金魚すくい しげる視点



 ペンキがあちこち剥げ、薄汚れたような水色の、小さな四角いプールみたいな水槽。
 その中で、ひらひらと尾鰭を翻し、泳ぐ鮮やかな金魚たちを、立ったままじっと見つめていた。

 水の外の音に反応しては、せわしなく動き回る、赤や黒の和金や出目金。
 その中に一匹だけ、更紗模様の金魚がいた。
 他の金魚に比べて明らかにでかい体をしたそいつは、隅の方で窮屈そうにじっと沈んだまま、動かない。
 白地に赤の斑が入った、三角形の大きな尾鰭が、ゆらゆらと揺れている。

「気になるかい?」
 顔を上げると、水槽の向こうに座っている的屋がこちらを見ていた。
 オレが見ていた更紗の金魚を指さし、男は口角を上げる。

「こいつ、デカいだろ? もとは他のチビ達と同じくらいの大きさだったんだけど、なぜだかこいつだけ、いつの間にかこんなに大きく育っちまったんだって、金魚売りの親爺が言ってたぜ」

 男はそう言って、じっと更紗金魚を見る。
 やわらかい眼差しだった。

 祭り囃子が遠く、後ろの方から聞こえる。
 素人考えでも、こんな外れた場所で金魚すくいの屋台なんて出して、儲かるはずがないことだけはわかる。
 場所争いに負けたのだろうかと思ったが、男自身に商売っ気がまったく感じられないため、敢えて自らこんな場所に露店を出しているのかとさえ思えてくる。

 更紗を見るときの目つきといい、金魚を売り物にしているのではなく、まるで自慢のペットとしてお披露目しているかのようだった。
 他の的屋と違い、ガツガツとした荒々しさもない。
 とかく、祭りの空気には馴染まない、異様な雰囲気の男だった。



「そんなにこいつが気に入ったなら、やってみるかい?」
 男がそう言って、ポイを差し出してくる。
 黙ったまま水槽の前にしゃがみ、ポケットから百円取り出して男に渡す。
 それと交換にポイを受け取り、濃い青色の持ち手を握った。

 金魚すくいなど、したことがなかった。
 薄紙を水槽の上にかざすと、向こうに水色が透けて見える。
 こんなに薄い紙で、あんなにでかい更紗をすくえるのだろうか?
 怪しく思ったが、とりあえず握り締めたポイを斜めに傾け、更紗の近くにそっと入水させる。
 ゆっくりポイを近づけると、更紗はわずかに身じろぎするように体を動かしたが、真ん丸な目にポイの青色を映しながらも、その場からは一ミリも動こうとしない。
 どっしりと重そうな体の下にポイを潜らせ、静かに引き上げる。
 が、案の定というべきか、薄紙は更紗の重みに耐えきれずに大きく破れ、丸い枠にだらりと垂れ下がって水を滴らせていた。
「残念」
 男がにこやかにそう告げた。
「もっかい、チャレンジしてみるかい?」
 オレはポケットを探り、今度は五百円玉を男に突き出した。

 それから、ほかの金魚には目もくれず、手を変え品を変え、色々なアプローチで更紗金魚に挑んだけれど、どうしてもすくうことができなかった。
 壁際に追い詰めて、薄紙ではなく枠の部分を使ってすくおうとしても、更紗はほんのすこし身を捩っただけで、まるで手品のようにするりと抜け出してしまう。
 そしてまた水の底に沈み、何事もなかったかのように平然と、ゆらゆら揺れているのだ。

「頑張るねぇ、兄ちゃん」
 三枚目の五百円玉を押しつけると、男はさすがに驚いたような顔をしつつも、すぐにポイを差し出してきた。
 それを受け取り、再び更紗に挑もうとした時、すこし離れた場所からオレを呼ぶ声が聞こえた。
 声のした方を見ると、両手にかき氷を持ったカイジさんが、こっちに近づいてくるのが見えた。

