感情線 アカ→カイ アカギ視点
都外での代打ちの帰り、乗り込んだ環状線で、偶然カイジさんを見かけた。
七人掛けのシートの端っこに座り、腕組みをしてうつむいていたから、最初はカイジさんだって気がつかなかった。
すし詰め状態の人の波に押され、流れ着いた場所がちょうど、カイジさんの正面だったのだ。
目の前に座っているのがカイジさんだと気づいて、声をかけようとして、やめた。
どうやら、眠っているらしい。電車が揺れるのに合わせて、脱力した黒い頭がこくり、こくりと船を漕いでいた。
つり革に掴まり、カイジさんの様子を眺める。
カイジさんだって気がつかなかったのは、普段と違う服装だったせいもある。
見慣れない黒いスーツ。それに、長い髪も後ろで括っている。
就活……では恐らくないだろうから、バイトの面接の帰りだろうか?
滅多に日の目を見ないであろうスーツは、まるで買ったばかりのようにパリッとしているのに、当の本人は草臥れたサラリーマンのようにくたくたに萎れて深く眠り込んでいるのが、なんだかちぐはぐで奇妙だった。
電車が駅に着くたび、ドアが開き、アナウンスとともに慌ただしく人が乗降する。
乗り込んでくる人は皆無口で、頬を刺す冷たい外気を纏っている。
カイジさんは、一向に起きる気配すら見せない。
いったい、いつから乗っているのだろう。
この路線は、一周するのに約一時間弱かかる。
ひょっとするとこの人は、同じ線路の上をすでに何周かしているのではないだろうか?
そんなことを考えているうち、カイジさんのうちへ向かうときにいつも降りる駅に着いた。
アナウンスが駅名を告げる。騒々しく人が入れ替わる。
それでも、カイジさんは眠ったままだ。
起こしてやるべきかとも思ったが、なんだか面白いので、放っておくことにした。
出発のベルとともにドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出す。
このまま声をかけなかったら、この人は、いったい何周するのだろう。
起きたときの反応が愉しそうなので、オレはこのままカイジさんを観察することにした。
不規則に揺れる体をつり革で支えながら、黒いつむじを眺める。
死んでるんじゃないかって疑わしくなるくらい、カイジさんは昏々と眠り続けている。
いったいどんなことをして、こんなに疲れているのだろう。
なにか夢でもみているのだろうか、ときどき、びくっと肩が痙攣する。
その様子が可笑しくて、ごく自然に、ああ、顔が見たいな、と思った。
思ってから、すこしだけ、心臓が妙な打ち方をした。
カイジさんといると、ときどき、心にうすい膜が纏わりつくような気持ちになる。
質量もあたたかみもなく、ただふわりと、心に覆い被さるだけ。居心地が悪いのかいいのか、それすらよくわからない。
ただ、その膜に心を包まれるようになってから、オレはときどき考えてしまうのだ。
オレはいったい、カイジさんとどうなりたいのだろう。
カイジさんを、どうしたいのだろう。
導き出される結論は、いつも同じ。
今はこのままでいい、と思っていた。
自ら望んでこの先へ進んだとき、なにが待っているのかはわからないが、敢えてそれを見てやろうという気には、ならなかった。
環状線は走る。
人の顔が次々と入れ替わる中、オレとカイジさんだけが、縛られたようにここから動かない。
このままでいい。
オレはもう一度、心の中で呟く。
オレとカイジさんの関係も、このままの距離を保って、同じところをぐるぐると回っていられれば、それでいい。
愚かしくても。終着駅などなくても。
逃げているだろうか。誤魔化しているだろうか。
それでも、今はこのまま、ここにずっと立っていられればいい。
そしていつか、この心にかかったうすい膜が、無視できないくらいに重みを増してきたら。
その時にまた改めて、身の振り方を考えようと思う。
輪っかになった線路の上を、電車はぐるぐると回り続ける。
人の話し声がなんだか遠く聞こえ、カイジさんとたったふたりきりでここにいるような錯覚を覚える。
カイジさんは、ひたすら眠っている。
いつ、目を覚ますのだろうか。
目を覚ましたら、なんて声をかけようか。
起きたらまず時計を見て、それからオレに気がついて、『なんで起こさなかった』って怒るのだろうか。
想像しながらカイジさんを眺め続けるオレの耳に、何度目かの『ドア閉まります』が聞こえてきた。
終
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