甘える



「こんばんは、カイジさん」


 安普請のアパートの玄関先。
 涼しげな顔でそう挨拶するアカギとは対照的に、部屋の主であるカイジは言葉を失い呆然と立ち尽くしていた。

 様子のおかしいカイジに、アカギも眉を寄せる。
「どうしたの? 変な顔して」
「お前……その怪我……」
 やっとのことで言葉を発したカイジに、「ああ、」と今思い出したかのような呟きを漏らすと、アカギは額からこめかみ、そして顎の先へと伝い落ちる赤黒い液体を無造作に手のひらで拭った。
「これ? ここへ来る前、ちょっとヘンなのに絡まれてね……でも、ぜんぜん、大したことない……」
「んなわけ、あるかっ……!!」
 淡々としたアカギの声を遮り、カイジが顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
 そして、アカギの顔をきっと睨みつけたままその腕を強く引っぱり、急いで部屋に上げた。
 アカギの歩いた後には道標みたいに点々と血痕が散ったが、必死の形相のカイジはそんなものに気がついていないようだった。



「カイジさん、なんか怒ってる?」
 リビングにつくなり、顔面に投げつけるようにして渡されたタオルで額を拭いながら、アカギは問いかける。
 しかし、仏頂面で岩のように押し黙ったカイジからの返事はなく、諦めたようにため息をついた。
「床、あとでちゃんと拭いとくから……」
 宥めるようにアカギが言うと、カイジはますます目を吊り上げた。
「お前……オレがなんに対してこんなに腹立ててるか、わかってねえだろ?」
 恨めしげにそう言われて、アカギは考える。
 カイジの言動から察するに、どうやら、『床を汚したから』という理由ではなさそうだ。
 そうなると、いくら頭を捻ろうともアカギにはカイジが怒っている理由がこれっぽっちも浮かんでこず、かといって素直に「さっぱりわからない」と発言するのも火に油を注ぐような気がして、結局しんと黙り込む他なかった。

 アカギが黙していると、カイジがさらに苛立ちを募らせた声で怒鳴った。

「どうしてお前はいつもいつも、『大したことない』なんて言うんだよっ……!! こんなに血ぃドバドバ出てんのに、大したことない訳ねぇだろうがっ……!!」

 言い切るのと同時に、大きく吊り上がった目の淵から大粒の涙がぼろりと溢れ出し、アカギはわずかに目を見開く。

 思い返せば、確かに怪我をするたび、カイジには『大したことない』『大丈夫』ばかり言っている気がする。しかしそれはオレの本心なのにと、アカギは心中で頭を掻いた。

 昔から、肉体的に痛い目に遭うことが多かった。
 そのせいか、大抵の『痛み』には体の方が慣れてしまって、鈍感になってしまっているのだ。
 だからこれくらいの怪我、アカギにとっては日常茶飯事で、本当に『大したことない』のである。
 むしろ、怪我をしていない筈のカイジがボロボロと涙を零すのを見て、ああ自分は今そんなにひどい怪我をしているのか、と初めて自覚するくらいなのだ。

 だがそんなことを言えばやっぱり火に油のような気がしたので、アカギがおとなしくしていると、カイジが無造作に引き出した脱脂綿になにやら液体を含ませ、手を伸ばしてアカギの額にある傷口を拭い始める。
 冷たく濡れた綿が傷に触った瞬間、ビリ、と膚が引きつるような痛みが走る。鼻を刺す刺激臭から、液体の正体がオキシドールであることがわかった。
 乱暴に額を拭われて流石にアカギも顔を顰めたが、カイジは手を止めない。

 あたかも、憤懣をぶつけているかのような手つきに舌打ちしたくなるが、相変わらず濁流のように溢れ続けている涙を見ると、なんとなくその気も削がれる。

 やがてカイジは、ずる、と鼻を啜り上げると、ふにゃふにゃした涙声でアカギに言った。
「なぁ……オレって頼りねえか?」
「え」
 思いがけない問いにアカギは驚いたが、涙に濡れた真摯な眼差しに射られ、そろそろと口を開く。
「そ……んな風に、思ったことないけど」
 たぶん。と、アカギが心の中でつけ加えるのと同時に、「だったらッ……!!」とカイジが叫んだ。

「だったら……っ、もっと甘えてこいよ……!! 『大したことない』なんて誤魔化さねえで、痛いなら痛いって言えばいいし、してほしいこととかも、ちゃんと言えっ……!
 頼りねえかもしれねえけど、一応オレは、お前より年上なんだからなっ……!!」

 一息でそこまで言って、肩で大きく息するカイジに、アカギはすこしぽかんとしたあと、くっくっと喉を鳴らして笑った。
「あんた、本当にお節介だな……」
「うるせえっ……! お前がそうさせてんだろうがっ……!」
 それにしたって、心の底から平気だ、心配などいらないと言っているにも関わらず、鬱陶しいほど手を差し伸べてくる泣きっ面のお人好しに、アカギは苦笑し、肩の力を抜いた。
「甘える……か……」
 自信ねえな、という呟きに、今度はカイジが目を丸くする。
 潤んだ目と目が合うと、アカギは肩を竦めた。

「オレはさ……物心ついた頃から、周りの大人に甘えたり、甘やかされた経験や、記憶がねえんだ。
 だから……なんていうのか、正しい甘え方ってのが、わかんねえんだよ、オレには」

