惚れた腫れた ただの日常話



「待て」

 犬におあずけを命令するかのように重々しく言われ、しげるはキスしようとした顔を寸前で止め、ぱちぱちと目を瞬かせてカイジを見た。

「……なに?」
「歯が痛い。今、歯医者通いなんだよ……」

 確かに、今日のカイジはいつもより、どことなく滑舌が悪い気がする。
 文字通り、奥歯にものが挟まったような、ぼんやりと、すっきりしない声。

「……で?」
 
 すぐさま、反射的に問い返してくるしげるに、カイジは大げさにため息をついた。

「知らねぇのか? 虫歯は、キスでうつっちまうんだよ。だから、今は駄目だ」

 真面目な顔で諭されたしげるは「そっか」と肯いて、またカイジに顔を寄せていく。

「おいっ……! お前話聞いてたのかよっ……!」
「べつに、うつったって構わない」
「オレが、構うん、だよっ……!!」

 首を捻って顔を背けながら、カイジはしげるの唇を、手のひらでぺたりと押さえつけてしまう。

「……ケチ」

 しげるはつまらなさそうにぼやいていたが、やがて、ふたたびカイジの顔をじっと覗き込んだ。

「どこ?」
「は?」
「虫歯」
「あー……」

 カイジはしげるからも見えるように大きく口を開け、左の奥歯を指で示してやる。

「ほあ……ほほ。はれてうらろ?」

 しげるはカイジの口内を観察する。
 だが、『腫れてるだろ?』と言われても、指されている歯が虫歯なのかどうか、一見しただけではわからなかった。
 意外と綺麗に整っている歯列を眺めながら、しげるは問う。

「あと、どれくらいで治るの?」
「はんひゅうはんふあい」

 三週間くらい、と聞いて、しげるはつい衝動的に、カイジに口付けてしまった。

「!!!」

 とっさに口を手で覆い隠そうとするカイジの、件の左奥場あたりをわずかに舐めてから離れると、しげるは澄まし顔で言う。

「ごめん。三週間なんて、待てない」
「お前なぁっ……!!」

 しげるを心配しているからこそ、カイジは怒り呆れ、そっぽを向いて乱暴に吐き捨てた。

「腫れちまっても、知らねぇからなっ……!」

 発音が不明瞭なせいで、『腫れちまっても』が『惚れちまっても』に聞こえたしげるは、クスリと笑う。


「どっちにしろ、もう手遅れだよ」
「あ?」
「……こっちの話」

 訝しげな顔をするカイジに、しげるは「早く治してね」と目を細めるのだった。







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