オムレツ アカギが料理をする話 アカギがなんか変な人
午後十一時。
赤木しげるはぼんやりと、フローリングの床の上に立ち尽くしていた。
目の前では白い小さな冷蔵庫が、ぱかりと口を大きく開いて中身を覗かせている。
冷気にひんやりと頬を撫でられながら、アカギはほんのすこしだけ、途方に暮れていた。
「お前のことなんか、もう知らねぇっ……!!」
部屋の主である伊藤開司が、そう怒鳴って部屋を出て行ったのが二時間前。
玄関のドアが乱暴に閉められる音を聞きながら、ああ、怒らせちまったのかとアカギはそのとき、初めて気がついたのだった。
カイジが怒った理由は明らかだ。
今日、泊めてもらうという約束は、ずいぶん前からしてあった。
「メシは? どうする?」と訊かれ、その時は別段予定も入っていなかったし、「食う。なにか用意しといて」と頼んだ。
しかし、今日が来るまでの間に、アカギはその約束をすっかり忘れてしまい、代打ちを引き受けた組の祝宴に参加してしまったのだ。
アカギのことをいたく気に入ったらしく、上機嫌な組長の誘いを断るのは、気乗りしない宴会に出ることよりも数倍面倒くさそうだったので、仕方なく参加した。
結局、酒も料理も宛がわれた女も、可もなく不可もなく、といった感じで、退屈に辟易したアカギはなんのかのと理由をつけ早々にその場をあとにしたのだが、その後、カイジの家に向かい、玄関先で曇った顔の家主と対面して、やっと自分が夕飯を頼んでおいたことを思い出したのだった。
アカギがなにか言うより先に、カイジはすべてを察したようだった。
みるみるうちに怒りで顔が赤く染まり、鋭い三白眼をこれ以上ないくらいに吊り上げると、唾を吐くように先の台詞を吐き棄てて、そのまま出て行ってしまったのだ。
遠ざかっていく足音を、取り残されたアカギはしばらくの間、その場にただ突っ立って聞いていた。
追いかけようかとも思ったが、捕まえても下手なことを言って余計に怒らせてしまうような気がして、逡巡の末、やめておくことにした。
すこし考えたあと、靴を脱いで部屋に上がる。
居間へ行くと、卓袱台の上には料理の皿がいくつか用意してあって、それぞれにラップがかけられていた。
大根おろしの添えられた玉子焼き。白菜の漬物。
肉野菜炒めは、以前アカギが「うまい」と言ったことがある、もやしとニラがたくさんはいったものだ。
皿にかけられたラップは、どれも白く曇っていた。おそらくどれもできたてか、温め直したばかりなのだろう。
部屋を満たす料理の匂いに、アカギは小さくため息をついた。
実は、こういうことは初めてではない。
今までにも何度かこんなことがあって、その度にカイジはむっとした顔をしていたけれど、アカギに軽く文句を言うだけだった。
ビールを飲めば、たちどころに機嫌は回復したし、だからこそ、アカギはカイジがそんなに気にしていないものだとばかり思っていた。
カイジがこんなに怒ったのは今回が初めてで、だから、アカギは珍しく面食らっているのである。
たまたま虫の居所が悪かったのか。それとも、蓄積されてきた怒りが今日になって爆発したのか。
アカギには、さっぱりわからなかった。
だいたいアカギは、べつに手料理を作れと頼んでいるわけではない。出来合いのものだってアカギはまったく構わないのに、カイジはなぜか毎度、自分の作ったものを出してくるのだ。
「だってお前、普段どうせろくな食事とってないだろ」
カイジは決まってそう言った。
年中素寒貧のあんたよりは、よっぽどいいもの食ってると思うけど。アカギはいつも心の中でそう思っていた。決して口には出さなかったけれど。
自分に飯をふるまうときのカイジの様子を、アカギは思い出していた。
アカギが箸を取り、自分の作った飯を口に運ぶ、その最初の一口を、カイジは必ず、緊張した面持ちでじっと見詰めてくる。