「こんなとこにいたのかよ」
 オレの傍にきて、カイジさんは水槽を見下ろす。
「へー……お前、金魚すくいなんかやってんの?」
 意外そうにぱちぱちと瞬きしてから、俺の隣にしゃがみこんだ。
 次はどう攻めようかと更紗をじっと睨んでいると、カイジさんが俺の目線を追って、言った。
「お前まさか、このデカイの狙ってんのか? ……こりゃ無理だろ。タモでもない限り」
 呆れ声を無視して、ポイを沈める。
 今度は、更紗模様の体の下でしばらくじっと待ってから、ゆるゆると引き上げてみる。
 が、やはり上手くいかず、手中には破れたポイだけが残った。
「な、無理だろ? だいたいお前、ヘンに力入れて持ちすぎなんだよ」
 そう言って、カイジさんは持っているかき氷を、倒れないよう慎重に、傍らに置く。
 それから、ポイを握り締めるオレの右手に触れ、強く握った拳をほどくようにして持ち方を直していった。
 氷に触れていたカイジさんの手は冷たく、湿っていた。
 自然、体どうしが近くなって、カイジさんの左膝とオレの右膝がほんのすこし触れ合う。
「……ほら、この方が持ちやすいだろ?」
 オレの手から手を離し、カイジさんは満足そうに呟く。
 確かに、こっちの持ち方の方が、無駄な力が入らなくていい。
 素直に感心していると、突然、的屋が笑い声を上げた。
「兄ちゃんたち、兄弟かい? 仲、いいんだね」
 そう言って、男はクスクス笑う。
「はぁ……まぁ、そんなとこです……」
 オレとの関係をどう説明しようかと迷った挙句、カイジさんは男の想像に任せることにしたらしい。

 オレとカイジさんの関係は、確かに言葉では表現しがたいほど曖昧模糊としている。
 兄弟、では、もちろんない。友人、と呼べるかどうかも怪しいし、かといって、知人、としては近すぎる。
 まして、恋人、なんて。
 地球がひっくり返っても、そんな風に言える関係では、到底なかった。

 濁すようなカイジさんの物言いは、そんなオレたちそのものを表しているようで、オレは俯き、破れたポイを男に手渡した。
 ポケットを探ったが、もともとジャラジャラと小銭を持ち歩くのが好きではないため、もう手持ちは札しか残っていなかった。
 しかも、万札ばかり。
 軽く舌打ちしたが、構わず的屋にそれを突き出すと、男はぽかんとしたあと、ぽりぽりと頬を掻いて苦笑した。
「おい、しげるっ……! お前、なに万札出してんだっ……! まさか、こいつを掬えるまでやる気なのかよっ……!」
 隣で慌てているカイジさんを無視して、オレは男を目で促す。
 だが、男は唇の端をぐっと下げ、目を剥いておどけてみせた。
「挑戦させてやりてえのは山々だが……ご覧の通り客足もまばらな店でね。釣銭がねえんだ。申しわけねぇが、」
「釣りなんていらない。手持ちの金が尽きるまで、やる」
「しげるっ……!」
 カイジさんの曖昧な口調に苛立ったからか、『兄弟』と見られたことが癪に触ったのか。
 なにが原因かはわからないけれど、とにかくオレは、ムキになっていた。
 この更紗を、狭い水槽からすくわなければ、どうしても気が済まない。
 妙な使命感のようなものに駆られるオレの顔を、カイジさんが狼狽えたようにのぞき込んでいる。

 男はオレを真面目な顔でじっと見ていたが、ふっと笑って首を横に振った。
「いや……駄目だ。こっちも、一応ちゃんとした商売してるつもりだから、釣りを渡さないって訳にゃいかねえよ。それに、ポイだってもう数が残ってねえんだ。本当に残念だが、諦めてくれ」
 そう言って、男は自分の足元からタモを取り上げ、水槽に沈めた。
 ポイとは比べ物にならないほどの質量に、水面が大きく揺れ、小さな金魚たちが一斉に身を翻す。
 俄に騒々しくなる水の中で、相変わらず微動だにしない更紗に、男はすっとタモを近づけ、やさしく労るように、そっとすくい上げた。
 オレがあれだけ躍起になってもすくえなかった更紗は、男の手でおとなしくすくい上げられ、水面から引き上げられてもびちびちと跳ねたりせず、上になった左目でただじっと天を仰ぎ、静かにエラを開閉させていた。
 男はすぐさま、すくった金魚を入れるアルミの器を水槽につっこみ、ビニール袋の中に注ぐ。
 そして、水でたっぷりと満たしたその中に、タモをそっと沈めた。
 それでも更紗はしばらく、網の中でじっとしていたが、やがて思い出したかのように、ひらり、と尾鰭で水を一掻きし、水の底に潜っていった。
 それを確認して、男はタモを袋から抜き、口についている細くて赤い紐をきゅっと引き絞って、オレの眼前に差し出した。
「こいつ、うちの稼ぎ頭だったけど、兄ちゃんがあんまりこいつに執心してくれてるみたいだからね。たくさんお金落としてもらったし、そのお礼だよ」
 袋の中の金魚を見る男の表情は、やはり穏やかだった。
 目許に刻まれた皺が、別れを惜しんでいるようにも見える。
 黙って手を伸ばし、袋を受け取ると、男はそっと手を離した。
 細いビニール紐には男の手のぬくみがまだ残っていて、水底に辿りついた更紗金魚はやはり、その場でただ、ゆらゆら揺れていた。
 水槽に入れられたポンプが、ごぼりと大きな音をたてて空気を吐き出した。







