ラストシーン 別れの話




 十三歳の赤木しげるに、あいさつというものの大切さを教えたのは伊藤開司だった。



 雀荘で偶々知り合い、ときおり訪ねてくるようになった小生意気な子供は最初、カイジが出迎えても碌なあいさつもなく、まるでそうするのが当然だとでもいう風に、ふてぶてしい態度で人のうちに泊まっていた。

 苦い顔をしつつも、カイジはそんなしげるを渋々嗜め、教えた。
「おはよう」、「こんにちは」、「ごめんなさい」、それから「ありがとう」。
 あいさつは人間関係の基本だぞ、とかなんとか最もらしいことを言いながら、カイジ自身、周囲と良好な人間関係を築けているとは決して言えなかった。たかが中坊のガキと会話するのでさえ、最初は辟易するほど億劫で疎ましく感じられたくらいなのだ。

 フリーターのギャンブル中毒者。子供相手とはいえ、決して褒められた人間ではない自分のことを完全に棚上げして、偉そうに社会の常識だのなんだのをいろいろ教えてやることに後ろめたさを感じないわけではなかったが、幸いにしてしげるは冷笑する素振りも見せないどころか、普段見せる尊大な態度とは裏腹に、カイジの言うことは意外に素直に聞き容れようとする姿勢を見せた。
 思いがけず、この鬼のような子供の性根がまっすぐなのにカイジは驚いた。いや、もちろん捻くれてはいるし、間違いなくその本質が悪であることは確かなのだが、素直さというものは、本人の性格や性質とはまったく関係ないのだとカイジは知った。

 そういえば、今でこそ平気でタメ口を利いているが、初めて会ったばかりの頃は、カイジに対してちゃんと丁寧語らしきものを使っていた。敬う、とはいかないまでも、カイジをちゃんと年上として扱っていたのだ。
 きっと今まで、周りに教えてやる大人がいなかっただけのことなのだ。そんなしげるが相手だからこそ、カイジもお人好し精神を擽られ、いつの間にか、まるで兄のように親のように接するようになっていた。



 カイジがしげるに狎れ、接し方や態度が軟化するにつれ、しげるがカイジの家を尋ねる頻度も高くなった。
 一月に一度だったのが、二週間に一度になり、やがて週に一度のペースで顔を出すようになった。
 なんでもない風を装いながら、カイジも心の中で密かにそれをくすぐったく、嬉しく思っていた。

 だが同時に、戸惑いも抱えるようになった。
 ふたりの距離が狭まるにつれ、視線の熱、とでもいうべきものを、カイジは如実に感じるようになっていた。
 といっても、向かい合って真正面からお互いを熱く見つめ合っているということではなく、たとえば、並んで街中を歩いているときだったり、料理をしている自分の手許を気まぐれに覗き込むときだったり、深夜のテレビ番組をふたりしてぼんやりと眺めているとき。
 そういった、なにげない瞬間に、横顔をチリチリと焦がすような、しげるからの視線を感じるのだ。

 しかし、確かに視線を感じてしげるの方を見ても、不思議なことに鋭いその眼差しはカイジに注がれておらず、ふたりの目線が交わることはなかった。
 カイジは内心首を傾げつつ、しげるから目を逸らす。しかし、しばらくするとまた熱を感じてーーと、そんな風なことを繰り返しているうちに、カイジはいつの間にか、自分もしげるのことを頻繁に見てしまっていることに気がついた。
 心臓が竦む思いがした。しげるが自分を見つめているのか、それとも、自分がしげるを見つめているのか。息も出来ぬような視線の熱に浮かされて、いつしか、それすらもわからなくなった。

 あまりの熱さに頭の芯が茹だって、このままではどうにかなってしまいそうだった。
 いや、いっそこのまま、どうにかなってしまいたい。
 あと一歩、双方が歩み寄りさえすれば、ふたりの関係がたやすく変化するのは明白だった。
 気がつけば、ふたりの間には深くて大きな沼が静かに口を開いて待ち受けていた。
 そこへふたりして落ちていくことへの、抗いがたい誘惑を感じる一方で、そんなのはいけないことだとブレーキをかける自分もいる。

 カイジは恐れているのだった。しげるは、カイジと関係を深めることなど望んでいないように思われたからだ。本人に確かめずとも、その生き様を見ればわかる。
 自分が傍にいることで、しげるの清廉なほどまっすぐ貫いている生き方、その輪郭が、ぬるま湯に浸ったようにふやけてしまうのではないか。そういった懸念を、しげる自身も心に抱いているではないか、と。

 カイジの予想通り、しげるはある一定の距離を超えると、自分からカイジに近づこうとはしなくなった。
 そこからはもう、どんなに近くにいても、常に透明なうすい壁を一枚、隔てて接しているようだった。
 カイジの側から不器用に歩み寄ろうとしてみたって、しげるはその壁を決して取り払おうとはせず、その向こう側で静かに笑うだけだった。

 虚しく壁を引っ掻きながら、カイジは密かな焦りと諦念の間で揺れた。
 しげるの生き様に憧れを抱いているからこそ、それを尊重したいという気持ちと、それをぶち壊してでも距離を縮めたいという気持ち。
 その狭間でカイジが苦しみ、惑っている間も、しげるは決して態度を変化させることはなかった。カイジとは違い、しげるは端から迷ってなどいなかったのだ。

