坂道
じゃがいもと玉ねぎ、にんじんを、無造作に買い物かごに投げ入れるカイジの手許を覗き込んで、
「カレー?」
と、隣にいたしげるが問いかけた。
「いや。今晩は肉じゃが」
「ふうん、」
自分から訊いてきたくせに、しげるは大して興味がなさそうな顔で、そう返事した。
目の前に並んだ野菜たちをぼんやりと眺めるしげるを横目で一瞥してから、カイジはすぐに目線を戻す。
いつまで、こんな風に過ごしていられるのだろう。
存在自体が奇跡のようなこの少年と出会い、ともに過ごすようになって、約半年。
類い希な博打の才を持ち、誰に頼ることもない生き方を貫いてきたしげるが、なぜ自分と共にいるのか、カイジにはわからなかった。
わからなかったから、一度、馬鹿正直に、なぜ自分といるのか、と訊いたことがある。
すると、しげるはしばらく考えたあと、
『さぁ……わからない。居心地がいいから、かな』
と答えた。
カイジはしげると過ごす時間が好きだった。
だけど、しげるにとってはどうなのか、カイジにはわからなかった。
『居心地がいい』ということは、しげるのような生き方をする人間にとって、必ずしもいいことではないようにカイジには思われたからだ。
しげるが時折見せる、遠くを見るような瞳が、本当はこんなところにいるべきではないと訴えているように見えた。
自分とこうして、生ぬるい日常を重ねていくことが、真綿で首を絞めるようにじわじわとしげるの生き方を殺していくような気がしていたし、同時にまた、しげる自身がそのことを感じ取っていないはずもないとも思っていた。
出会った頃から、カイジは確信していた。
別れの日は必ず来ると。
しげるの行動はいつも気まぐれだ。
もしかすると明日、急に姿を消すかもわからない。
いつ、それが来てもいいように、その時に激しく動揺したり、ましてや、みっともなく泣いたりしてしまわないように、ずいぶん前からカイジは覚悟を決めていた。
自動ドアを出て、帰り道を並んで歩く。
外は暑かった。蝉しぐれが四方八方から降ってくる。
「あっちぃな……」
カイジはため息をつき、うんざりした顔で目の前の坂道を睨んだ。
今しがた買い物を済ませたスーパーマーケットは、カイジのうちから歩いて五分のところにある。
小さくて品揃えもよくないが、その分ほとんどの品物が、他の店よりも安く買える。
あまり凝った料理をするわけでもないカイジにとっては、こういう店の存在は有難く、大抵の食料品はここで購入していた。
ただ、唯一のデメリットは、帰りに重い荷物を持ったまま、結構な傾斜の坂をのぼって帰らなくてはならないということである。
片手に提げた袋をがさがさ言わせながら、カイジは黙々と坂をのぼる。
すこし歩いただけで息が上がる。うだるような暑さ、とはまさにこういう日のためにある言葉だ。
額に滲む汗を手の甲で拭いながら隣を見ると、どういう体の構造をしているのか、しげるは汗ひとつかかず、平然とした顔で歩いている。
その横顔を見ていると、暑さが一層増した気がして、カイジは目を逸らして陽炎の揺れる坂道を見た。
気を紛らわすため、口を開く。
「この世には、」
「ん?」
ぜえぜえと息をつきながら喋り始めたカイジに、しげるが答える。
「この世には……上り坂と下り坂、どっちが多くあるか、お前、知ってるか?」
息を切らせながらの辛そうな質問に、しげるは細い眉を上げた。
「なにを言ってるんだ。どっちが多いも少ないもない。同数に決まってるだろ」
「おおー……」
カイジは感嘆の声を上げ、迷いなく即答したしげるの顔を見る。
「お前、さすが、頭いいな。オレ……たしか、お前と、同じ……年の頃に、クラスメートか誰かから、この質問、されたけど……どっちが多いか、しばらく、本気で……、考えてたぞ……、」
荒い息の合間を縫ってのきれぎれの賞賛に、しげるはすこしも嬉しそうな表情をせず、呆れたような顔を見せた。
「カイジさんって、アホだよね」
