名前はまだ無い しげ→カイ
ドアの前に立っていたしげるを見て、カイジは目を丸くしたあと、ぷっと吹き出した。
「お前、いったいどこほっつき歩いてきたんだよ」
くっくっと笑いながら、カイジの手がしげるの頭に伸ばされる。
緩く髪を引っ張られるような感覚のあと、目の前に差し出されたカイジの掌には、オナモミの身が乗っかっていた。
「猫みてぇ。毛もぼさぼさだし」
などと言いながら、再度伸ばされようとする手をするりと潜り抜け、しげるはわざと乱雑に靴を脱ぎ散らかして部屋に上がる。
「あっおい、まだ……」
背中にかけられるカイジの声を煩わしく思いながら、しげるは居間へと向かった。
部屋の扉を開けると、意外なことに、すでに先客がいた。
アーモンド型の大きな目と目が合って、しげるは思わず部屋の入り口で立ち止まる。
三角の耳をぴんと立て、口の周りをミルクで真っ白に汚しているーー彼女は、以前しげるがこの部屋へ行き掛かったときに出くわした三毛猫だった。
前見たときよりも、かなり大きくなっている。
ガリガリに痩せ、今にも折れそうに頼りなかった手足にはしっかりと肉が乗り、顔つきは子猫の甘さが消えてシャープになった。
ぼんやりとした毛並みの色や、短い団子しっぽなんかに昔の面影は残しているものの、もはや完全に成猫といってもおかしくはない。
猫とはわずか一年でこんなにも成長するものなのかと、感心したようにしげるがまじまじ眺めていると、後ろから足音が近づいてきた。
「お前な……頭にも服にもまだいっぱいついてるんだから、あとでちゃんと鏡見て……」
ぶつぶつ言いながらしげるを追ってきたカイジの、小言が尻窄みになっていき、その表情が『しまった』とでも言いたげな、苦み走ったものに変化していった。
「この猫、まだ飼ってたの?」
平板なしげるの声に、カイジはきまり悪そうにぼそぼそ答える。
「べつに、飼い猫じゃねえって。ここ、ペット禁止だし……」
まるで、隠し事がバレた子供のような顔で、カイジはしげるの顔をチラチラと窺う。
奇妙な沈黙が流れる中、猫はさっさと食事を済ませ、トコトコ歩いてしげるの傍を通り過ぎ、カイジの足許に纏わりついた。
くりくりと澄んだ金色の目で見上げる猫に、屈んで両手を伸ばしかけたところで、カイジはなぜかおずおずとしげるの方を見る。
「……なに」
「いや……お前、猫嫌いだろ……?」
しげるはすこし眉を寄せた。
「そんなことないけど……なんで?」
「だって、こないだコイツ見たとき、嫌そうな顔してた」
嫌そうな顔。
「……べつに、猫のことが嫌だったわけじゃない」
ちいさな声で呟くと、「え?」とカイジが聞き返してくる。
「いいから、いつも通りにしなよ。変に気使われると、気持ち悪い」
つけつけとしたしげるの物言いに、カイジはやや顔を顰めながらも、のろのろと手を伸ばして猫を抱き上げた。
抱き慣れていないのか抱き方がわからないのか、カイジは猫を一年前と同じように前肢のつけ根をもって持ち上げるので、猫はびろーんと長く伸びて宙に浮いている。
短く丸い尾がフサフサと大きく揺れているのを見て、
「今日は機嫌いいみたいだな……」
などとカイジは呟いているが、しげるにはそのしっぽの動きが、苛立ちを現しているように見えてならなかった。
ぺたりと伏せられた耳や、ぴんと前に突き出されたヒゲの様子は、どうやらカイジの目に入っていないらしい。
だが、賢いこの雌猫は、たとえ不快な抱き方をされても、いい餌づるである人間には牙を剥かず、じっと耐え忍ぶことに決めているのだろう。
物憂げにしっぽを揺らしながら、カイジが飽きるのをひたすら待っているようなその猫の、尾に近い焦げ茶の毛の部分に、棘のあるちいさな草の実がくっついているのをしげるは発見した。
カイジがさっき、自分のことを『猫みてぇ』と笑ったのは、このためだったのだと理解して、しげるは身形も構わずこの部屋を訪ねたことを後悔した。
草の生い茂った空き地を突っ切るこの部屋への近道は、もう二度と使わないと、しげるは密かに心に決めた。
