人間だもの 甘々



「ちくしょー……今日こそは勝てると思ったのにっ……」

 そう、ぐちぐちと呟くカイジを見て、アカギは淡々と言った。
「ふふ、今日はなかなかいい勝負だったじゃない」
 どこがだよ、とツッコんで、カイジは横目でアカギを睨む。
「あー……オーラスでリーチん時、あっちの牌を捨ててれば……逆転できたのにっ……!!」
 返す返すも悔しげにカイジは叫び、嘆くように天を仰いだ。
 暮れかけの空には、星がちらほらと姿を見せ始めている。

 ふたりで、雀荘に行ったのである。
 半荘六回勝負で、勝ったのは言わずもがな。

『天才』赤木しげるを相手に、カイジもなかなかの粘りを見せ、途中までは両者、一歩も譲らぬ駆け引きが続いていたのだが、オーラスで跳満を直撃され、結局一万点以上引き離されてアカギに敗北したのだった。

 黄昏時の薄暗い道を肩を落として歩きながら、カイジは深くため息をつく。

 オーラスも、決して悪い流れではなかったのだ。
 配牌もツモも悪くなかったし、リーチ、タンヤオ、ピンフにドラが二枚乗って、和了れば満貫確実という手だった。
 問題は、リーチをかける際に、切る牌の選択を誤ったこと。
 当然、一枚でも待ちが多くなるようにと切った、その牌がまさにアカギのロン牌だったのだ。

 捨て牌から、その牌がなんとなく危ういということは読めたはずなのに、勝利への誘惑に耐えきれず、切ってしまった。
 勝利を渇望する心。それが敗因だった。
 あと一歩であのアカギに勝てるという状況に、カイジは冷静さを奪われていたのだ。

 カイジは隣を歩くアカギの、涼しげな横顔を見る。

 確かにアカギの言うとおり、今日の麻雀は、途中まではいい勝負だった。
 けれど、蓋を開けてみれば、いつもの如くアカギの圧勝で幕を閉じたのである。

 こうなるともう、互いに一歩も譲らぬかに見えた中盤までの接戦さえ、オーラス、カイジに隙を生むための策だったのではないかとさえ思えてくる。
 そんなことまで考えて場を操っていたのだとしたら、この赤木しげるという男はやはりバケモノじみていて、そんな奴にいちばん得意とする麻雀で勝とうなどと、無謀にもほどがあったのだとカイジは痛感した。

 消沈しているカイジに、アカギが声をかける。
「約束。忘れてねえよな」
 釘を刺され、カイジは「わぁってるよ……!」とヤケのように怒鳴る。

 ふたりが賭けたのは、今夜の夕飯。
 カイジが勝ったら、好きな店で好きなものを好きなだけ、アカギが奢る。
 そして、アカギが勝ったら、カイジがアカギのリクエストしたものを作る、という取り決めになっていた。

「で? なにが食いたいんだよ、お前は」
 カイジが訊くと、アカギはすこし、考えたあと、
「……コロッケ」
 と答えた。
「は!? コロッケっ……!?」
「あんたがずっと前に、一度作ってくれたやつ」
 あれうまかったから、と淡々とした口調でつけ加えるアカギに、カイジは頭を抱える。
「マジかよ……あれ、作るの死ぬほど面倒くせぇんだぞっ……!!」
 アカギの言うコロッケは、カイジがバイトを首になり、とにかくヒマだったときに一度だけ、気まぐれで作ってみたものだ。
 揚げたての手作りコロッケはあつあつ、サクサクで、思わず舌が鳴るほど美味ではあったものの、あまりにも手間がかかりすぎ、時間の有り余っていたその頃のカイジですら、二度と作るまいと心に誓ったほどの一品なのである。
 ジャガイモを茹でて潰して、挽き肉を炒めて混ぜて、さらに小麦粉卵パン粉をつけて……
 作る手順を回想しただけで、どっと疲労感が押し寄せてくる。

 ものすごく嫌そうな顔をするカイジに、アカギはニヤリと笑う。
「あらら……まさか、反故にするなんて言わねぇよな?」
 からかうような口調に、カイジはため息をつきながらも首を横に振った。
「あんだけ無惨に負けといて、その上約束まで反故にしようなんざ、みっともねぇことは考えてねえよ。……スーパー寄って帰るぞ」
 サバサバとそう吐き捨てて、寒そうに背中を丸めるカイジに、アカギは軽く眉を上げたあと、ふっと笑った。
「好きだよ。あんたのそういう、潔いとこ」
 アカギの口から零れ出た『好き』という言葉に、カイジは変なものを呑み込んだみたいな顔をしたあと、慌ててうつむいた。

 アカギはときどき、なんのてらいもなくこんな風な言葉を投げて寄越すから、困る。
 受け取る側は完全に無防備だから、いつも不意を突かれて、変にあわあわすることになる。
 赤くなった顔を見られないようにと注意しながら、カイジはわざと、怒ったように語気を荒げて言う。
「……言っとくけどなぁ……、死ぬほど面倒くせえことに変わりはねえんだからなっ……!!」
「はいはい」
 軽く笑いながらあしらわれて、カイジはむすっとしたが、そこではたと、あることに気がついた。

 そういえば、オレは自分からは言ったことがない。
 アカギに今言われたような、つまりは、『好き』とか、そういう言葉を。

 いやいや、仮にも恋人同士なんだから、いくらなんでもそんなはずは……と焦りながら、つきあい始めてからの記憶を掘り起こしてみる。
 が、やはり自分からアカギにそういった言葉を言ったという確かな記憶は、カイジの中には一切、残ってなかった。
 つき合ってそう長いわけではないし、アカギはしょっちゅうあちこち放浪していて、ふたりで一緒にいる時間なんて極端に短いわけだから、『言ったことはあるけど、カイジ自身がそれを忘れている』という可能性は極めて低いと言える。

 つまりは、恋人同士なのに、カイジはアカギに、はっきりと言葉で好意を示したことがないのだ。

 今、唐突に、初めてその事実に気がついたカイジは、まるで雷に打たれたようなショックを受け、それから、なんだかアカギに対して申し訳ないような気持ちになった。


 そりゃ、男同士だから、男女のカップルみたいにベタベタくっつくのなんて気色悪いし、気心知れた仲なわけだから、言葉になんてしなくても互いの気持ちはわかりあえているはずだ……たぶん。
 でも、だからといって、出会ってこの方『好き』の一言すら言葉にして伝えてないというのは、流石に恋人としてどうなのか?