「……失礼だぞ、お前、」
ひどく息が上がっているせいで、迫力のない声で嗜めつつ、カイジは足を動かし続ける。
顎の先からぽつり、と汗の滴が落ち、灼けたアスファルトの上に落ちる。
シャツの背中が、汗でぐっしょり濡れて肌に張り付く。
上り坂というものは、途中で立ち止まって休憩などせず、一気にのぼりきってしまう方がいい、というのがカイジの持論だった。
途中で立ち止まればどっと疲労感が襲ってくるし、残りの道のりをじっくり眺めると、うんざりしてしまうからだ。
だが、ちょうど坂の半分くらいまできたところで、しげるが急に立ち止まった。
「カイジさん、ギャンブルしようか」
うるさい蝉の声の中で、静かなその声はやたらはっきりと響き、カイジの耳に届いた。
「……え?」
動かし続けていた足を止め、カイジはしげるの顔を見る。
しげるは頬に曖昧な微笑をのぼらせ、カイジを見ていた。
その表情に、カイジは息を飲んだ。
しげるが、今までも時折見たことのある、どこか遠くを見るような目をしていたからだ。
喉が張り付いたように言葉が出なくなり、カイジがひたすらしげるの顔を見つめていると、その視線から逃れるように、しげるは軽く目を伏せた。
それから、くるりと踵を返すと、カイジの背後に回り、背中合わせで立つ。
「……お互い、今から逆方向に向かって、まっすぐ歩く。相手のことが気になって、我慢できず先に振り返っちまった方が、負け」
淡々としたしげるの声を聞きながら、カイジはまだ一言も言葉を発せないでいた。
言うべきことが、言いたいことが、あるはずなのに。それらは言葉にする前に、すべて消え失せてしまう。
「負けた方は、勝った方のいうことをなんでもひとつ聞く。……どう?」
しげるの声を聞きながら、カイジは暴れる心臓をどうにか落ち着かせようとする。
予期していたはずだ。来たるべくして、この時が来ることを。
カイジは唇をわななかせ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……いいぜ」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
軽く喉を鳴らしてしげるが笑うのと同時に、カイジの背中に、わずかな重みがかかった。
「ぜったいに振り返るなよ、カイジさん」
背中から伝わるのは、子供の体温。
やわらかい髪が、首筋を擽る。
しげるがカイジの背中に背中を預けていたのはほんの一瞬で、そのあと、しげるはすぐに離れていった。
アスファルトを踏んで坂を下る足音が、遠ざかっていく。
だが、カイジは振り返らなかった。
唇を噛み、足音が完全に聞こえなくなるまで、目の前で立ちのぼる陽炎を見続けた。
それから、微かに震える手で、買い物袋を固く握り直すと、坂の上を睨むように見て、歩き出した。
とっくの昔に覚悟を決めていたからか、涙は出なかったし、喪失感も思ったより大きくはなかった。
しげるがいなくなったあとも、カイジはなんら以前と変わりない日々を過ごした。
『ぜったいに振り返るなよ』としげるに言われたとおり、しげると過ごした日々を積極的に振り返ることは、しなかった。
そういう意図で、しげるはあの言葉を呟いたのだと、カイジは解釈していた。
日々の生活に埋もれ、記憶は徐々に薄くなっていく。
それでも、この坂道をのぼるときは、あの日のことを、必ず思い出した。
それだけは、どうしても止めることができなかった。
どんなに時間が経っても、思い出さずにはいられなかった。
右手に提げた買い物袋を、カイジはしっかりと握り直す。
今年の夏も暑い。靴の底が溶けそうなほど熱されたアスファルトの道を、カイジは歩き出した。
あれから、近所に新しくコンビニが出来たり、小さなクリーニング屋が潰れたり、ちょっとした変化はたくさんあったけれど、この坂はずっと変わらず、買い物終わりのカイジの前に立ちはだかり続けていた。
