うすももいろ 髪を切る話


「カイジさん、そろそろ、アレやって」

 自分の前髪を弄くりながらしげるがそう言うと、カイジは毎回、嫌そうな顔をする。

「『アレ』ってなぁ、お前……妙な言い方やめろよな」
 ぶつくさとぼやきながらも、カイジは重い腰を上げ、ため息混じりに準備に取り掛かる。
「先、風呂行ってろ。ちゃんと上、脱いどけよ」
「わかってる」
 調子よくそう返事して、風呂場に向かうしげるの姿を見送ってから、カイジはノロノロと抽斗を漁り始める。
 そして、先の細い銀色の鋏と、持ち手がブルーのプラスチックの鋏、二本の鋏を手に、風呂場へ向かった。


 風呂場では、しげるが言いつけ通り上半身裸になり、低い椅子に腰掛けて待っていた。
 靴下を脱ぎ、ジーンズの裾をたくし上げてカイジも風呂場に踏み込んだ。
「よろしくね」
 正面にある鏡越しに、しげるが声をかけると、
「……仕上がりは保証しねぇぞ」
 渋い顔で言って、カイジはしげるの背後に立つ。
 その手の中にある、まだ真新しい二本の鋏を見て、しげるは軽く目を見開いたあと、クスリと笑った。
「……やる気満々じゃない、カイジさん」
「……うるせぇよ。笑ってんじゃねぇっ……!!」
 きまり悪そうに吠えるカイジをハイハイとあしらって、しげるは鏡の中のカイジから目を逸らす。
 しかし、その口角は未だ可笑しげに緩んでおり、カイジはますます渋面になった。
「おら、背筋伸ばせ。顎上げて、まっすぐ前向いてろよ」
 ぶっきらぼうに言いながら、カイジは浴槽の縁に二本の鋏を置く。
 それから、言われたとおりしゃんと背筋を伸ばし、鏡に映る自身のまっすぐに見つめるしげるの後頭部の髪を指で梳き、一房持ち上げた。
 銀色の鋏を手に取り、慎重に刃先をあてる。
 わずかに力を込めると、ザクザクした手応えがあって、白く細い髪の束がはらりと床に落ちた。



 静かな風呂場に、鋏の動く音と髪の切れる音だけが反響している。

 ひょんなことがきっかけで、だいたい一ヶ月に一度、カイジはこうして、しげるの髪を切ってやるようになった。

 最初こそぜんぜん乗り気じゃなく、面倒くさいながらも渋々やっていたカイジだったが、もともと変に几帳面なところがあるからか、一度切り始めるとこのように、話をするのも忘れて集中してしまう。
 その上、なかなかどうして仕上がりは悪くないようにカイジには見え、しげるも文句を言わないので、今回でまだたったの三度目ながら、カイジはちょっとだけこの散髪が嫌いではなくなってきているのだった。
 ついにはこの間、パチンコで儲けた小金で、梳き鋏を二本も買ってしまった。
 しげるにやる気満々だとからかわれてバツが悪いが、やはり紙用の鋏で切るのとは切れ味も手応えもぜんぜん違って、カイジはちょっとした感動すら覚える。

 この間会ったときよりずいぶん長く伸びた襟足の髪を持ち上げ、鋏をあてる。
 清潔な項と、意外にしっかりとした首筋から肩へのラインを見ながら、カイジは口を開いた。
「お前、ひょっとしてまたデカくなった?」
 しゃきん、しゃきんと小気味よい音を立てて襟足を切りながらカイジが問うと、しばし、考えるような間を置いたあと、しげるが答える。
「……どうだろう。自分じゃわからない」
 そうか、と呟きながら、カイジは鋏を動かし続ける。

 自分じゃわからない、としげるは言うけれど、カイジには確実に見えていた。
 しげるの成長。それはこうして髪を切ってやるとき、なぜか如実に感じられる。
 距離が近いせいだろうか? ともかくそれは、カイジがしげるの散髪を嫌いではない理由のひとつになっていた。

 背が伸びたとかそういうことは、並んで立てばすぐにわかることだけれど、例えば細い肩が徐々にしっかりしていく様子だとか、輪郭から丸みが消えて鋭くなっていくのとか、そういう些細な変化を感じ取れるこの時間が、カイジは嫌いじゃなかった。

 こうして髪を切るたび、確実に感じるしげるの成長。
 まるで肉親みたいに心があたたかくなるのと同時に、それはすこしの寂しさをカイジに抱かせる。

「思春期ってのは、ヤなモンなんだな……ガキが、あっという間におっきくなっちまって」
 ぼそりと呟くカイジを鏡越しに見て、しげるは呆れた顔になり、それから鼻で笑う。
「ジジ臭ぇ」
「……うるせぇ、バカ。前髪やるから、目閉じてろ」
 クク、と喉を鳴らしながら目を閉じるしげるの前髪をつまみ、鋏を入れていく。

 前髪を切るときにはいつも、特に神経を尖らせる。
 失敗するといちばん取り返しがつかない箇所だからだ。
 ぎこちなく二本の鋏を使い分けながら、カイジは細かく切っていく。
「もう目開けていい?」
「まだ、もうちょっと……」
 長い時間をかけて熱心に前髪を整えるカイジを余所に、しげるは目を閉じたまま大欠伸をひとつ、漏らした。



 前髪を切り終えると、カイジはぐっと大きく伸びをした。
 ずっと同じ体勢で集中していたから、腰と肩が痛い。
 体を捻ったり肩を回したりして凝りを解すと、最後の仕上げに取り掛かる。
 全体を見ながら、不自然なところを調整するのだ。

 耳裏に鋏を入れ、しげるの耳がまだうすく、ちいさいことに初めて気がつく。
 成長ばかりに気を取られていたが、子どもらしさはまだ、こんなところに残っていた。
 薄桃色の、花びらに似た耳朶を眺めながら、カイジはなんとなく、思いつきで口を開く。
「なぁ、しげる。今度、花見にでもいかねぇか?」
 言ってから、花見なんて何年ぶりだろうとカイジは思う。
 人混みは嫌いだが、しげるとなら行ってみてもいいかなと、ふと思ったのだ。
 どんどん成長していく姿に、焦りに似た気持ちが湧いたからかもしれない。

 だが、しげるは黙りこくったまま、返事をしない。
 不審に思ったカイジが鏡越しに顔を覗き込むと、なんとしげるは目を閉じたまま、軽い寝息を立てていた。
 カイジは目を丸くし、呆れる。
 こいつ、どんだけ自分の髪型に頓着ねぇんだ。あるいはそれだけ、信頼されてるってことなのだろうかと、カイジは唇をうすく開いてすやすや眠るしげるの寝顔をまじまじと見る。
 髪切ってる最中に寝ちまうなんて、まだまだコイツもガキってことかな。
 カイジは苦笑し、けれど心のどこかではほんのすこしほっとしながら、しげるの肩に落ちた白い髪を、手でそっと払ってやった。







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