影・1 出会いの話 冒頭だけ微グロ注意 アカギが女性と寝ていることを匂わす描写があります





 ときどき、わからなくなることがあった。
 自分は今、いったいここでなにをしているのだろうと。



 卓の上の牌が散らされぶつかり合う音。くぐもった悲鳴。
 逃げようと藻掻く体を数人がかりで呆気なく押さえつけられ、猿轡を噛まされているのは組に造反した男……なのだとアカギは教えられていたが、真実かどうかはわからない。アカギはただ、この卓で男を打ち負かしただけだった。
 銀縁眼鏡のフレームを仄暗い照明の下光らせ、アカギを雇った組の男が歯をむき出して笑う。
「時間はそうかからない……切れ味は抜群に良いからな。あっという間に終わる」
 匕首が抜かれると、猿轡の下から潰れた呻き声が上がる。上体を卓の上に押しつけられ強引に右腕を伸ばされ、男は血走った目を見開いて藻掻いた。
 その目が鈍く照り返す刃に釘付けになっている、それを確認してから、眼鏡の男はその刃先を下ろす。
 卓の上に押さえつけられた五本の指、そのうちの小指の付け根に先ず刃先を充てる。瘧のように震える体、荒い呼吸音に引き攣れた悲鳴が混じり、それに重なるようにして根菜の先を落とすときに似た呆気ない音が鳴った。
 声にならない絶叫とともに、赤い肉と白い骨の覗く断面から溢れ出した血が雀卓の上に広がっていく。緑色の布地に黒いシミができていくのを、脂汗と涙と涎にまみれた顔で男は呆然と眺めていた。
 痛みよりも明確な恐怖に彩られたその顔が、容赦なく隣の薬指に刀身が充てられたことによりさらに歪む。
 無機質な音をたてて男の指が一本、また一本と落とされるたび、濃くなっていく血生臭い匂いを嗅ぎながら、無感動に無表情に、アカギはただそこに突っ立っていた。

 二十の指を詰めることから始まる様々な拷問を受け、最後は海に沈められるであろうこの男は、皮肉にも死を目前にした今、きっと自らが生きているのだということを、嫌というほど実感しているに違いない。

 アカギは床に落ちる己の影に目を落とす。
 その影は、異様なほど色が薄かった。同じ灯りを受けて出来たはずなのに、その影は周りのどの人間よりも明らかに淡い。
 死にゆく男は勿論、アカギを雇った男もその手下のチンピラどもも、この場にいる者の誰ひとりとして、その奇妙な事実に気がついていないようだった。
 己の影の、胸の辺りを見ながら、また、薄くなったなとアカギは思った。

 男が失禁したのだろう。血溜まりの匂いにアンモニアの臭気が混ざり、反吐が出そうな悪臭が充満する。
 潰れたトマトのように赤い顔で無力に震える男の濃く落ちた影と、今にも消えていきそうな己の影法師を、アカギはただ、ぼんやりと眺めていた。




 ときどき、わからなくなることがあった。
 自分は今、いったいここでなにをしているのだろうと。
 集中して打っている間はいい。だが、身を投じていた勝負の熱が引くと、世界が急に彩度を落としたように感じられた。

 そういうとき、まるで肉体から精神が乖離したかのように、アカギは自分を含むすべての人間を、遙か遠くの方から傍観していた。なんの感慨もなくいっさい感情も動かない、言わば虚無に近い状態だった。
 そしてある時、偶然気がついたのだ。光を受けて地に落ちる己の影が薄くなっていること。アカギの見る世界が彩度を失っていくにつれ、ますます拍車がかかっていく。まるでアカギの中の虚無に呼応しているかのように。

 日に日に薄くなっていく影を見ながら、アカギはやはりなんの感慨も覚えなかった。原因も理由もわからない、だがいずれこのまま影が消えたなら、自分は死ぬのだろうかなどと思ったりもした。
 だが、やはりそのことに対して恐怖や混乱などは湧かず、アカギはただひたすら、他人事のように己の影を眺めているだけだった。





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