「ねぇ。この猫、名前は?」
ふと、思いついてしげるが尋ねると、
「あ? 名前? そんなもんねぇよ」
カイジは意外な返事をする。
「……飼ってるわけじゃ、ねえんだし」
神妙そうな顔つきで、自分に言い聞かせるように言うカイジを見て、しげるは納得した。
なるほど、必要以上に情が移るのを避けるためか。お人好しなこの人らしい。だけど一年近くもの間、こうやって部屋に通わせてやってる時点で、もう手遅れな気もするけど。
なにが愉しいのか、カイジはしばらく黙ったまま猫と見つめ合っていた。
よく飽きないな、などと思いながら、しげるもそんなカイジをずっと眺めていると、しばらくして、カイジがひとりごとのように呟いた。
「お前にも、しっぽがあればよかったのになぁ」
ぽつりとそう言ってから、ハッとしてカイジは口を噤む。
動物の前では気が緩むのだろうか。無意識に心の声を思わず漏らしてしまったとでもいうような、まずったという表情になったカイジは、しげるが聞き流してくれることを望んでいるようだったが、当然、そうはならず、
「ねぇ。今の、どういう意味?」
すかさず突っ込まれ、カイジはうぅと唸る。
やたら素早い瞬きを繰り返しつつ、咳払いなどしてどうにか誤魔化そうとするカイジの逃げを許さぬように、しげるはじっとカイジを見つめる。
もの言わぬ視線にじりじりと威圧され、辟易したカイジは結局、本音を白状せざるを得なかった。
「お前って、わかりづれえからさ……。コイツみたいに、しっぽ……でもあれば、痛いとか、嬉しいとか悲しいとか、そういうこと、もっとわかってやれるかも……、とかっ……! なんとなく、そう思っただけっ……!!」
怒ったような声で吐き捨てて、カイジは猫を床に下ろす。
屈む動作で紛らわそうとしても、耳まで赤くなっているのは隠しようもない。
しげるはそれを見ながら、静かに口を開いた。
「……カイジさんには、あるもんね。犬みたいなしっぽ」
「はぁ? ねーよ……どういう意味だ?」
ものすごく、わかりやすいってこと。
怪訝そうにするカイジに、心の中だけでしげるはそう答える。
無事、床に下ろされた猫は、心底ホッとしたように、前肢と後ろ肢を大きく丁寧に伸ばしたあと、毛繕いを始めた。
この猫の気持ちさえ正しく理解できていないんじゃ、オレにしっぽがあってもなくても一緒だよ。
まだほんのりと染まったままの、意外と形のいい耳を、しげるはぼんやり眺める。
カイジのこういうところを、しげるは疎ましく思う。
だけどそれと同じくらい、それが好ましくもあった。
カイジの不器用なやさしさに触れるとき、しげるの中に生まれる感情。
それはしげるがカイジに抱いている、思慕とも恋情とも、あるいは肉欲ともまったくべつのところにある、生臭いような乳臭いような感情だった。
いとけない猫の子のようにやわらかく、ふにゃふにゃとたよりないそれは、しげるの中で確かにちいさく脈打っている。
この気持ちがいったいどういうものなのか、どう呼ぶべきなのかが、まるでわからない。
ラベリングができないからには、なんの対処もできず、掴んで捨て去るにはあまりにも弱々しいその感情を、しげるはずっと、持て余していた。
しんと黙りこくってしまったしげるを、カイジは不思議そうに見る。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
心配そうな声とともに、額へと伸ばされる無骨な手は、子猫を撫でるような手つきで、しげるの中の感情を撫でていく。
カイジはそんなこと、まったく気がついてすらいないのだろうけれど。
やっぱり、自分にしっぽなんかなくてよかった。
そう思いながら、しげるは静かに目を瞑り、カイジの手を避けずに受け入れる。
心地よくて、居心地が悪い。
この感情に、名前はまだ無い。
終
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