節穴 しげ→カイ 餌付けの話
カイジのうちに向かって歩いている途中、とある鞄屋のショーウインドウの前で、しげるはふと、足を止めた。
ビジネスバッグやキャリーバッグ。いくつも並べられた商品の中で、ひときわ目立つ焦茶色の鞄に目を向ける。
それは、やわらかそうな本革のボディーバッグだった。
控えめに抑えられた店の照明を受け、落ち着いた光沢を放っている。
材質や仕立ての良さのお陰で、カジュアルになりすぎず品がある。
以前ここを通りがかったとき、一緒にいたカイジが足を止めて眺めていた鞄だ。
値札を見ると、五万円近い値がついていた。
諦めたようにため息をつくカイジの横顔を思い出し、しげるは迷うことなく踵を返すと、店のドアを潜った。
「こんにちは、カイジさん」
しげるが挨拶すると、カイジは軽く頷き、「上がれよ」と促した。
今日はバイトが休みの日だと聞いていたが、外出する用事でもあったのか、きちんと寝間着から着替えて髪も整えている。
「これから、どこか行く予定だったの?」
「いや……パチンコ負けて、帰ってきたとこ」
「そうなんだ」
「おいっ……お前今、笑っただろっ……?」
「笑ってねえよ」
そんなやりとりを交わしながら、部屋に上がる。
部屋に着いたところで、しげるは肩に掛けていた鞄に手をかけた。
わざとゆっくりとした動作で、買ったばかりの革の鞄を下ろせば、カイジの顔つきが変わるのがわかった。
あっと見開かれた大きな目が、真新しい鞄に釘付けになっているのを感じながら、しげるはわざと、きょとんとした顔で問いかける。
「……この鞄が、どうかした?」
「あ、ああ……」
しげるの声に、カイジははっと我に返る。
「それ、最近見かけて……ちょっと気になってたんだよな。でも高くて、手が出なくってさ」
知ってるよ、としげるは心の中で言う。
へへ、ときまり悪そうに苦笑いしながらも、カイジの視線は完全にしげるの手許へと固定されたまま動かない。
わかりやすい羨望の眼差しに、しげるはクスリと笑うと、
「かけてみる?」
と勧めながら、鞄をカイジの方に差し出した。
「へっ……!? いいのかっ……?」
興奮したような声に頷いてやると、「そ、それじゃ、遠慮なく……」と呟きながら、カイジは鞄を受け取った。
革の質感を確かめるように注意深く触り、じっくり時間をかけて矯めつ眇めつしてから、いそいそと肩に掛けてみる。
「へ〜……思ってたより、軽いんだな……」
弾んだ声でそう言って、ストラップを触ったり姿見に後ろ姿を写して振り返ってみたりするカイジの表情は、楽しそうに浮かれていて、しげるの目も自然に細まる。
色も形も大きさも、その鞄はカイジの服装や佇まいにぴったりと合い、まるでもともとカイジの持ち物であったかのように違和感がなかった。
「似合ってる」
しげるが誉めると、カイジは「そうか?」と照れたように笑ったが、まんざらでもなさそうな顔をしている。
ありがとな、と言って、鞄を降ろしかけるカイジの名残惜しげな顔を見ながら、しげるは言った。
「それ、あげようか?」
「えっ……!?」
わが耳を疑い、びっくりした顔になるカイジに、しげるはもう一度言ってやる。
「欲しかったんでしょ、それ。やるよ。オレよりカイジさんのほうが似合ってるし」
淡々としたしげるの言葉にしばし唖然とし、カイジは声を裏返らせて言う。
「でもっ……! これ、買ったばっかなんじゃ……」
「いいんだって……目についたのを、適当に選んだだけだし。そこまで愛着ないから」
『適当に選んだ』というのは、もちろん嘘だ。
いきなりそんなことを言われても、流石に気が引けるのだろう。カイジは無理やり鞄を返そうと押しつけてくるが、しげるは断固、受け取ろうとはしなかった。
埒のあかない押し問答をしばらく続けたあと、しげるが頑として譲らないことをようやく悟ると、渋々といった風にカイジはようやく手を止める。
「っ……本当に、いいのかよ?」
もちろん、としげるが頷くと、カイジはなぜか怒ったように頬を紅潮させた。
「後になって金よこせって言われても、払えねえぞっ……!!」
「そんなことしないって」
呆れ顔で失笑するしげるを見て、カイジはひどく戸惑ったみたいに唸っていたが、やがて、うつむいてぼそぼそと礼を言った。
「……それじゃ、遠慮なくもらう。ありがとな……」
深い混乱と、思いがけず降って湧いた僥倖との板挟みで、なんとも言えぬ複雑な表情で頬の内側を噛むカイジに、しげるは口端を吊り上げる。
「どういたしまして」
そう、愉しそうに言うしげるの様子からは、鞄への未練が本当に、これっぽっちも感じられず、カイジは信じられない思いで深くため息をついた。
「は〜〜……お前って本当、物欲に乏しいよな……」
しみじみと吐き出されたのは、詠嘆のような、取るに足らない感想だった。
だが、聞き捨てならない言葉を耳にしたかのように、しげるは細い眉をぴくりと跳ね上げる。
この人……本気で言ってんのか?
今度はしげるの方が信じられないものを見るような目つきで、まじまじとカイジを見る。
「オレが……物欲に乏しいって……?」
しかし、カイジは手に入れた鞄を嬉々として眺めるのに夢中で、しげるの様子の変化にも気がついていないようだ。
ただただしげるの言葉を額面通りに受け取って、そこに含まれた見え見えの意図や感情にすら、感づくことができない。
しげるはやや呆れ、ふっと息を漏らすようにして笑った。
人が善すぎると言うべきか。
それとも、単に鈍感すぎるだけか。
「あんたの目には、オレのことがそんな風に見えてるんだな」
いずれにせよ、このままではちょっと隙がありすぎるな、と危ぶんだしげるは、大きく一歩、カイジに近づいた。
「んっ……?」
やや背伸びをして、ぐっと顔を寄せると、カイジはようやく鞄から顔を上げる。
真顔でじっと目を覗き込むと、たじろいだようによろよろとあとじさった。
「なっ……なんだよっ……?」
怯えたような声に構わず、さらに距離を縮めると、カイジが緊張に息を詰めるのがありありと感じられる。
その、まるく見開かれた大きな三白眼の瞳を、孔が穿てるくらいじっくりと眺めながら、しげるはちいさく口を開いた。
「ただデカいだけで、てんで節穴なんだな……」
「っ、は……?」
わけがわからない、といった風に呟くカイジの瞳には、光が入って硝子球のように透けるしげるの瞳のなかの、自分の姿だけが映っている。
まるで合わせ鏡のように、相手の瞳に映る互いの姿を見つめ合ったあと、しげるはあっさりとカイジから離れた。
無意識に止めていた息を大きく吐き出し、カイジは大袈裟に肩で息をしている。
「い、いきなりなんなんだお前っ……なんか、こっ……こえーよっ……」
青ざめた顔で声を震わせるカイジに、しげるはニヤリと笑った。
「オレが本当に欲しいものは、他にちゃんとあるんだぜ。鞄なんかより、ずっといいもの……」
「?」
「ま……いずれわかるさ……ふふ……」
含み笑いを漏らしながらひとりごちるしげるに、正体不明の不気味さを感じて怖気立ち、カイジは鳥肌の立った腕で、真新しい鞄を無意識にぎゅうと掻き抱いた。
終
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