 闇を照らす提灯の、ぼんやりとしたオレンジ色の灯りのもと、カイジさんと帰路を歩く。
「結局、かき氷と金魚すくいだけか? お前が来たいって言うから、連れてきてやったのに」
 なんて、カイジさんは不服そうに言いながら、ストローの先を切って広げたスプーンで、ちまちまと赤い氷を掬っては食べている。
 そんな風に言っているけど、かき氷はカイジさんが勝手に買ってきただけだから、実質オレが自主的にやったのは、金魚すくいだけだ。

「だいぶ、溶けちまってるし」
 カイジさんの言う通り、オレの手の中にあるかき氷も、半分溶けてレモン水みたいになってしまっていた。
「あんなに金魚掬いに夢中になるなんて、可愛いとこあるじゃん、お前」
 可愛いなんて言われたって、ちっとも嬉しくないのに、カイジさんはオレの心中なんてぜんぜん知ろうともしないで、笑う。
 冷たくて甘いものを食べているカイジさんは、機嫌がいい。
 喋るたびに覗く舌が、赤く染まっている。

 文句を言いかけて口を噤み、結局オレはなにも言わずに、食べたくもないかき氷を掬って、口へ運ぶ。
 レモン味をうたっているくせに、ただひたすら甘いだけで、ぜんぜんレモンって感じがしない。
 べたべたと口中がはりつく心地がして、余計に喉が渇いた。



 ふたりとも無言で歩くと、祭りの喧騒がどんどん後ろへ遠のいていく。
 氷を掬う小さな音と、不揃いな足音。
 聞くともなしにそれを聞きながら、オレは目線を上に向ける。
 祭りの中心部からかなり外れたこの場所にも、きちんと提灯が等間隔にぶら下げられていて、普段通る道とは違う、祭り特有の浮ついたような空気を醸し出している。
 時折すれ違う人は大半が浴衣姿で、逸る気持ちを押さえきれないといったような笑顔を浮かべ、祭り囃子の聞こえる方へと足早に歩いていく。




 カイジさんちの近所で夜祭りがあるって聞いて、連れていって欲しいとせがんだのは、べつに生まれて初めて見る祭りに興味をそそられたからじゃない。
 人混みもうるさい場所も、あまり好きではないし、こんな蒸し暑い夜に外を歩くのも、本当は嫌だった。
 じゃあなぜ、と問われれば、強いていうなら、カイジさんと一緒に、初めてのことをしてみたかったからだ。

 カイジさんと出会ってから、オレはいろんな『初めて』を経験した。
 初めて自転車のふたり乗りをした。初めて日用品の買いつけというものをした。料理の手伝いをさせられて、自分の手で作った料理を初めて食べた。

 そういう『初めて』が、いつの間にかオレの中に堆く積み上がっていて、近頃はそれが一体どこまで重なるのか、それとも、いつか崩れる日が来るのか、試してみたいような気分になっているのだ。
 だから今日は、初めてオレから、祭りに連れていってとねだってみた。
『初めて』のことを、カイジさんと一緒にしたいって思ったからだ。

 だから本当は、祭りそのものにはすこしも心が動かなくて、派手派手しい灯りも、なんだか妙に色あせて見えた。
 周りの景色が色あせている分、色つきのものがやたらと目に映えて、オレは氷を食べるカイジさんの赤い舌を、つくづく眺めてしまう。

