臥待ち月 カイジが乙女
「今夜行く」
酷く久しぶりに、その声を聞いたせいだろうか。
耳に押しあてた携帯から聞こえる低い声に、懐かしさすら覚えながらカイジが黙り込んでいると、不審に思ったのか、電話の向こうの相手が、どうした? と問いかけてきた。
「今日は都合悪いか?」
「いえ……」
カイジは短く否定する。
待ってます。
そう言おうとして、言葉を飲み込み、ちょっと考えてから、
「……大丈夫です」
と、言った。
ほんの一瞬返事が遅れたことや、カイジの声のわずかな硬さ、そこに隠されたちょっとした機微には気がつかぬ様子で、相手は「それじゃ、後でな」と言って電話を切った。
冷たい電子音を聞きながら、カイジは電話を耳から離して唇を引き結ぶ。
時計を見ると、時刻はまだ七時を回ったところだ。
財布を掴んで部屋を出て、カイジは近所のコンビニへ向かった。
コンビニで、ビールやらつまみやらを選ぶ。
自分の呑む分だけ、自分の食べる分だけを。
決してそれ以上の量を手に取ってしまわないようにと、細心の注意を払いながら選び、会計を済ませた。
部屋に戻り、買ったものをテーブルの上に並べる。
テレビを点け、できるだけ馬鹿馬鹿しくて笑えそうなバラエティー番組にチャンネルを合わせ、ボリュームを上げる。
ちびちびとビールを啜りながら、頬杖を突き、騒がしい画面をぼうっと眺める。
今が旬の芸人がコントをやっていたが、今のカイジには別段、面白いとも思えなかった。
気が散って、ともすると目端に映る時計をひっきりなしに見そうになるのを、カイジは懸命に堪えていた。
だがその耳は実際、テレビの音をほとんど拾わず、気がつけばしんとした玄関の方へと意識が向いてしまう。
いつ、外からの足音が近づいてきても良いように。
いつ、その扉が叩かれても良いように。
全身が耳になって、神経のすべてで外からの音を拾おうとしているようだった。
ボリュームを上げても、他のチャンネルに切り替えても効果は無く、体はカイジの意思を裏切り続ける。
眉を寄せて軽く舌を打ち、カイジはテレビを消した。
テーブルの上には、まだ手付かずの発泡酒やつまみが並んでいたが、そのままにしてカイジはひとりきりの晩酌を切り上げた。
やわらかい生地の寝間着に着替え、床に脱ぎ散らかした服もそのままに、布団へ潜り込む。
すぐに眠ってしまうには、酔いがすこし足りなかったが、カイジは無理矢理目を瞑った。
目を開けると、きっと時計を見てしまう。
しんとした部屋に、やけに響く秒針の音が耳障りで、カイジは眉間に皺が寄るほど、瞼をきつくきつく閉じあわせた。
昔は。
ーーといっても、つい半年くらい前までのことなのだが、出会って間もなかったその頃は、「今夜行く」と電話越しに告げられたら、カイジはそれはもう張り切って男を待っていた。
ふたりぶんの晩酌の用意をしたり、偶には慣れない料理の腕をぎこちなく振るってみたりもして。
そわそわと落ち着かない気分でこまごまとしたものを片付けなどして、立ったまま部屋をうろうろしながら男を待った。
だけど、そうしている時間には絶対に男はやって来なかった。
少々待ちくたびれたカイジは、それでも、座ってひとり酒を飲みながら、男を待ち続けていた。
外の音に耳を澄ませながら。時計の針とにらめっこしながら。
だが、それでも、男はやって来ないことが大半だった。
その内カイジは机に突っ伏したり、床に丸まったりしていつの間にか寝てしまうのだが、男は大抵、その頃になってようやくひょっこり現れるのだ。
だが、そうやって来るのはまだ良い方で、「今夜行く」と言っておきながら、来なかったことすら何度かあった。
この半年、野生動物のように気まぐれなその男を待つ生活を続け、流石のカイジも学習した。
待つのをやめることにしたのだ。
立ったまま待って、座って待って、それでも本当に来るかどうかすらわからない男を待ち続けるなんて、馬鹿げている。骨折り損だ。
期待して、待ちくたびれてがっかりするのには、もう、うんざりだ。
そう強く思ったから、カイジは男を待つのをやめにした。
「今夜行く」
そう言われてどんなに心が浮き立っても、最初の頃のように、ふたりぶんの酒や面倒くさい手料理なんて用意しなくなった。
(待つのなんて、もうやめた)
つい男の分の酒を買ってしまいそうになるたび、部屋に近づいてくる足音やノックの音に耳を済ませそうになるたび、時計を見そうになるたび、カイジは自分にそう言い聞かせた。
それでも、男から電話のあった日は、夜が果てしなく長く感じられて、やり過ごすのが苦痛ですらあった。
そんな風に感じるのは、男の来訪を心待ちにしているということで、結局、待つのをやめきれていないということなのだ。
カイジ自身、そんなこと薄々わかってはいる。
だけど、認めるとなんだか負けたような気がして、意地になって、自分に言い聞かせているのだ。
(待つのなんて、もうやめた)
俄に外が明るくなった気がして、うっすらと目を開けると、上の方が欠けた月が、ちょうど窓にかかっていた。
月の方が、ずっと誠実だ。
雲さえかかっていなければ、どんなに遅くなっても、こうしてちゃんと顔を出すのだから。
しばし窓の外を睨んだあと、カイジは一向に重くなる気配のない両の瞼を、ふたたび下ろした。
それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
布団の中で目を閉じているうちに眠気が襲ってきて、いつの間にか、うとうとしていたらしい。
なにかが髪に触れる、その感触でカイジはふっと目を覚ました。
「起こしちまったか」
薄目を開けると、いつからそこにいたのだろう、ベッドの傍らに立っていた男が、カイジの顔を覗き込んで笑った。
さっき、電話越しの男の声に感じたのよりもはっきりと、カイジは男の笑顔に懐かしさを覚える。
月よりも薄情で、遠い人。それでも、いつだって会いたいと思ってしまう人。
長い指と乾いた掌が、微かに湿った長い髪を混ぜるように撫でる。
その手つきの儚いほどのやわらかさに、これは夢ではないかとカイジは怪しんだ。
自分の願望が見せている、ただの夢なのではないかと。
しかし、それならそれで構わないと思い直し、ゆっくりとした瞬きをひとつして、男を見上げる。
「悪かったな。ずいぶん、待たせちまって」
電話越しで聞くよりずっと近く、クリアな声に耳を傾けながら、起き抜けの、ぼんやりとした口調でカイジは言う。
「……大丈夫です。待ってなんか、いませんでしたから」
自分がどれだけ焦がれているかなんて、この人にはきっと、手に取るように見透かされている。
だから、説得力なんて皆無だということはわかりきっていたが、カイジは意地を張るように、そう告げずにはいられなかった。
男はなにもかもわかっているような表情で、ただ一言、そうか、と呟き、静かに笑う。
その顔が憎たらしくて愛おしくて、これが夢じゃないといいなとカイジは思った。
もういちど声が聞きたくて、カイジはなにか言おうと口を開きかけたが、髪を撫でる手に呆気なく眠気を誘われ、
おやすみ。
という男の声を最後に、深い眠りの底に沈んでしまった。
終
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