一口目を咀嚼し、飲み込んで、べつの皿に箸を伸ばすと、カイジはほっとしたような、嬉しそうな顔をして、ようやく自分も箸を取るのだ。
なんど食事を共にしても、その癖は一向に直る気配を見せない。
他人が飯を食うのを見るのが、なぜそんなに緊張するのか。
そして、なぜそんなに嬉しそうな顔をするのか、アカギには心底不思議だった。
「お前は、人の気持ちってのを考えたことがあるのか?」
以前、カイジとの食事の約束を忘れて外で食べてきてしまったときに、低い声でそう言われたことがある。
考えたことは、もちろんある。博打、特に麻雀において、相手の心理を読むことは勝負の根幹を為す、重要で、もっとも面白い部分だ。
だがカイジが言いたいのはそういうことではない、ということくらいは流石のアカギにもわかっていたため、黙っていると、カイジは暗い顔でため息をつき、薄く笑った。
その、諦めきったみたいなどこか悲しい笑顔は、やけにアカギの心にひっかかり、その後しばらくの間、離れなかった。
カイジの気持ち。
確かに自分はあまり考えてみたことがなかったなと、アカギは思った。
自分はカイジを好きだし、それは行為を通じて、当然伝わっていると思っていた。
なにより、男同士だし、ベタベタとした愛情表現なんて、必要ないと思っていた。
だけど、カイジにとってはそうではなかったということなのだろうか。
恋人なのに、恋人だからこそ、アカギにはカイジの気持ちが、いくら考えてみても、やっぱりわからなかった。
ギャンブルをする相手の心を読むことは得意なのに、近しい間柄の人間となると、その気持ちを推し量るのが、極端に下手くそになるのだった。
ぼうっと立ち尽くしていたその足で、アカギは台所へ向かった。
ビールが数本と、じゃがいも、卵、味噌。それから、なぜかレトルトのカレーが一袋。
オレンジ色のランプが点灯する冷蔵庫の中身は、たったそれだけだった。今夜のおかずを作るのに、食材をほぼ使い切ったのだろう。
たちまち面倒臭さが襲ってきて、目の前の扉をすぐに閉めたくなる。
その衝動をぐっと堪え、じゃがいも一個と卵を二個取り出すと、アカギは冷蔵庫を閉じた。
以前、カイジが作ってくれた、ウインナーとじゃがいもの入ったオムレツ。
やむを得ずウインナー抜きだが、それなら自分でも作れそうな気がした。
キッチンカウンターに立って、辺りを見渡す。
この部屋には、もう両手で足りないくらい通っているのに、こうして台所をきちんと眺めるのは、初めてのことだった。
ガスコンロが一口。狭い流しと、小さな水切りかご。
台所、とも呼べないような狭い空間だったが、それなりにきちんと片付いているのは、普段料理をしないからか、それとも、意外に綺麗好きな性格のためか。
まな板と包丁を探し出し、じゃがいもの皮を剥く。
料理の経験は皆無に等しい。
最初のうちこそ、できるだけ薄く剥くように心がけていたが、だんだん面倒臭くなり、最後の方は実ごとそぎ落とす勢いで剥いていったため、皮を剥き終わると、じゃがいもはひどくいびつな形に成り果て、皮付きの時より一回りも小さくなってしまった。
構わず、カイジが作ったオムレツの記憶を辿りながら、いちょう切りにする。
三角コーナーに皮を捨て、水切りかごから取り出した適当な器に卵を割り入れ、解きほぐした。
すこし考えてから、切ったじゃがいもをその中に入れて、卵を絡める。
シンクの下の棚の中から、小さなフライパンを探し出す。
コンロの上には鍋が置いてあった。蓋を開けると、大根と油揚げの味噌汁が入っていた。きっとカイジはこれを、温め直して出すつもりだったのだろう。
鍋をコンロから下ろし、アカギはフライパンを置いた。
火を点け、サラダ油を垂らす。
まだフライパンが完全に熱されていないうちに、卵とじゃがいもを入れて、フライパンいっぱいに丸く広げる。
