明日があるさ 赤木視点 暗め




 はっ、と気がつくと、見慣れない部屋にいた。

 卓袱台の上に山積みの空き缶。重たく澱んだ空気と、茶色く変色した壁。片付いているとも散らかっているとも言い難いような、微妙な雑多さの、見るからに安普請な狭い部屋。

 やれやれ、またか、と内心首を横に振る。
 とりあえず状況を把握しようと、記憶を辿るように目を眇めて辺りを見渡していると、
「どうしたんですか? 話の途中なのに、いきなり黙り込んだりして」
 ふいに隣から聞こえた声に、心臓が大きく脈打った。

 ひとりの男が、こちらをじっと見つめている。
 怪訝そうに寄せられた眉にも、吊り上がった目にも、その下にある傷にも、確かに見覚えがあった。
 が、名前がどうしても思い出せない。

 さて、困った。
 ひどく落ち着いた気持ちで、そんな風に思う。
 最近、こんな風にやたらめったら記憶が飛ぶから、今じゃすっかり慣れっこになってしまって、我ながら可笑しいほど冷静沈着でいられる。
 原因がわかっているから尚のこと、落ち着き払っていられるのだが、近ごろはそれすら忘れちまうことがままあって、そういうときはさすがに、ほんのすこしだけ、焦ったりもする。

 お前さん、誰だったかな。
 ずはりそう問いかけたいところだが、この男と自分がどういった関係だかわからない以上、不用意な発言は避けた方がいいだろう。
「悪い……。すこし、酔ったみてぇだ。……で、なんの話してたっけ?」
 さりげなく、今までなにを話していたか聞き出せるように、水を向ける。
 すると、男は呆れたように眉を上げた。
「……なんの話って……忘れたのかよ? もしかしてあんた、相当酔っぱらってる?」
 男は物珍しげな顔で俺を覗き込む。
 男もまた酔っているのか、目の縁が赤い。
 泣きべそをかいて思いきり擦ったあとみたいなそれが、強烈に心に引っかかって、記憶の蓋が開きかける。
 もうすこしで思い出せる、喉元までその名前が出かかっているのに、いまひとつ決定打に欠けるせいで、記憶の尾が掴めない。
 微かな歯痒さを押し殺しつつ、「まぁな」と答えれば、男は拗ねたように唇を尖らせた。
 それから、缶ビールをぐっと煽り、口を開く。
「だから……オレがくだらないこと喋ってたら、あんたが珍しく、お説教めいたこと言い始めたんじゃないですか……
『明日があるなんて、思い込んでちゃいけねえぞ、カイジ』とかなんとか……」

 カイジ。
 男の声が紡いだ男自身の名前が、記憶の蓋を剥いだ。
 男に関する大量の情報がぶわりと溢れ出すのとともに、ピンぼけしていたような感覚がなくなり、男の姿がはっきりと定まる。

 そう。そうだった。
 俺は今日、なんの連絡もなしにこいつのうちを訪ね、部屋に上がりこんで呆れ顔のこいつと酒を酌み交わしていたのだ。
 どうでもいいような話の流れで、今日も今日とてギャンブルに負けたらしいカイジが、軽い調子で『明日は必ず勝つ』なんて言ってたのが、数分前の俺の心に引っかかったらしい。
 それで、カイジ曰く『お説教めいたこと』を口にしたわけだが、それにしても、数分前の自分のこととはいえ、こいつ相手にそんなことを口にするなんざ、呆れた話だ。
 知らず知らずのうちに、言動がもう、老い先短い老人めいちまってる。

 可笑しなもんだと喉を鳴らして自分自身に苦笑すれば、その笑みをどう捉えたのか、カイジがますますむくれた顔になる。
「……あんた、オレに、なんか隠し事してるだろ?」
 ぼそりと、独り言のように呟かれた声に、おや、と思う。
 普段からたびたびそう思っていたが、こいつはぼんやりしているようで、なかなか鋭いところがある。
「あんた最近、なんかおかしいもん」
……『もん』ってなんだ『もん』って。いい年した大人の男が、『もん』とか言うな。
 小学生みたいな拗ね方が可愛くて、ついその頭に手が伸びる。
 黒い頭の上にぽん、と手を置いて、そのままぐりぐりと撫で回してやると、迷惑そうな顔で「やめて下さいよ」と言いながら、俺の手から逃れようとする。
 だけどそれが本音じゃないことは、表情を見れば丸わかりだった。
「なんだ、ばれてたのか。じゃあ仕方ない」
 頭の上に手を置いたまま、カイジの顔に顔を近づける。
「お前にずっと隠してたこと、教えてやるよ」
 内緒話をするような至近距離で声を潜めれば、カイジはごくりと唾を飲み込み、真剣な眼差しを俺に注ぐ。
 愚かなくらい素直なその目をまっすぐに見返しながら、俺はさらにちいさな声で、ぽそりと言った。