 世間話をするような軽さで、アカギはそう言った……
 つもりだったが、話し終えた瞬間、カイジの目から止まりかけていた涙がまたどばっと溢れ出すのを見て、ぎょっとした顔になる。
 なんと声をかけようかとアカギが考えている間に、カイジは袖でぐいと目許を拭い、吐き捨てるように言った。
「甘え方なんてのに、正解はねえんだよ……っ!! お前の好きなように甘えていいんだっ……! そんなこともわかんねえなんて……っ……!」
 そこからは嗚咽になってしまったので、そのあとに続く言葉がなんなのかは不明だが、おそらく『不憫だ』とか『かわいそうだ』とか、そういう類の言葉が続いたのだろう。

 ぼうぼうと、それこそ子供のように泣き続けるカイジに、アカギは頬を掻いた。
「……ごめん」
「謝るなっ……! お前が悪いわけじゃ、ねえんだから……っ!」

 しゃくりあげながら、それでもカイジはきっぱりとアカギに言い放つ。
 涙で濡れた指の間から見つめてくる強い瞳を見返しながら、アカギは口を開いた。
「カイジさん」
 そして、今、唐突に、自分の中に芽生えた願望を、素直に言葉にして伝える。

「甘えてみたい」
「……え……」

 あまりにも突然すぎる要求に唖然とするカイジに、アカギは畳みかける。
「あんたに甘えてみたい。いい?」
「ん? あ、ああ……!」
 まさか正面切って『甘えたい』なんて言われると思っていなかったカイジは激しく動揺したが、それもどこかズレたところのあるアカギのやり方なのだと無理矢理自分を納得させ、真っ赤な顔でなんども頷いてみせた。
「いいぜ。来いよ……ほ、ほら……」
 引きつった笑みで精一杯『年上』の余裕を演出しつつ、ぎこちなく腕を広げるカイジに、アカギは頬を和らげる。
「それじゃあ……」
 と、呟くのと同時に、アカギはカイジにふわりと抱きついた。
 そのまま、ぎゅーーっと腕に力を込めてカイジの体を抱き締める。
 その力の強さにすこしだけ顔を顰めたあと、カイジは眉を下げた。
「っ……、そんなに強くしがみつかなくたって、オレはどこへも行かねえよ……」
 アカギはカイジの首筋に顔を埋めたまま、返事をしない。
 どこかすがりつくような必死さを感じさせる抱きしめ方と、伝わるアカギの低い体温に、カイジは穏やかな笑みを浮かべてため息をついた。
 なんだか妙な展開だが、今まで誰かに『甘える』ということを知らなかったアカギが、こうして素直に自分に甘えてきたってことに、カイジはなんだか無性に感動していた。
「ったく……図体ばっかりでかくって、まだまだガキだな、お前は」
 ぽんぽんと白い頭を軽く叩いてやわらかく言うと、やにわにアカギがぬっと顔を上げた。
 顔と顔が至近距離にあって、完全に油断しきっていたカイジは一瞬、息を詰める。
「……カイジさん」
 まるで夢見心地のような、ふわふわした口調でアカギはカイジの名を呼ぶ。
 そして、カイジの首後ろに腕を回してガッチリ固定すると、白い瞼を伏せてその唇に唇を寄せた。
「っわ……! ちょっ、アカ……んぅっ……」
 逃げる間もなく、口腔内に生ぬるい舌の侵入を許してしまったカイジは、無我夢中で抵抗して逃れようとするも、ちゅく、と水音をたてて舌を吸われたり歯列をなぞられたり頬の粘膜を舐めまわしたりされると、たちまち全身から力が抜けてなにがなんだかわからなくなってしまう。
 無意識に、正座した太股を擦り合わせていると、勘づかれたのか足の間にアカギの膝が割って入ってきて、中心を撫でさすられる。

「……あ、」
 ぴくん、と反応し、震える体をあやすように、アカギは長いことカイジから離れず、その舌を吸い、唾液を交換し続けた。



「ん、ふぁ……」
 舌を縺れさせながらようやくアカギが唇を離す頃には、興奮でお互い息が上がっていた。
 唇を繋ぐ細い糸が切れるのを見届けたあと、カイジは涙目でアカギを睨みつける。
「お、前……、卑怯だぞっ……!」
「卑怯……? なにが?」
 濡れたカイジの唇を親指で拭いながら、アカギはしれっと言う。
 うっそり笑うその顔を憎たらしげに見て、カイジは続けた。
「だって……あ、甘えるだけだって……」
 ぼそぼそと頼りなく尻窄みになっていく言葉に、アカギはわざとらしく眉を上げた。

「……言ったじゃねえか。正しい甘え方ってのが、オレにはわかんねえんだって。ない頭振り絞って考えた、これがオレなりの、あんたへの甘え方なんだよ」
 カイジの頬に、カッと怒りの色がさす。
「っざけろっ……!! てめぇっ……!!」
 いくらアカギに常識がなくったって、こんな『甘え方』はおかしいってことくらいわかっているはずだ。
 犬みたいに歯噛みするカイジに、アカギは片頬吊り上げてニヤリと笑う。

「甘え方に正解なんてねえんだろ? だったら、オレがどんな風に甘えても、受け入れてよ……」

 愉快そうに近づいてくるアカギに、ちくしょう初めからこれが狙いかと、カイジはアカギの思惑をようやく悟った。
 が、遅すぎた。

 背中を冷や汗が流れていくのを感じながら後じさるカイジに、悪魔のような笑みを見せ、アカギは無邪気に言い放った。

「思いっきり甘えるから、全身で受け止めてくれよ、カイジさん」






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