with 過去拍手お礼




 空気は秋めいて、ずいぶん日が落ちるのが早くなった。
 薄紫色の空の下、白い髪はくっきりと目に焼き付く。
 カイジは斜め前を歩くしげるの後ろ頭を見つめながら歩いていた。

 しげるはスラックスのポケットに手を突っ込んだまま、歩道と車道の境界にあるブロックの上を歩いている。
 両手でバランスを取らなくても、ふらつくことなく、すいすい歩くのにカイジは驚いたが、同時に呆れてもいた。
「なにガキみたいなことしてるんだよ」
 カイジの言葉にしげるは足を止め、ちらりと振り返る。
「だって、ガキだから」
 クスリと笑う、その目線はカイジと同じくらいの高さになっている。
 普段はガキ扱いすると機嫌が悪くなるくせに、こういうときばかり自分のことを『ガキだ』と認めやがる。
 苦虫を噛みつぶしたような顔になるカイジを余所に、しげるはまた歩を進めた。
「やめろよ、転ぶぞ」
 声をかけながら、カイジはしげるの後ろ姿からつい目を逸らす。
 忌まわしい過去の記憶とすこしだけ、重なったのだ、その後ろ姿が。
 ただし記憶の中では、ブロックは鉄骨で、その下の地面は視認できないほど遥か遠くにあった。
 我ながら情けないとも思ったが、目の前で人が何人も死ぬのを見たのだから、トラウマにならないほうがおかしい。
『やめろよ』としげるに言ったのも、本当は危険だからではなく、自分がその後ろ姿を見るのが嫌だったからだ。
 見るのが辛い、というほどではないけれど、なんとなく視線を向けるのを忌避してしまうのだった。

 しげるは歩道に軽々と降り立つと、元通りになった目線の高さからカイジの顔を見上げた。
「カイジさんも、やってみて」
「は? なんでだよ……」
「いいじゃない」
 軽い調子でしげるは言ってみせたが、その表情はやけに真摯に見えた。
 しげるのそんな顔は珍しく、気圧されたカイジは立ち止まる。
「早く」
 再度促され、カイジはそれ以上なにを言うことも出来なくなってしまった。
 ため息をつき、しぶしぶブロックの上に立つ。
 足場は細い。平均台のような要領でバランスをとりつつ、カイジはゆっくり歩き出す。
 ふらふらとふらついて、とてもじゃないけどしげるのようにスムーズにはいかない。
 下に落ちそうになると、知らず、額に汗が滲んだ。

 しげるはいったいなぜ、自分にこんなことをさせるのだろう?

 嫌でも思い出す。
 竦むことすら命取りになった摩天楼の上。長く尾を引くようにフェードアウトし、遥か下へ吸い込まれるように消えていく悲鳴。
 自分にすべてを託し、声すら上げずに消えていった人。
 夢に手が届く直前で、あっけなく途切れてしまった命。

 知らず、呼吸が荒くなる。限界まで見開いたのその目は充血していた。
 苦しい。今見ている風景の上に、過去が二重写しになる。
 目の前がぐにゃりと歪み、全身を緊張させたままカイジはバランスを崩し、車道側に大きく傾いだ。
 全身の汗腺が開き、心臓が大きく脈打つ。



 落ちるーーーー!



 だがそこで、歩道側の手をぐっ、と引っ張られ、カイジの体はブロックの上で傾いだ危うい姿勢のまま、静止した。
 足許の道路に向けた目を見開いたまま、カイジは束の間固まっていたが、傍を車が通り抜けていく音にはっとして、自分の腕を掴むしげるを見た。

 こころもち青白くなった顔で息を弾ませているカイジに、しげるは軽く肩を竦めて言った。

「ここはビルの上じゃないし、今あんたと一緒に歩いてるのはオレなんだけど」

 それからカイジの腕を離し、今度はその掌をしっかりと握った。
 しげるの言いたかったことはこれだったのかと、カイジはようやく悟った。
 要するに、面白くないのだ、しげるは。自分といるときのカイジが、過去のことを思い出したりするのが。
 常に今一時の気持ちで生きているしげるには、もどかしいのだろう。過去なんてものに囚われて、目の前の自分を見ていないカイジが。

 なんて回りくどい、とカイジは心中で悪態をついたが、心の底ではしげるの言葉に救われてもいた。

 ここはあのビルの上じゃないし、隣にはこいつがいる。
 落ちそうになったら、腕を引いて助けてくれるやつがいるのだ。

 そのことを完全に忘れていた。
 今に限ったことではない。普段もふとしたときに蘇る後悔や憤懣に囚われがちなカイジの意識を、そこから解き放てとしげるは言いたいのだ。
「その……悪かった……」
 カイジの表情が変化するのを見て取ったしげるは、ククと喉を慣らして笑う。
「これならぜったいに落ちないでしょ?」
 カイジの手を引いたまま、しげるは歩き出す。
 恥ずかしいからやめろと文句を言いつつも、カイジはすこしの間、左半身の体重をしげるに預けながら、細いブロックの上をゆっくりと、楽しむような足取りで歩いた。








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