ツキとキス・1 バカ話 メルヘン



 一度目は、単なる事故だった。

 寝坊して、バイトに遅刻しそうになっていたカイジが、時計を見ながらバタバタと部屋中を走り回っていて、先に起き出していたアカギに、思い切りぶつかってしまったのが原因だった。

 勢い余って、カイジはアカギもろとも床の上に倒れ込む。
 全身を襲った衝撃に呻くカイジの唇に、すべすべとやわらかい感触のなにかが、ふに、と当たっていた。
 五センチもないくらいの至近距離で、軽く見開かれている淡い瞳に、遅ればせながら状況を把握すると、カイジは跳ね起きる勢いでアカギの体の上から退いた。
「あ……わ、悪い」
「……いや、」
 首を横に振りながら、アカギは静かに体を起こす。
 その顔を見て、カイジはちいさく声を上げた。
「ちょっ……お前、血! 血出てんぞ!」
 動転したような声に眉を寄せ、アカギは唇の端を触る。
 そこにぷくりと膨らんだ血を指で拭いつつ、カイジの顔を見てぼそりと言った。
「……あんたもね」
「えっ!?」
 慌てて唇を指でなぞれば、なるほど、下唇のちょうど真ん中辺りに、濡れた感触がある。
 指についた赤い血を見ていると、思い出したかのように、切れた箇所がじんじんと痛み出した。
 恐らく……というか確実に、互いの歯がぶつかったことによる損傷であることに間違いないだろう。

「だ、大丈夫かよ?」
 カイジが問うと、アカギは首を縦に振る。
「あんたこそ……大丈夫?」
 珍しく気遣うようなアカギの言葉に、カイジは面食らいつつも、明るい声で答える。
「お……おう。これくらい、どうってことねえ……」
「そうじゃなくて……時間」
 アカギの短い言葉にはっとして、カイジは時計を見る。
 今すぐに出て全力疾走しても、間に合うかどうかの瀬戸際だった。
「やっべ……!!」
 急いで立ち上がり、取るものも取りあえず玄関に向かう。
 スニーカーの踵を潰しながら、部屋の奥にいるアカギに向かって呼びかける。
「鍵、いつもの場所にあるから! オレがいないうちに出てくんなら、忘れずにかけて、ポストに入れとけよー!」
 そして、返事を待たずに外へと飛び出した。

 全速力で走りながら、カイジはさっきのアクシデントを思い出す。
(当たった……よな? 唇……)
 痛みとともに残る、やわらかい感触を反芻して、カイジの腕にざわざわと鳥肌がたった。

 キス……しちまった。
 男と。それもアカギと。

 テンションがただ下がりになり、駆ける足まで鈍りかけたところで、カイジはいやいや、と思い直す。

(そう、あれは不幸な事故っ……! いわば、不可抗力っ……! 犬にでも噛まれたと思って、忘れちまえ……! 一刻も早くっ……!!)

 アカギに対してかなり失礼な思考だが、ともかくそんな風に自分を励ましつつ、カイジは鉄の味の滲む下唇を舐め、足を速めた。


 その日はカイジの努力虚しく、結局遅刻して店長から大目玉を食う羽目になったわけだが、肝心なのは、その後の話。


 翌日、バイトが休みだったカイジは朝から競馬場へ行った。
 どうせいつもみたいに負けるだろう、と半ば諦めつつも、わずかな期待を棄てられないまま、馬券を買った。

 すると、珍しいことに、その日カイジは近年まれに見る大勝ちを果たしたのだ。
 勝った金を元手に次のレースの馬券を買えば、面白いほど次から次へと的中する。
 まるで、自分がレースを操っているかのようで、はじめこそ興奮したカイジだったが、その日の最終レースが終わる頃には、あまりのツキっぷりに不気味すら感じたほどだった。

 結局、その日は行われたレースすべてでカイジは勝ち、持ち金は三十倍にまで膨れ上がった。
 札で膨らんではち切れそうな財布を見つめながら、帰りにスリに遭うとか、財布をなくすとかいうオチが待ち受けているのではないかと危ぶんだが、そんな不幸な出来事もなく、カイジは無事勝ち金を持ち帰り、ひさしぶりに居酒屋で好きなものを好きなだけ頼み、豪遊することができた。




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