プロフィール しげカイ→アカカイ ほのぼの
アスファルトの上にしゃがみこみ、解けた靴紐を結び直しているしげるの鼻先を、ふわりと掠めるものがあった。
青臭い草の匂い。その中に紛れるようにして、微かに漂う甘い香り。
なんの花なのかはわからない。陽春の終わり、新緑の季節とのちょうど境目になると、カイジのアパートの近くにある空き地に芽吹いたさまざまな雑草が勢いよく伸び、花を咲かす。紫や白や黄色の、ごく小さな花。その香りであることは間違いなかった。
靴紐を結び終わり、立ち上がる。
「暑いな……。半袖にすりゃよかったかな」
傍らに立っていたカイジが、辟易したように呟く。
「着替えてくる?」としげるが尋ねると、眉を寄せて一瞬考えたあと、首を横に振った。
「いいや。腹減ったし、行こうぜ」
そう言って歩き出すカイジの隣に並び、長い髪を風に梳かすその横顔を見る。
この季節。カイジと並んで歩くとき、しげるは決まって、昔こうして、ふたりで歩いたときのことを思い出すのだった。
昔、といっても、ほんの数年くらい前のこと。
しげるがまだ中学生で、カイジと出会ってそう時間が経っていない頃のこと。
いつもすこしだけ見上げる形だった、横顔。
しげるは、その横顔が好きだった。
カイジは派手な美形ではないが、よく見ると鼻梁は通っているし、顔立ちは悪くない。
きつく吊った目と、濃くきりきりとした眉のせいで、人にはなんだか不機嫌そうに見られてしまうことが多いのだが、本人は決して難しい気質ではない。不器用なだけで、むしろどちらかといえばお人好しの真人間なのだ。
雑踏を行く人々のなかでそのことを知っているのは、きっと隣を歩く自分だけなのだと思うと、しげるは決まって、なんだか不思議な気持ちになった。
歩くときは必ず、カイジの左側に並んだ。博徒としての矜持と狂気のシンボルのような、耳と頬の傷が見えるから。
決して消えることのない壮絶な出来事を深く刻みつけたような、生々しい傷痕を曝け出しながら、当の本人はぼんやり気の抜けた顔をして歩いている。
それがまるで、獣が牙を潜めているみたいにしげるには見えた。カイジの、そんな本質を見抜いているのもやはり、行き交う人の群れの中ではしげるだけなのだ。
「カイジさん」
しげるの声はいつだってよく通るはずなのだが、カイジはしげるが話し掛けると、ほんのこころもち、体をしげるの方へ傾ける癖があった。
ちいさな子どもの声を聞き取ろうとするみたいに。
そのなにげない仕草で、距離が縮まって、カイジの横顔が近くなるのが、しげるは好きだった。
本人はそんな風に思われていることに、まるで気が付いてはいなかっただろうけど。
「……ん? どうした?」
名前を呼んでおきながら、なにも言わないしげるに、カイジが瞳を瞬いて軽く首を傾げる。
稚さすら感じさせるその仕草の甘さに、しげるはつい、手を伸ばしてその頬に触れてしまった。
不意を突かれ、驚いたように首を竦めるカイジの反応に、手だけでは飽き足らなくなり、爪先立って、今度は唇でそこに触れたのだ。
その時もやはり、濃く強い草と花の匂いがしていた。
だから、その匂いを嗅ぐと思い出すのだ。
その時は幼すぎて、自覚すらしていなかった。
若葉のように青臭く、小さな花のようにやんわりと甘い、惜春のようなしげるの恋の、それが始まりだった。
それから数年が経ち、いろんな紆余曲折はあったが、しげるは相変わらずカイジの傍にいる。
こうして隣を歩いても、昔のように横顔を見上げる形にはならない。
文字通り、カイジと『肩を並べる』背丈になって、不慣れだった恋に関することも、今では上手に出来るようになった。
隣に目を向ければ、昔よりもずっと近い距離に、その横顔がある。
それでも、この季節になると、しげるは思い出すのだ。
「カイジさん」
名前を呼んでみる。
しげるの背が低かった頃みたいに、体を傾げて耳を近寄せる癖は、今ではもうなくなってしまったから、わざと低く、潜めた声で呼び掛ける。
「……ん? どうした?」
すると、カイジが体をほんのすこし、しげるの方へ傾けてきた。
傷のある頬と耳。油断しきった横顔が近くなり、昔とすこしも変わらないその仕草にうすく笑って、しげるは昔と同じように、手と唇でその頬に軽く触れた。
終
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