 アカギはそんなこと微塵も気にしていないようだが、そんな態度に自分は胡座をかいていたのかもしれないと、お人好しで情に厚いカイジは、妙な罪悪感に襲われる。

 かといって、じゃあ今すぐアカギのようにてらいのない言葉を投げられるかというと、プライドとか羞恥心とかが邪魔をして、すぐにはそれもできないのだ。
 結局、カイジはうつむいたまま、チラチラとアカギの横顔を窺いながら、ただ黙ってひたすら歩くだけだった。

 

 しばらく歩くと、スーパーマーケットの近くで道路工事をしていた。
 この道はカイジもよく使うが、工事現場に遭遇したのは初めてだった。つい最近始まった工事なのだろう。

 重機の動く音や硬いコンクリートを削る音が、けたたましく鳴り響いている。
 耳が痛くなるような騒音に、そそくさと通り過ぎようと速めかけた足を、カイジはぴたりと止めた。

 カイジが止まったことにアカギは気づかず、どんどん先へと歩いていく。
 
 今なら。
 この状況なら言えるんじゃないかと、カイジは思った。

 耳をつんざくような音が溢れているこの場所で言ったって、アカギには絶対に聞こえないだろう。
 だからこそ、言えるのだ。

 相手に聞こえないなんて、言ってないのと同じだということは重々わかってはいるが、それでも今の自分にはこれが精一杯なのだから、仕方ない。
 今まで言ったことのなかったことを、初めてはっきりと口に出す、その事実こそが大事なのだ。

 自分にそう言い聞かせつつ、カイジはすこし前にあるアカギの背中を見据える。
 近くて遠い背中。いつまでも追いかけていたいような、でもいつかは追いつきたいような、まっすぐな後ろ姿に向かって、カイジは軽く息を吸い、腹の底に響くような騒音の渦の中、呟いた。

「す」「き」「だ」、と。

 一音一音しっかりと区切って、まるで覚えたての言葉をなぞるみたいに拙いその声は、音の波に呑まれてカイジ自身の耳にすら届かなかった。
 ……はずだった。

 アカギが急に足を止め、くるりと振り返ったので、カイジは飛び上がるほど驚き、ビクッと肩を揺らす。
 だが、さらにおかしなことに、振り返ったアカギまでもが、珍しく驚いたような顔をしていたのである。

 しばし、互いに驚いた顔で見つめ合ったあと、なにごともなかったかのようにアカギは前へ向き直り、歩き始める。
 その後ろ姿を、ぽかんと口を開けて眺めていたカイジだったが、やがて、恐ろしいひとつの可能性に思い当たり、サーッと青ざめた。

 ーー聞こえてた!?

 いや、まさかそんなはずはない。これだけ周囲がやかましいのだ。聞こえるわけがないのである。
 ……普通なら。

「おいっ、アカギっ……!!」
 とてつもなく嫌な予感がして、カイジは声を張り上げる。
 だがその大声すら、重く雑多なノイズにあっけなく掻き消されていく。
 こんな状況で、自分の耳ですら拾えなかったさっきの声を、離れた場所にいたアカギが聞き取れたとは到底思えない。
 しかしーー、さっきの、あの表情は。

 嫌な予感に引き摺られるように、カイジの足が自然に速まり、小走りになってアカギに追いつく。
 
 
「おいっ、アカーー」
 頼む、勘違いであってくれと願いながら、カイジはアカギの顔を見る。
 そして、目が合ったアカギの、らしくもない苦笑に絶句した。

「……ちょっとね。不意打ちだったから、びっくりして」

 笑っているような困っているような、ひどく曖昧な表情のまま、率直な気持ちを口にするアカギに、カイジはあんぐりと口を開いて固まる。
 
 こいつ、やっぱり聞いてやがったっ……!!

 やり場のない羞恥やら情けなさやらで、あっという間にカイジの顔が茹でダコみたいに真っ赤に染まる。
 からかうでもなく、鼻で嘲うでもないアカギの態度が、かえってカイジの羞恥心を燃え上がらせ、カイジは目を三角にしてアカギに八つ当たりしまくる。
「こっこっ、この地獄耳っ……! バケモノっ……!! てか、なんで聞こえてんだよっ……!? ほんとに人間かっお前っ……? 」
「ひでぇな……」
 半ば錯乱状態のカイジに誹謗中傷されながらも、アカギは肩を揺らし、笑う。
 さっきみたいな困った苦笑いではなく、心の底から愉しそうに、低く喉を鳴らして。
 そんなアカギを見て、カイジはさらにカーッと赤くなった。
「ちくしょー、てめ、なにが可笑しいっ……!? 笑ってんじゃねぇ……! クソがっ……!」
 涙目で怒るカイジの、頭やら肩やらを殴りつけてくる拳を軽々と避け、あるいは受け止めながら、アカギは稀に見るやわらかい笑みに目を細めて言った。

「オレだって、人間なんだ。嬉しけりゃ、そりゃ笑うさ」






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