しばらく待つと、徐々に火が通って卵が白っぽく固まってきた。じゃがいもを箸で刺してみるが、うまく通らない。火が通るまで待っていようとしたが、焦げ臭い匂いがし始めたので、フライ返しを使って裏返す。
裏面はやはり、すこし焦げて黒くなってしまっていた。それからも、じゃがいもが柔らかくなるのをじっと待っていたが、なかなか火が通らない。
完成品から想像した作り方通りに作っているのに、うまくいかないことにアカギは内心舌打ちする。
そのうち、フライパンから白い煙が出始め、もう片方の面まで焦げ付きそうな気配がしてきたので、諦めて火を切った。
大きめの皿に、滑らせるようにして卵焼きを移す。
完成した卵焼きは、カイジが作ってくれたものとは似ても似つかない、焦げ茶色の、不格好な物体だった。
自分の才能のなさに、思わず苦笑が漏れる。だが、アカギはそれを居間へ運んだ。
卓袱台の上に置くと、その周りを取り囲むカイジが作った品々が、いかにマトモな『料理』であるかということがよくわかった。
アカギの作ったオムレツの異様な姿は、その中で明らかに浮いていた。
ラップをかけることもせず、不格好なオムレツを眺めながら、アカギはタバコを一本、吸った。
煙を吐くとき、知らずため息が漏れた。慣れないことをしたせいで、やたら肩が凝っていた。
記憶を辿る限り、ここまではっきりとした失敗をした経験は、今まで生きてきた人生の中で、一度もなかった。
短くなったタバコを灰皿に押し付け、時計を見る。
時刻は、十一時半を回っていた。
なんとなく、二本目を吸う気にはなれず、アカギはそれから、ただひたすら卓袱台の上を眺め続けていた。
焦げすぎたオムレツを見ながら、帰ってくるかどうかもわからない恋人を、じっと待ち続けた。
「……い、おい、起きろよ」
低い声が耳許を擽り、アカギはうっすらと目を開いた。
どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。
突っ伏していた顔を上げると、怒って出て行ったはずの家主の姿が、卓袱台を挟んだ向こう側にあった。
ぶすくれた表情。だがその中に、結局帰ってきてしまったことへのばつの悪さが、ほんのすこしだけ滲んでいる。
なにを言おうか迷った挙げ句、アカギが、
「……おかえり」
とだけ呟くと、カイジはさらにぶすっとした顔になった。
「お前……、他に言うことねえのかよ?」
「オムレツ、作ったよ」
即答するアカギに眉を寄せ、カイジは卓袱台のど真ん中に鎮座する、茶色い塊に目を落とす。
「カイジさんが前、作ってくれたオムレツ。ウインナー抜き、だけど」
絶句するカイジを余所に、「食べてみて」とアカギはカイジの方へ皿を押しやる。
アカギの顔とオムレツらしき物体を交互に見て、カイジは思いっきり嫌そうな顔をする。
が、アカギの視線の重圧に耐えきれず、結局、渋々ながらも緩慢な動作で箸を取った。
端を切り分け、恐る恐るといった様子で口へ運ぶ。
アカギはカイジの反応を、頬杖を突いてじっと見守っていた。
口に入れた瞬間、カイジは短く叫んだ。
「苦っ……! いや、予想はしてたけどっ……!! ていうか、なんで急にオムレツなんか……」
これ以上ないほどに顰められたカイジの顔を見て、アカギはふっと表情を和らげる。
「……お前、なに笑ってんだよ。バカにしてんのか?」
箸を置き、卓袱台の向こう側から今にも噛みついてきそうな剣幕のカイジに、アカギは目を細め、ゆっくりと口を開いた。
「考えてみようと思ったんだ、あんたの気持ち」
カイジの肩が、ぴくりと揺れた。
「大して好きでも、得意でもないだろう手料理なんか作って、あんたがどんな気持ちでいつも、この部屋でオレのこと待ってたのか」
カイジはアカギを見る。俯いた状態から目だけで見上げるようにしているせいか、その目はアカギを鋭く睨んでいるようにも見える。