俯いてスニーカーの爪先を見ながら、カイジは黙々と歩く。
上り坂というものは、前を見るより下を見て歩いていた方が、気分的にずっと楽にのぼれる、というのが、ここ最近のカイジの持論だった。
額を流れる汗が、目に入って痛い。
手の甲で額を拭いながら、ひたすら苦行のように続く坂をのぼり続ける。
まだそんなに歳もとっていないはずだが、真夏のこの坂をのぼるのが、年々キツくなっている気がする。
全身汗みどろになりながら、情けなさにため息をつきつつ、カイジは重い足を動かした。
坂の、ちょうど半分までやってきたそのとき、
「カイジさん」
聞き慣れない声で後ろから名前を呼ばれ、カイジは足を止めた。
振り返り、そこにある姿に絶句した。
右手に提げた袋を、思わず取り落とす。
揺れる陽炎に、幻を見せられているのかと思った。
「しげ……る……」
ずっと前に別れたはずの少年が、そこにいた。
もちろん、あの時のままの姿ではない。
背丈は大きく、顔つきは精悍になり、着ている服も学生服ではなく、青いシャツとジーンズである。
記憶の中の少年と、重なるところはほとんどない。
だけど、カイジにはそれがしげるだとすぐにわかった。
俄には信じられず、汗で沁みる目をなんども擦り、目を眇めてその姿を凝視しているうちに、その青年はすいすいと坂をのぼり、カイジの隣に立つ。
並んで初めて、カイジは彼の背丈が、自分とさほど変わらないことに気がついた。
あの日と同じように、カイジが言葉を発せずにいると、シャープな面差しの青年は、くすりと笑って言った。
「あんたの負けだな」
予想もしなかった台詞に、カイジはぽかんと間抜け面を晒した。
青年はさらに笑みを深める。
「先に振り返っちまった方が、相手のいうことをなんでもひとつ聞く。そういうルールだっただろ?」
低い声で言われて、カイジは大きく目を見開いた。
「あの勝負、まだ続いてたのかよ!?」
ようやく絞り出した声は、あの時と同じように掠れていて、おまけに裏返っていてひどく聞き取り辛かったが、青年は気にしていないように話し続ける。
「あんたもオレも、降りるなんて言ってないはずだぜ?」
片頬を吊り上げる青年に、カイジは一瞬、ああ、そうだったと唇を噛みそうになったが、すんでのところで、はっ、と気がついた。
「いや、待て待て待て、騙されねえぞ……っ! お前はオレの背中に声をかけた。それってつまり、お前の方がオレより先に振り返ったってことだろ?」
青年は軽く目を見開き、驚いたような顔をつくってみせる。
「カイジさんが賢くなってる」
「……相変わらず失礼な奴だな、お前」
笑う青年をじろりと睨みつけているうちに、目の前がだんだん歪んできて、カイジは焦った。
あまりに不意の出来事すぎて、覚悟ができていなかった。
別れるときの覚悟はずっとしていたのに、再会したときの覚悟なんてのは、まるっきりしていなかったのだ。
「あらら……大丈夫?」
笑い混じりに声をかけられ、カイジは慌てて目を擦る。
「ちっ、違……! これは、目にゴミが入って……っ」
古典的すぎる誤魔化し方だが、別れのときには堪えられたはずの涙を青年に見られるのが、ひどく恥ずかしかったのだ。
くつくつと笑う声を聞きながら、カイジは大きく深呼吸をして、気持ちを整える。
それから、青年に向き直ると、買い物袋を拾い直し、ずいと突き出した。
「……なに?」
ぱちぱちと瞬きをして、眉を寄せる青年に、カイジは偉そうな顔で言う。
「荷物持ち。なんでもひとつ、言うこと聞くんだろ?」
青年は目を見開いたあと、可笑しそうに笑って、素直に買い物袋を受け取った。
その顔を見て、カイジもようやく表情を緩め、やさしい顔で青年に声をかけた。
「おかえり、しげる」
ふたりがこの坂道で別れた日から、ちょうど六年後の、夏の日のことだった。
終
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