 つまり、しげるが望まぬ以上、ふたりの関係はこの先へ進みもせず、かといって今さら戻ることもできず、そこで停滞した。
 停滞。それは、いずれこのじりじりとした中途半端な関係に、終止符が打たれる日が来ることをカイジに予感させた。

 それをはっきりと自覚してからは、カイジはもう、自ら壁を越えていこうとはしなくなった。
 そんなことをしたって、ただ虚しいだけだからだ。
 寂しさはもちろん、あったが、カイジはそれに気づかないふりをして、しげると透明な壁越しのやり取りを続けた。






「こんばんは、カイジさん」
 その日も、しげるはいつも通り、きちんとそうあいさつした。
 寒い冬の夜だった。ふたりとも夕飯がまだだったので、近くの中華料理屋に飯を食いに行った。

 ときおりカイジが、「最近、学校には行ってんのか?」などとしげるに尋ね、しげるが決まり切った答えを返す。それ以外は特に会話もなく、これもいつも通りの、ふたりの風景だった。
 カイジはしげるの傍にいるとき、相変わらず、肌を焦がすような視線の熱さを感じ続けていた。
 ある時期から、ふたりはずっと一定の距離を保ち続けているのに、カイジがそれに慣れることはなく、むしろ別れを予感するようになってからというもの、より強く意識してしまうようになっていた。



 うちに帰る途中、雪がちらついてきた。ここ数日、東京でも雪の降る日が続いている。傘を持って出るのを忘れてしまったため、ふたりは頭に肩につめたい雪を積もらせながら帰路を急いだ。
 積雪があると電車のダイヤが乱れるから、明日は早めに家を出なくちゃな、とカイジはぼんやり思った。新しいバイトの面接があるのだ。

 面倒くせえな、と思いながら、カイジはアパートの階段に足をかける。
 が、そこでようやく、しげるが隣にいないのに気がついて、カイジは振り返った。

 しげるはいつの間にか、カイジのすこし後ろで立ち止まっていた。
「……どうした?」
 首を傾げるカイジを、しげるはただ、黙って見つめている。
 静かな眼差しだった。もういちど、どうした? と尋ねようとして、唐突なある予感に、カイジは雷に打たれたように愕然とした。

「……泊まっていくんだろ?」
 痺れる舌をなんとか回したが、声は震え、みっともなく縋るような響きを帯びていた。

 しげるは返事をしなかった。代わりに、ゆっくりとカイジに近づいて、そのすぐ傍に立つ。
 カイジは息を飲んだ。滑らかな白い頬をうっすらと縁取る産毛が、はっきりと見えるほど近くにいるはずのしげるが、なぜか姿も見えないくらい遠いところにいるように思えたからだ。

 呆然とするカイジの頬に、しげるは渇いた指を滑らせる。
 確かめるように頬の傷と輪郭を一撫でしてから、そっと目を閉じて唇を重ねた。

 キスするのは、それが初めてだった。薄氷を口に含むような、淡くてごく短いキスだった。

 唇を離すと、しげるは睫を伏せたままため息をついた。
 互いの吐く息は白く曇り、混ざり合う。
 ただ立ち尽くすカイジの顔を真正面から見て、しげるはゆっくりと口を開いた。

「さよなら」

 背を向ける直前、カイジが最後に見たしげるの表情は、すこしだけ微笑んでいるように見えた。
 薄明かりの中遠ざかる背中に、カイジは一言も声をかけることができない。

 いつかこんな日がくることへの、覚悟は十分にできていた。
 だが、カイジはしげるがいなくなるときは、一言もなく自分の前からあっさりと消えてしまうものだと、なんとなく思い込んでいた。
 しげるの口から、その言葉を聞くことなど一生ないだろうと思っていのだ。

 だから、カイジは突然訪れた別れに対するショックではなく、不意打ちで食らったその四文字のあいさつの、不思議な響きの美しさに撃たれ、なにも言うことができなくなってしまったのだ。
 その美しさの前では、用意していたどんな言葉も無粋に響き、相応しくないように思われて、カイジはひたすら口を噤むしかなかった。


 なにも告げずに去ることだってできたはずだ。
 むしろ、しげるは必ずそうするだろうとカイジは思っていたのに、しげるはわざわざカイジに会いにやってきた。
 さよならを言うために。
 それは、狂おしいほどの愛情に満ちた、最後のあいさつだった。
 遠ざかる背中を見つめながら、カイジはしげるの素直さを、肌を焦がすようなあの熱を、懐かしく、遠く感じた。

 ドラマや映画のようなラストシーンではない。
 でも、カイジにとってはこれ以上なく劇的で、あたたかみに満ちたふたりの幕切れだった。
 涙すら出ないほどに。

 だから粉雪の中、ちいさくなってゆく後ろ姿を見送りながら、カイジもまた「さよなら」と、心の中で呟いて、愛おしいその背中が見えなくなるまで、いつまでもそこに立ち続けていた。







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