台風の目 しげ→カイ ただの日常話


 中国地方で猛威を振るっていた台風が、関東に接近しているらしい。
 テレビが映しだしている天気予報。それを眺めながらビールをちびちび啜るカイジを、しげるはぼんやりと見ていた。

 明け方の天気予報は、ボリュームを絞った音楽を背景に、天気図を延々と垂れ流すだけ。
 人の姿も声もない無機質なそれを、静かな部屋で眺めていると、しげるは決まって、カイジとこの世にふたりきりになってしまったような、奇妙な錯覚に陥るのだった。
 不穏なようでいて、ほんのすこし面白いようなその感覚が、しげるは嫌いではなかった。



 窓から入り込んでくる空気が、生ぬるくて湿っている。風を受け、膨らんだカーテンがゆらゆらと揺れている。
 嵐の前の空気だ。風が吹くたび、心を直に撫で上げられていくような、ひどく落ち着かない空気。

 そういえば、初めて麻雀を打った夜も、ひどい嵐だったなとしげるが思い返していると、
「お前は、台風の目だな」
 カイジが突然、そう、ぽつりと漏らした。
 画面は週間天気から、台風の進路予想図に切り替わっていた。
 連なるように描かれた点線の円は日本列島の図に沿うように進んでいて、東京も三番目に大きな円の中に囲まれている。
「台風の目?」
 しげるが聞き返すと、カイジはビールをぐいと煽り、話し始めた。
「お前の一挙手一投足に、周りにいる連中は勝手にわぁわぁ騒いでるだろ? 猫も杓子も、警察やヤクザでさえ、いつもお前に振り回されてる。だけど当のお前本人は、端から見てると可笑しいほど静かでさ。なんか、台風の目に似てるなって、今、ふと思ったんだけど」
 そう言って、しまりのない顔でへらりと笑うカイジの顔は赤く、相当酔っぱらっていることが見て取れる。
「思いつきの割には、結構、うまいこと言っただろ?」
 普段はぜったいに見せないような気の緩んだ顔で、反応を窺うようにじっと見つめてくるカイジから、しげるはなんとなく目を逸らした。
「……あんただって」
「へ?」
 ぼそりと呟いた言葉を、カイジが聞き返してくる。
 だがそれには答えず、しげるはそれきり黙り込んだ。
 不思議そうな顔をしながらも、カイジもそれ以上聞き返そうとせず、大きな欠伸をひとつ漏らして、とろんとした顔のまま卓袱台の上に突っ伏してしまった。


 天気予報のBGMだけが、誰も喋らなくなった部屋に流れ続けている。
 自分の腕を枕に寝息をたてはじめたカイジの、穏やかに上下する肩を見ながら、しげるは心の中で呟いた。
(あんただって、台風の目だよ)
 周りにいるものを嵐のように騒がせる人間のことを台風の目に喩えるのなら、しげるにとってのカイジも、そうだといえた。
 傍にいると、心臓が騒ぐ。体中の血液が沸き立つような心地になる。

 しげるは目を閉じ、体の内から聞こえる潮騒のような音に耳を澄ませた。

 この感覚の正体を知っている。
 自分には無縁だと思っていたもの。
 でも確かに、自分の中に生まれてしまったもの。

 うっすらと目を開いて、そっと、眠ったままのカイジの隣に寄る。体が触れるくらい、近くに。
 それから、カイジと同じように腕を枕にして頬を押し付け、すぐ傍にあるカイジの顔を見た。
 安らいだような寝顔。黒い髪が、窓からの風に撫でられている。繰り返されるあえかな吐息は、タバコとビールの苦い香りがした。

 台風の目。渦を巻いた雲が取り囲む、その中心では穏やかな青空が広がる。
 だが一方で、その付近は猛烈な暴風雨になるのだ。
 しげるもまた、カイジに近づけば近づくほど、ますます大きく胸が騒ぎ、揺さぶられる一方なのだった。

 そっと手を伸ばして、傷のある頬に触れる。
 そこはしっとりと汗ばんでいた。
 もっともっと近づいて、台風の目の中に入ってしまえば、この胸も穏やかに凪ぐのだろうか?
 もしも気持ちが通じあえば、心も晴れ渡るのだろうか?

 午前五時。テレビ画面が切り替わり、ニュースキャスターが朝一のニュースを伝え始めた。
 静かだった部屋に誰かの声が聞こえ始めると、急に日常へと引き戻されたような気分になり、しげるは微かにため息をつく。

 カイジは眠りつづけている。自分が巻き起こしている、傍らの嵐にも気づかずに。
 汗ばんだ頬を掌で撫でてから、しげるはふたたび、目を閉じた。

 カーテンの揺れが、次第に大きくなってきている。
 頬に纏わるぬるい風は、湿った雨の匂いを含み始めていた。







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