。

「赤木さん……?」
 ふいに落ちた沈黙を、訝しがったカイジに名前を呼ばれ、赤木はすぐに破顔してみせた。
「腹が減った。飯にしようぜ」
 すると、カイジは屈託のないようすで「はい」と頷き、赤木の上から退いた。
 体の上から離れていく重みに、赤木は一度だけそっと目を閉じ、カイジの後を追うようにして、ゆっくりと体を起こした。

 カイジはついぞ、気がつかなかった。
 赤木は狸寝入り以外のことならすべて、完璧にカイジを欺いていたのだということ。
 このとき既に、赤木は以前の赤木とかなり違ってしまっていたし、先々の色々なことも、ひとりで決めてしまっていた。
 それらすべてを、カイジに悟らせず誤魔化すことなど、赤木には造作もないことだったのだ。











「例のものが、手に入った……」

 そう告げる声に瞼を上げ、赤木は、そうか、とだけ言った。
 安楽椅子に深く背を凭せかけたまま、ひどく苦しげな表情で自分を見下ろす男に視線を投げる。
「世話かけるな、金光……」
 赤木がそう声をかけると、金光はその声に被せるように悲痛な声で訴えた。
「なぁ、もう一度、考え直す気はねえのか……? 本当に、お前の心はもう、決まっちまったのか……?」
 それは赤木が金光のもとに身を寄せる遙か前から、幾度となく繰り返されてきた問答だった。
 黙ったまま表情すら変えない赤木に、暖簾に腕押しするような虚しさを感じつつ、それでも金光は考えずにいられない。

 いったい誰が、どんなふうに説得すれば、この男を翻意させることができるのだろうーー?

 いくら考えても、その答えはまるで見えない。
 金光はため息をつき、話題を変えるために口を開いた。

「伊藤ーー」

 その名前を口にした瞬間、赤木は面をわずかに傾け、まともに金光を見た。
 赤木が見せた、ほんのすこしの変化には気がつかぬまま、金光は話し続ける。

「伊藤、とかいう若者には言ったのか?」
「いや、」
 赤木は、静かに首を横に振る。
「あいつは、いいんだ」
「いいんだ、って……新聞なんて碌に読んでねえような奴なんだろう? お前が教えてやらないと、知る術がまったく、なくなっちまうんじゃねえのか?」
 赤木はごく薄い笑みをふわりとのぼらせ、穏やかに告げる。
「それでいい……あいつには、知らせないでおく。最後まで」
「どうしてだ……? 慕われてたんじゃねえのか……?」
 伊藤というその青年のことを、赤木が話すことはあまりなかったが、ごく偶に零れる話の断片からでも、赤木と青年の親密さを窺い知ることができた。
 だからこそ、そうするのだ。
 それが赤木の答えだったのだが、その胸中を吐露することはせず、赤木はしずかに口許を撓めた。
「あいつが来たら、見抜かれちまうだろうからなぁ」
「は……?」
「しっぽだよ、しっぽ。狸のな」
 奇矯な発言に耳を疑う金光に、赤木は悪戯っ子のようなやんちゃな顔で、笑ってみせた。







[*前へ][次へ#]
[戻る]