『いつの間にかこんなに、大きく育っちまったんだ』

 唐突に、的屋の言葉が胸をよぎった。
 足を止め、手首にぶら下げたビニール袋に目を落とす。
 水槽よりもさらに狭くなった水の中で、更紗金魚はやはり、死んだように動かない。
「どうした?」
 オレが立ち止まったことに気づいたカイジさんが、少し先で振り返る。

 なにも知らない、暢気そうなその顔。
 オレがなにを考えてるかなんて、ついぞ想像したことなんてなさそうな、無防備な表情。

 口を開こうとした瞬間、遠くの方からチャイムの音が聞こえた。
 くぐもったアナウンスの声に耳を済ますと、どうやら、この後の花火大会の案内らしい。
「花火か。どうする? 見に行ってみるか?」
 尋ねてくるカイジさんに、オレはビニール袋を見つめたまま、さっき言いかけた言葉を口に出した。

「行きたい場所、あるんだけど」







 薄暗い川原には、オレとカイジさん以外、誰もいなかった。
「花火が上がるのは、真逆の方向だぞ?」
 戸惑っているようなカイジさんの声に、わかってる、とだけ答え、オレは砂利を踏みしめてどんどん川に近づく。
「おい、待てよ……! あんまりそっち行くと、危ねえぞっ……!」
 慌てた声が追っかけてくるのを聞きながらオレは水際まで歩いた。

 電灯もなく、祭りの灯りも届かないここでは、川の水面は黒く、ぬめぬめと光っているように見える。
 小さな川だが、対岸は闇に沈んで見えない。

 息を切らせたカイジさんが隣に来るのを待って、オレはその場にしゃがみこんだ。
 なにをするのかと、屈んでオレを注視するカイジさんの目の前で、手首に下げたビニール袋を、川の流れに浸す。
 ひんやりと冷たい水で手が濡れて、塞き止められた流れがオレの手の周りでぶわりと膨らむ。
 赤い紐を緩め、水の中でビニール袋の口を開くと、カイジさんが驚いたような声を上げた。
「お前っ、なにして……っ!?」
 カイジさんが言い終わる前に、オレは袋の底を持ち、黒い川の中に更紗金魚を放した。
 袋を引き上げると、川の流れに尾鰭を揺らされながら、金魚はしばらく、その場にじっと留まっていた。
 急に広い場所へ移され、戸惑っているようにも見えた。

 三十秒ほどそうしたあと、大きな尾鰭をゆらりと動かし、金魚はゆっくりと岸から離れていった。
 闇の中、体の白い部分が描く更紗の泳ぐ軌跡が、やたらと目に焼きつく。
 さっきまで、窮屈な水底で固まっていた金魚と同じ生き物だとは思えないほど、生き生きと伸びやかな泳ぎだった。
 オレとカイジさんは暫し無言で、優雅に游ぎ去っていく小さな魚を見送った。





「せっかく貰ったのに……なんで逃がしちまうんだよ?」
 金魚の姿が完全に見えなくなったあと、カイジさんがそう、ぽつりと呟いた。
 その口調には、俺を責めるような響きはなく、ただ純粋に、疑問を口にしたようだった。
「あんな弱そうな金魚なんか、すぐに死んじまうかもしれねえぞ」
 
 カイジさんにはわかるまい。
 たとえすぐ死んじまったって、あの金魚には、ああしてやるのがいちばん良かったんだ。

 オレたちの後ろ、遥か遠くの方で、大太鼓を思い切り叩いたような、腹の底に響く音が上がった。
 音のする方の空を見上げると、夜空がチカチカと照らされている。
「始まったのか……」
 同じ空を見上げながら、カイジさんがぽつりと漏らす。
 ここからでは見えない花火をなんとか見ようと苦心しているような、邪気のない横顔をただ、見つめていた。

 どうして、いつの間に。
 こんなにも大きく育ってしまったのだろうか。

 ぬるい風が、オレとカイジさんの間を吹き過ぎていく。

 オレは静かに目を閉じる。
 瞼の裏に白い残像が、まだくっきりと閃いている。
 更紗金魚を見る時の、的屋の男の柔らかい眼差しがふっと心をよぎった。

 大きくなりすぎちまったものは、窮屈な場所に閉じ込めてないで、すくって、放してやらなきゃならない。

 ゆっくりと瞼を上げ、無心に空を見上げる横顔に、声をかけた。


「あのね、カイジさん」








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