あめあめふれふれ 七夕話




 行きつけの本屋の風除室に、見上げるほどの大きさの笹飾りがあって、色とりどりの短冊が、自動ドアの開閉に併せて微かに揺れている。
 それを見てカイジは、今日が七夕であることを初めて思い出した。
 なんとなく立ち止まって、飾りを見上げる。

『志望校に合格できますように』
『好きな人と両想いになれますように』
『チワワを飼えますように』
『世界が平和になりますように』

 短冊に書かれた願いは、実にバラエティーに富んでいる。
 笹飾りの横には小さな机が設置してあって、『ご自由にお書きください』という貼り紙と、白紙の短冊、それから油性ペンが置いてある。
 ふと、カイジは考えてみた。
 自分ならなにを書くだろうかと。
 金か。ギャンブルで勝つことか。
 どちらにしろ、しみったれた願いだ。ここに吊されている短冊のなかで、いちばん下らない願いであることは間違いなかった。
 そんな願いしか浮かんでこない自分に失笑して、カイジは本屋の中に入った。





 目当ての雑誌を買って外に出ると、先ほどから降り続いていた雨は土砂降りになっていた。当然、分厚い雲に覆われた空には星など出ていない。
 残念ながら、今年は織姫と彦星の逢瀬は叶わなさそうだ。

 開いた傘を叩く大粒の雨が、ひどい音をたてている。
 雨はあまり好きではなかった。洗濯物は乾かないし、外を歩けば服や靴は濡れる。気分もどことなく晴れない。
 明日はバイトなのだ。それまでに上がるだろうかと、黒い空を見あげてカイジはため息をついた。



 それでも、アパートの階段をのぼり、古ぼけた扉の前に立つころには、自然と表情が緩んでいた。
 鍵のかかっていないドアを開け、靴を脱いで部屋に上がると、灯りのついた居間に寝転んでいたアカギがカイジの方を見た。
「おかえり」
 体も起こさないまま、間延びしたような言葉が投げかけられる。
 素直に「ただいま」と返すのがなんだか気恥ずかしくて、カイジはちいさな声で「おう」とだけ答えた。
「なに買ってきたの」
「パチンコ雑誌」
 言いながら袋ごと雑誌を卓袱台の上に放り出せば、男はのそりと起き上がり、雑誌の入った袋をちらと見た。
 だがすぐに顔を上げると、胡座をかいて床に後ろ手をついたまま、「カイジさん」と呼んだ。
「なんだよ」
 ぼそりと返しても、アカギはなにも言わず、カイジの顔をただ見詰めている。
 その、緩く上がった口角と、促すような目つきにカイジは体を緊張させたが、ひどく照れくさくなるのを仏頂面で隠しながら、ゆっくりと卓袱台を回り込んでアカギの傍に立った。
 アカギは片手をカイジへと伸ばし、その腕を緩く引いて胡座をかいた自分の腿の上へ座らせる。
 向かい合ってその体を隙間なく抱き寄せ、アカギは低く喉を鳴らした。
「雨のにおい」
 湿り気を帯びた髪に顔を埋めるようにして、くぐもった声とともに吐き出された吐息がカイジの首筋を擽る。
 カイジはすこしだけ体を強張らせたあと、ゆるゆると息を吐いて力を緩めた。

 アカギは数日前、傘も持たずに雨に濡れ、カイジの部屋の前に立っていた。
「降られちまった。泊めてよ」
 バイトから帰ってきたカイジの顔を見るなり、アカギは笑ってそう言ったのだ。

 アカギの訪れは、いつだって唐突だ。
 そして、去っていくときも、同じくらい唐突なのだった。

「なぁー……」
「うん?」
「お前、いつまでここにいんの?」
 だらんと弛緩した声で、カイジは問いかけてみる。
 できるだけどうでもよさそうな、話のついでに聞いてみただけ、みたいな風を装ったつもりだ。
「ん……そうだね」
 すこし身じろいで、考え込んでいるようなアカギの声を、この至近距離で、カイジは耳をそばだてるようにして聞いている。
「この雨、止むまでは世話になろうかな」
 具体的にいつまで、ではなく、アカギが寄越したのは、そんな、気まぐれな答えだった。
 カイジは目を伏せ、
「……そうか」
 と呟く。

 雨はあまり好きではなかった。洗濯物は乾かないし、外を歩けば服や靴は濡れる。気分もどことなく晴れない。
 明日はバイトなのだ。それまでに上がってほしい、というのが本音だ。
 だけど、それでも。
 雨が降る間、こいつがここにいるというなら。

『この雨がしばらくは止みませんように』

 ふと頭に浮かんだ言葉に、カイジは苦笑した。
 本屋で目にした笹飾りに、そんな願い事を書いて吊せば、きっと悪ふざけだと思われるだろう。
 なにせこの雨のせいで、七夕は台無しなのだから。
 一年に一度の逢瀬を雨に邪魔された夫婦だって、こんな願い事を見たら怒り狂うだろう。
 だから、この願いは心の中だけで留めておくことにしようと、カイジは思った。

「……なにひとりで笑ってるの。気色悪いよ」
 アカギがついた悪態に、
「うるせぇよ」
 と返し、カイジはアカギをきつくきつく抱き締めた。
 天井を叩く雨音に、『もっともっと降れ』と願いながら。




 

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