その瞳を見返しながら、アカギは緩く首を横に振った。
「でも、結局わからなかった。冷蔵庫には碌なものがないし、卵は焦げるしじゃがいもは固いままだし、イライラしただけだった。あんたがオムレツ食べたときも、べつに嬉しいともなんとも思わなかったし、もしもあんたが今日帰ってこなかったとしても、このオムレツをゴミ箱にぶち込んで、部屋を出るだけだったと思う」
淡々と言い切って、アカギは苦く笑う。
「あんたと同じことしてみれば、わかると思ったんだけどな」
自嘲気味にそう言ってから、ふっ、と視線を上げると、カイジは目を見開いて、アカギの顔を凝視していた。
アカギは僅かに首を傾げる。
「どうしたの。変な顔して」
「……」
怒ったような、泣き出しそうな、なんともいえない複雑な表情でカイジは唇をぎゅっと引き結ぶと、ふたたび箸を取り、オムレツの切れ端を口に運んだ。
「まずい」
そう、一言でばっさりと切り捨てて、カイジは箸を動かし続ける。
「なんだこれ、じゃがいも生じゃねぇか」
文句を言いながら、口に放り込んだじゃがいもを咀嚼する。
カイジが口を動かすたび、しゃりしゃりと音が鳴った。
「ああ、それ。卵に混ぜて焼いたんだけど、うまく火が通らなかったんだ」
「当たり前だろっ……! オレはあらかじめレンジであっためて、やわらかくなったのを入れてんだよっ……!」
「そうだったんだ」
アカギは目を丸くする。
意外と手間がかかっていたのだということを、初めて知った。
「大体お前これ、塩コショウとかしたか?」
「あ」
「だと思ったよ。味がぜんぜんしねえじゃん」
呆れたようにため息をつきながら、カイジは箸で切り分けた大きな塊を口に入れる。
「卵は焦げてるし」
「……知ってるよ」
まずそうに卵焼きを食みながら、カイジはぶつくさと文句を言い続ける。
そんなにまずいなら食べなければいいのに、とアカギは思ったが、カイジは箸を止めない。
大きく口を開けて卵の塊を放り込み、口いっぱいのオムレツを噛み潰しながら、カイジはぽつりと漏らした。
「クソまずい……。なんだよ、これっ……!!」
その声は小さく、震えていた。
怒ったようにつり上がったカイジの瞳から、大粒の涙が溢れ、卓袱台の上にぼたぼたと落ちた。
急に泣き出したカイジに、アカギはなんども瞬きする。
「カイジさん」
泣くほどまずいのか、と聞こうとして、やめた。
カイジが泣いている理由は、もっとべつのところにある。
それが一体なんなのかはわからなかったけれど、両目から溢れる涙を拭うこともせず、また自分の作ったオムレツに箸を伸ばし、嗚咽に震える口で噛み締めるカイジの姿を見ていると、アカギの口から、自然に言葉がぽろりとこぼれ落ちた。
「ごめんね」
その言葉を聞いた瞬間、絶えず動いていたカイジの手が、ぴたりと止まった。
そして、みるみるうちにまた涙がぶわりと膨らみ、濁流みたいに流れ始める。
「んだよ……っ、い、今さらっ……!!」
しゃくり上げる息の切れ間に、カイジはアカギを責めた。
鼻水を啜りながら、真っ赤な顔をぐしゃぐしゃにして泣き続けるカイジの姿が、アカギの心にゆるやかな波紋を描く。
「ごめん」
アカギはもう一度、謝ってから、身を乗り出す。
伸ばした両手で、カイジの頬を包み込み、溢れ続ける涙を親指でそっと、拭った。
雫はあたたかくアカギの指を濡らし、腫れぼったくなった瞼で泣き続ける恋人を見ているうち、
「好きだよ、カイジさん」
普段言わない言葉がまた、口から滑り出た。
その口調のやわらかさに、アカギが自分で驚いていると、カイジも驚いたように真っ赤に充血した目を瞬かせたあと、また涙をたくさん流して、泣いた。
終
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