「実は……俺はな、神さまじゃねえんだよ」

 二、三度瞬きしたあと、一拍おいて、カイジの眉間に深い皺が寄った。

「……は?」
「お前はときどき俺のこと、神さまみたいだって言うし、そう思ってるやつは他にもちらほらいるみたいだけど、残念ながら、俺はただの人間なんだ」

 だから、たまには酔っぱらって説教もするし、病気で記憶をなくしたりもする。
 それから、不死身じゃない。いつかは、死ぬ。

「今まで、隠してて悪かったな。がっかりしたか?」
 おどけた態度で首を傾げれば、カイジはまたぶすくれた表情に戻る。
「……アホか! そんなことわかってるっつうの。オレも周りの人たちも、あんたのこと本物の神さまだなんて思い込んじゃいねえよ。あんまり、バカにすんなよな」

 いや、お前はわかってない。
 わかってるようで、ぜんぜんわかってない。

 俺は神さまなんかじゃなくて、ただの人間だってこと。
 別れの日は、必ずやってくるってこと。
 それはなんの予兆も前触れもなく、もう目前まで迫ってきているってこと。
 ただの人間として生きている限り、お前にだって俺にだって、『明日がある』なんて保証、どこにもないってこと。

 だけど、こいつは正常なんだ。
 きっと誰だって、明日は今日と変わらない平穏さで、当然やってくるものだと信じて疑わずに生きている。

 こいつは明日からもまた、せっせと働いてできたあぶく銭をギャンブルで溶かし、一日が終わる頃に涙目で『明日こそは』なんて思いながら眠るような、自堕落な生活を繰り返すんだろう。
 人生のところどころで、深くて暗い落とし穴みたいに待ち受けている、『別離』というできごとに、気がつきもしないで。

 そんな正常で、とんでもなく甘ったれなこいつが、いとしかった。



「……結局、教えてくれる気ないってことだろ。本当の隠し事は」
 ため息をつきながら、カイジは諦めたように呟く。
『もうこれ以上、隠し事なんてねえよ』とはぐらかそうとして、思い直した。
 少しくらい本当のことを言ってやらないと、かわいそうだ。
「……そうだな。まぁ、今はわからなくとも、いずれ、わかる日が来るさ」
 疑わしげな眼差しを送られ、俺は目を閉じて笑う。
 そのまま、ごろりと床に寝転がると、すかさず上からカイジの声が降ってきた。
「そんなとこで寝たら、風邪ひきますよ」
 咎めるような口調だが、その声に険はなく、耳当たりがいい。
 カイジがじっと俺の顔を覗き込んでいる気配が、閉じた瞼の向こうから伝わってくる。
 ひたむきなその気配を、やはりいとしく思いながら、俺は心の中だけで呼びかける。

 なあ、カイジ。
 俺は、死ぬことにしたんだよ。

「おい、赤木さんってば」
 カイジが俺を呼びながら、足を軽く揺さぶる。

 とんでもなく甘ったれなこいつの声で、名前を呼ばれるのが好きだった。
 俺の行動を呆れ顔で見守って、ため息をつくときの表情も。

 そういう記憶すべてを脳味噌が手放してしまう前に、俺は『明日』を手放すことにしたのだ。
 手筈はもうとうに済んでいるし、日取りも決まっている。
 たぶん、生きている間にこいつと会うのは、これで最後になるだろう。

『明日があるなんて、思い込んでちゃいけねえぞ』
 俺の最後の説教を、こいつは後々、思い出したりするんだろうか。
 それで、ひとりこの部屋で、泣いたりするんだろうか。
 嗚咽に震える背中を想像してみる。やっぱり、いとしかった。

 カイジに見守られながら、眠りに向かう意識はふわりと浮き上がる。
 呼ぶ声が、だんだん遠くなっていく。

 いとしいこいつの傍らで、ひさびさにぐっすり、よく眠れそうな夜だった。







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