せんのない恋 暗い話



 この人がこの部屋にいる風景にも、だいぶん慣れたなとカイジは思う。
 開け放った窓の向こうに広がる薄水色の空を眺めながら、タバコをふかす白髪の後ろ姿を、なんとなく部屋の入り口に突っ立ったまま、ぼんやりと眺めていた。
 赤木は最近頻繁に、この部屋へやってくる。
 ただ当たり障りのないことを話したり、ふたりで飯を食べたりして、その日のうちに帰る。どうやら、なにか明確な目的があってうちへ来るわけではないらしい、ということが、最近カイジにもようやくわかってきた。なのでお互い、あまり構わない。

 やわらかな風が、部屋の中に吹き込んでくる。窓の真下の道を、車の通り過ぎる音がする。
 うっすらと甘い、春の空気に鼻腔を擽られ、カイジはちいさなくしゃみをした。
 赤木が振り返り、カイジを見てやや目を細める。

 タバコを持たない方の手で赤木に手招きされ、窓辺に寄ると外の光が存外眩しかった。
 それで、またしてもくしゃみをするカイジに、赤木は表情を和らげる。

「風邪か?」
「……や……ちょっと、眩しくて……」
 すん、と鼻を啜り、カイジは口許を覆っていた手を退ける。
 眩しげなしかめっ面に、赤木は笑みを大きくした。
「……なに、笑ってるんですか」
 ムッとしてカイジが言うと、なんでもない、という風に赤木は首を横に振り、カイジの顔をじっと見つめた。
 瞬きを二、三度して、カイジは赤木の手許へと視線を滑らせる。
 赤木の手指に挟まれているタバコの灰が、かなり長くなっていた。
「灰、落ちますよ」
 赤木は微笑したまま、返事をしなかった。
 代わりに、空いている方の手を伸ばし、カイジの頬を触った。
 猫の喉でも擽っているような手つきで撫でられ、カイジはちょっとだけ首を竦める。

 思ったよりも緊張していない自分自身にカイジはほっとして、でもここでほっとするようじゃまだまだダメなのだと思い直した。
 もっと完璧に殺さないと。
 触れられることや見つめられることや目と目が合うことを、なんでもないことのように受け流せるようにならなくてはいけない。
 なんの感情も動かないようにならなくてはいけない。

「なあ、カイジよ」

 ふいに、赤木が口を開いた。
 咄嗟に、はい、と返事してカイジは赤木の顔を見る。
 不思議な淡い瞳と目が合って、赤木は口を開いた。

「殺しちまうなら、俺に預けちゃくれねえか?」

 なんのことですか。
 わかりきっていることなのに、わざとカイジが空とぼけてみせると、赤木は微かに目を眇める。
 
「お前さんが近ごろせっせと殺そうとしてる、その、心だよ」

 慈しむように頬を撫でられ、心地の良いくすぐったさに自然とカイジの目が細まる。
 見たことないけど、この手はきっと動物とか、撫でるの得意そうだ。
 などと、関係のないことをつらつら考えながら、カイジは答える。

「嫌ですよ」

『預けちゃ』がなければ、あんたに委ねてもよかったんだけど。
『俺にくれねえか』だったなら、喜んで差し出したけど。

『預けちゃくれねえか』だなんて、つくづくずるい言い方だと、カイジは思う。
 でも同時に、赤木らしい率直な言い方だとも思う。

「預けるってことは、いつか返されるってことだろ?」
 赤木からの返事はない。

 預けるってことは、いつか返されるってことだろ。
 あんたが逝くとき、一緒に持って行っちゃくれねえんだろ。
 死にゆく人間はきっと、生きてる者の気持ちを持っていくことなんてできない。
 それがわかっているから、『預けちゃくれねえか』なんて言い方をするんだろう。

 でも、それは嫌だとカイジは思っていた。

 抱えきれなくなるほど大きく育ってから返されたって、あんたのいなくなった世界で、そんなものあったって邪魔なだけだし。
 そんなことになるくらいなら、今あんたの生きているうちに、きっぱりと殺しちまったほうがいい。

 赤木が自ら死を選んだことを知ったときから、カイジもまた、この恋を自ら殺すことに決めたのだ。

 赤木はカイジの顔を見つめる。
 静かなその目の奥は笑っておらず、まっすぐな視線をカイジに注いでいた。
「駄目か」
 ぼそりと、低い声で問われ、カイジは首を振る。
「駄目です」
「どうしてもか」
 陽が翳り、赤木の陰影が濃くなる。
 心に鋭く入り込んでくるような深みを帯びた視線に、カイジはつい、目を逸らしながら答えた。
「……はい」

 ごく短い沈黙のあと、赤木はひとこと、
「そうか」
 とだけ言って、カイジの頬から手を退けた。
 安堵に胸を撫で下ろしつつ、カイジは再度、痛感する。
 やっぱり、もっとちゃんと殺さないと。
 ここで僅かでも揺れてしまうようではいけないと、下唇を甘く噛むカイジに向かって、
「惜しいなぁ」
 赤木はそう、のんびりと呟く。
 惜しいなんて、ちっとも思っていないような顔で。
 目尻に刻まれた柔和な皺を眺めながら、カイジはすこしだけ、赤木を憎むような気持ちになった。
 せんのない恋の相手を。死んでゆくことを決めた想い人を。
「思い通りにならないってわかったとたん、手を出したがるのはあんたの悪い癖ですよ」
 気分に任せ、突き放すように言う。
 言ってすぐ、生意気なこと言い過ぎたかな、と後悔しかけたが、この人はオレを置いていこうとしているのだから、このくらいの意地悪言ったって構わないはずだと思い直し、敢えて言い繕ったりはしなかった。
「お前、言うようになったなぁ」と、赤木は喉を鳴らして朗らかに笑う。

 雲間に隠れていた太陽がまた顔を出し、辺りが一気に明るくなる。
 春の陽に髪を梳かしながら、思い出したように窓枠に置いた灰皿にタバコの灰を落とす赤木の、なにごともなかったかのような表情と仕草を、カイジは睨みつける。
 風が吹き、花のように甘い、春の空気の匂いがふたりの許にも漂った。






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